塩川寶祥伝(その七)
昭和二十七年、空手道の普及に努められ、偉大な足跡を残された摩文仁賢和師範が亡くなられた。
摩文仁先生の生前から分派の動きはあったが、先生の死と共に一挙に糸東流派は分裂して行くことになる。そのゴタゴタに嫌気がさした塩川先生は、下関に帰ることにした。
後年、つまり平成八年四月、少林流空手道、崎向師範は、私に仰られた。
「谷さん、日本の武道家は何故にああも、ゴタゴタ派閥争いをするのですか?」
「先生、武道界だけではありません。野球、バレー……あらゆる団体にそれが見受けられます」
私は、このように返事をした。思うところは色々あるのだが、とても一言では言い表せない問題である。機会があれば、この連載の中で意見を述べることがあるかも知れません。
崎向先生は、アメリカのデラウェア州に鎮東館道場という本拠を構え、四十数年に渡り、全米で武道の普及活動を為されている。少林流空手道を中心に、居合道、杖道を教授され、居合道、杖道については、塩川先生を師として仰いでおられる。
「谷さん、アメリカでは、武道家は常に人格者であることが求められます」
そう言われた師範は、米国で幾多の修羅場を潜って、今日の地位を築いた人とも思えず、おだやかで、ニコニコ話される方であった。
昭和二十五年六月に、朝鮮戦争が勃発した。この頃を境にアメリカの日本に対する態度が急変した。それにともない米兵の狼藉に対しても、MPが厳しく取り締まるようになり、けしからぬ振る舞いも激減する。
昭和二十七年に下関に帰った塩川先生は、惜しいかな単独自警団の活動を終演させてしまった。溶接技術を持っていた先生は、造船所で臨時工として働くかたわら、摩文仁先生に指導を受けた空手を教えたいという気持ちになっていった。
ある日、先生は、柔道場に見学に出向いた。(道場破りではありませんよ。念のため!)食糧事情が厳しい中、そこでは、まだ十代だと思われる若者が、汗を流しながら必死に稽古に励んでいた。稽古後、空手の話しをしたところ、話しには聞いていたが見たことはないと言う者ばかりで、異常に興味を示した。その中の二人の青年が、楠田喜久夫、新宅義明である。両名は、柔道三段であり山口県柔道界の逸材として将来を嘱望される存在であった。
若者は好奇心に満ち溢れている。特に強さにあこがれを抱く者にとっては、空手道という未知な武道に強い興味を持ったのも自然なことであった。
この両名を中心に、七、八名で空手道同志会を結成し、学校の校庭や、公園で稽古を始めた。これが後に日本空手道会、つまり塩川派糸東流となっていく。
丁度この頃、進駐軍に許され昭和二十七年に復活した全日本剣道連盟の、戦後初めての昇段審査があると聞き、塩川先生は、矢も盾も堪らず京都の武徳殿に向かった。時は、昭和二十八年三月のことであった。何をしに行ったのか? むろん昇段審査を受けに行ったのである。しかし、ここまでの先生の経歴で剣道の修行をした痕跡はない。せいぜい、祖父の義重じいさんに手ほどきを受けたか、辻斬りをしたぐらいのものであろう。
塩川先生はこの時、剣道五段の免状を受けている。
「先生、初めての昇段審査で五段というのがあるんですか?」
という私の質問に先生は平然として答えた。
「普通はまずないだろう」
「では……なぜ?」
「戦後初めての昇段審査だろ、長い間審査がなかったんで、修行年数により飛び越し審査を認める特例があったんだ。剣道歴を記入して受ける段位を申請するんだ」
「先生、剣道歴は無いですよね」
「うん、無い。海軍で稽古したとか、竹内流の古流を学んだとか適当なことを書いたよ」「それで?」
「さすがに、向こうさんも不審に思ったんだろう。まず初段の部で試合をしろといわれたよ。初段の部で勝った。次は二段の部だ……」
先生は、二段の部、三段の部、四段の部と勝ち続け、五段の部で七人抜きを成し遂げた。都合、十一連勝の負け知らずで審査会を終えた。
「おかしいと思いながらも、剣道連盟は五段の免状を出さざるを得なかったんだろうな」「……先生、ちょっといいですか?」
「なんだ」
「あのぉー、先生…防具は?」
「ああ、空手をやっていた大上に借りたよ。その時、防具の付け方も習った」
私は、あきれると同時に可笑しくなって笑ってしまった。
「その後、錬士の称号が来たが、ばかばかしくなってあの審査日以来、剣道は止めたよ」「先生、凄いですね!」
「凄くも何ともあるもんか! 儂は、空手をやっていたが、剣道といえば日本武道の本流だ、奥が深いと期待していた。しかし、違った。その後、居合、杖道等々色んな武道をやったが、儂は七十歳を過ぎた今、はっきり言える」
そう言う先生は、珍しく真剣な顔をされている。
「何です。先生!」
「いいか、谷、良く聴け。武道なんてものは底が浅い。本当に底が浅いんだぞ!」
なんてことを言うんだこの人は! 武術を極めた老師範のいうことか! しかし、実に塩川先生らしい。普通はもったいぶって、深遠な精神論を説くことだろうが、先生に限ってはまったくそんなことは無い。納得出来るんです。あくまでも、塩川寶祥に限ってである。ここん所、間違いなきよう。
剣道五段を取ったその足で、関東に行き道場廻り(破り?)とあいなった。強いと聞けば何処へでも行かざるを得ない因果な性格の塩川先生である。当時、最も勢いのあった、四谷の日本空手協会の門も潜った。
当時の試合は、一応止めて当てないという暗黙の了解はあったが、他流試合となると、手や足が折れて動けなくなることも普通だったので、倒れた時に相手の道場に迷惑を掛けず、連れ帰ってもらう為に付添人が同行するのが礼儀だったという。だったら、道場破りなどしない方が、はるかに礼儀にかなうと私は思うのだが?
「おい、谷、さすがに空手協会だ。ずいぶん道場を回ったが、あそこほどきちんと応対した道場は無かった」
中山主席師範が挨拶をされ、「私の所は、船越先生に他流試合を固く禁じられている。指導員研修会があるので、その時に、一緒に稽古しましょう」と言われたそうである。
次の日に、昇段審査があるので、よろしければ来て頂きたいと依頼された先生は、翌日一人で協会に行って審査に立ち会った。
「翌日行ったら、案内されてテーブルの前に座らせられた。○×を付けてくださいと言われて、審査用の紙を渡されたんだが、ありゃあ参考になったのかいな?」
初見の道場破りである。それが会った翌日、会派に取っては神聖な昇段審査の場に、得体の知れない者を審判として遇することがはたしてあるのだろうか?
もしかすると、糸東流の塩川という名は、関西地区では乱暴者として鳴り響いるはずである。先生が知らないだけで、噂は関東にも伝わり、技術的にそれなりに評価をされていたのかも知れない。そうでなければ理屈が合わないではないか。
後日、ガリ版刷り(この意味が分からない若者も多いんでしょうね?)の協会月報が下関に送られてきた。そこには、『糸東流塩川照成師範が昇段審査に立ち会い……合格者は……』とあったという。(正確には、塩川先生が摩文仁賢栄先生より師範免状をもらったのは、昭和三十三年であり、この当時は師範ではなかった)
その時の合格者がまた凄い。西山英峻四段、金澤弘和二段、三上孝二段となっていたらしい。(当時の協会の段位制度は五段制だったと思われる)
この月報を私は眼にしていない。しかし、読んだ者の証言も多く真実だと思われる。もしかしたら、空手協会の資料室に保存されているかも知れない。
結局、日程の関係というより、滞在費が底を突いたので、先生は協会の指導員研修会に、参加できなかった。
「中山さん、高木さん、協会の師範は本当に紳士だった」
よほど先生は気に入ったのか、数年後、東京に一時居を移したときには、長女の成子さんを、協会の中山師範に預けている。
昭和二十八年には、ついでにと言っては申し訳ないが、沖縄古武道七段を取得している。糸東流の高丸治二理事長に誘われてのことであった。
塩川先生の沖縄古武道については、摩文仁賢和直伝とかの伝説が色々流布されているが真相を暴露しましょう。
「空手をやるからには、武器術も知る必要がある。しかし、糸東流にはその伝承が無い」との高丸理事長の発案で、沖縄古武道の研究会を開こうという話しが実現したのだ。講師は、当時その道の第一人者として知られた平信賢師範であった。
講習会は連続一週間行われた。講習を受けたのは七人か八人だったそうだ。
「先生、それで七段の免状を頂いたんですか?」
「そうだよ」
「抜群に巧くできたんですかね?」
「そんなもんじゃない。初めから講習を終えたら、六段の免状を出すという約束になっていたんだ」
「そうなんですか……」
弟子としては、ちょっと残念。
「ところが、考えても見ろ。受講者は糸東流の師範クラスばかりだ。自分の道場を持っている者も多い。後々までも信賢先生について指導を仰ぐわけがないだろ。そう思わないか、谷!」
「そ、そうですね……」
「どうせやるなら、八段と言うわけにはいかないだろうが、六段も七段も同じことだ。信賢先生は免状料が多く取れる七段にしたわけだ」
私は、何も言っておりません。塩川先生がそう仰ったのです。異論のあるかたは、どうぞ、先生宛に抗議して下さい。
講習会において、塩川先生は、サイ、トンファー、昆、ヌンチャク、鎌等々、一応沖縄武器術の主だったものは教わった。
その時に講習を受けた仲間の一人に、林輝男氏がいた。後の、林派糸東流宗家、林輝男師範その人である。
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