師とその周辺







塩川寶祥伝(その八)




 とにかく、この頃の先生はやたらと忙しい。書いている私の目が回るほどである。せっかく作った、空手道同志会の会員も増え指導しなければならない。ところが、塩川先生ははたと気が付いた。殴り合いの稽古台にはなれても、肝心かなめの型を知らないのだ。興味がなかったので、ほとんど稽古もしていない。(この先生、本当に真面目に空手の稽古をしたのだろうか?)
 ところが、人に教えるとなるとそうも言っておれない。大阪に行っては、高丸理事長に型を習い、帰って弟子に教えるというとんぼ返りの毎日であった。その合間に、生活のため造船所の溶接工として働いた。

 このくそ忙しい時期に、先生は居合との出会いをする。紹介者は空手道の兄弟弟子、坪尾忠春師範であった。
 坪尾師範は、昭和二十六年頃から、無双直伝英信流宗家、河野百練師範に師事しており、この頃、塩川先生は河野師範を紹介された。また、同流の石井悟月師範とも知り合いになった。
 昭和二十九年には無外流宗家、中川伸一師範も紹介された塩川先生は、無外流居合を始めることになった。

 杖道との出会いは、昭和三十一年、東大阪の布施の公民館であった。この公民館で、先生の仲間が空手の指導をしており、応援に行ったのだ。たまたま、同じ場所で杖道の稽古をしていた。
 先生はしばらく、杖道の稽古を見学していたが感心してしまった。沖縄の昆よりはるかに実践的だと思えた。その時、杖道の指導をしていたのが中島浅吉師範である。いらい、中島師範と塩川先生は切っても切れない仲になっていく。(実は、ある事件が元で、後年切れることになるが)
 この公民館の後日談がある。ある日、集団による道場破りがあり、空手の場所を他流派に取られてしまったそうである。そして、こんどは、糸東流が集団で押しかけ、取り戻したという。現代の、平成の世の中ではとても考えられないが、五十年前はそうだったらしい。こんな程度では、社会秩序の維持には触れないらしく、警察も出てこない。なんとも凄まじい時代ではある。
 

 私の書くスピードも早くなって、頭がヒートアップして来たのでこれからは、意識的に少し落ち着くことにする。
公園、保育園等の場所を転々として、空手の指導をしてきた先生が道場を持ったのは、昭和三十年の春であった。場所は彦島の弟子待町。(弟子待“デシマツ”という地名の由来は、巌流島の決闘の時、佐々木小次郎の弟子が、この場所で師の帰りを待っていたという故事による) 
 トタン屋根、バラック建の道場であるが、塩川先生にとっては、掛け替えのない稽古場、念願の道場であった。

 いま私は、その頃の道場の前で取った記念写真を見ている。塩川先生も若い。髪の毛がふさふさしている。新宅義明、楠田喜久夫、光広勝人の塩川門下三羽ガラスも本当に若々しい。十二人写っているが、全員満面に笑みを浮かべている。
 今現代、人々の顔に、このような清々しい笑みを見ることはまずない。まだ日本が豊かでなく、物資の乏しい時代であったが、この底抜けの明るさは何だろう? 現代人が見失った、青空のような生命の健全さを私は感じてしまうのだ。
 後ろに、看板が見える。『日本唐手道、下関同志会、拳聖館』となっている。この当時はまだ、唐手という文字が一般的であったのだろうか。

 ついでに、唐手から空手に変更されたのは、仲宗根源和氏の主催による、沖縄の大家が集まった席であった。会議の資料が何処かにあるはずだが、酔いが回ってきて、面倒くさいので探さない。
 記憶によると、宮城長順、知花朝信、屋部憲通……、伝説の沖縄の名人の勢揃いであった。その場で、本土の大学生の一部が空手という字を用いている。唐手よりも空手の方がいいのではないかとの提案が仲宗根氏よりなされた。それぞれ意見が出たが、いろんな人の意見を聞いて決めようという話しに落ち着きそうになった。
 そこで仲宗根氏が発言する。
「この問題を、この場に居られる先生方以外に、誰に聞けばいいのですか。この場で決まらないのなら永久に決まることはないでしょう」
 けだし名言である。そして、空手とすることが決定した。私は今、記憶を元に書いている。あまりに有名な話しなのでわざわざ書くことのないのだが、ご存じない方も居られると思うので、蛇足まで。

 塩川先生の道場の話しに戻ろう。全景が写っている写真がある。畑の中にポツンと一軒だけ立っている。少し外れた所には、どぶろくの密造場所があったらしい。寂しい野中の一軒家に、夜になると明かりが灯った。あたりは闇である。物騒な所で、暴漢に襲われた女性が逃げ込んできたこともあったという。
 五十年後の今日、道場は新しく建て替えられ、周辺は立錐の余地もなく住宅が建ち並んでいる。
 空手という物珍しい武道が下関に根付いたのである。噂は広がり、会員は急増した。バラック建の道場には入りきれず、道場前の道路に溢れ出て稽古は行われていたらしい。


 この当時、日本各地で空手の大会が行われるようになった。日本選手権大会、全日本大会と銘打たれてはいたが、実態は各流派の大会であり、流派を超えた本格的な全日本大会は、昭和三十九年の全日本空手道連盟の設立を待たねばならなかった。
 しかし、飛び入り参加を認める所も多く、また、他流派でも申し込めば参加できる柔軟性はあった。
 昭和三十一年から、塩川門下による大会荒らしが始まった。主人公は、新宅義明、楠田喜久男の当時二段の青年であった。
 進駐軍後援の第一回全九州空手道大会が開催されたのは、昭和三十一年であった。開催されることを新聞で知った塩川先生は、弟子の新宅、楠田を連れて会場に乗り込んだ。擦った揉んだがあったが、会費を払い何とか出場することが出来た。いわゆる、飛び入り参加である。

「ユーの弟子は二段だ。俺は五段だ、俺と戦え!」
 と迫ってきた大男は、新聞で前評判の高かったスロマンスキーという軍人だった。身長が肩ほどしかない塩川先生を見下ろし傲然と胸を張った。
「分かった、弟子を倒したら、俺が戦おう」
 そう言って、塩川先生は不敵に笑っていたに違いない。このスロマンスキーは、『山口剛玄も老いた、今日本で一番強いのはこの俺だ』と豪語していたそうだ。

 スロマンスキーと対戦したのは、新宅さんであった。第一戦のことである。最初は止めていたのだが、スロマンスキーが納得しないために、新宅さんはついに叩きのめしてしまった。一方、楠田さんも第一戦で、優勝候補とされていた選手を倒した。
 進駐軍が後援だったためか、空手もろくに知らない腕自慢のボクサーも多く出場していた。彼らは殴らなければ分からないため、遠慮せずにぶん殴ったそうだ。
 そして、最後に勝ち残ったのは、楠田、新宅の二人であった。困ったのは、大会役員である。塩川先生の所へやって来て、審判をやって欲しいと言った。この二人の審判は出来ないと思ったのだろう。
 審判となった先生は、頃合いをみて、年長である楠田の勝ちを宣した。
「二人で戦って、怪我でもされたんじゃつまらんからのう」
 と先生は申された。
 個人優勝者に渡されるはずの、進駐軍寄贈の優勝カップは、団体戦の優勝者に回されたという。
 優勝カップこそ、取り逃したものの、新聞に大きく報道されたため北九州、遠く広島からも入門の問い合わせが相継いだそうだ。

 それ以後、楠田、新宅の大会荒らしが始まった。時代は道場荒らしから、大会荒らしの時代に進化していったのだろう。二人の大会荒らしの足跡は、関西方面まで及んでいる。
「交通費、宿泊費、参加費と金がかかるんだぞ」
「先生、確かにそうですね」
 私は納得する。
「あいつらは、若くて金を持っておらん。俺が出すしかないじゃないか。俺とて金は無い。
とても、関東まで行かせるわけにはいかんだろうが」
 という次第で、二人の大会荒らしが終焉を迎えたのは、もっぱら金銭的理由による。
しかし、役得が無かった訳ではない。楠田、新宅、両名の先生だということで塩川先生も有名になっていった。
この当時、道場破りは止めてはおらず、光廣勝人さんはまだ続けていたらしい。大会に塩川先生が顔を出すと、色々と苦情を言われたために、道場破りは一応禁止した。
 光廣勝人師範の名前を覚えていて欲しい。あとの杖道に関する話しで出てきます。


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