師とその周辺







塩川寶祥伝(その九)




 楠田、新宅と呼び捨てにしたり、さん付けで書いたりしていますが、むろん後年は師範になっておられます。当時、二段だったということで お許し願いたい。

「今日までの俺の弟子の中で、一番強かったのは、やっぱり新宅と楠田だな。二人を比べたら、新宅の方が上だった」
「そうですか、新宅先生の方が……」
「ああそうだ! そして、岩目地、これは天才だ!」
 ここで、我が一貫堂塾統、岩目地光之師範の名が出てきました。

 なにはともあれ、私は、新宅、楠田師範と面識があります。今は亡き楠田師範には、私の昇段審査の時、審査員をやって頂きました。背の高い、おだやかな紳士であったのを憶えています。
 新宅師範には、一時間にわたって直接お話しを伺ったことがあります。噂に聞いた通り、潔癖で筋を通す礼儀正しい人でした。
新宅師範は昭和五十年代の初め頃には、空手を止めておられます。当時、空手道7段、杖道錬士5段、居合道5段でした。
 空手を止めた理由を伺ったところ、
「空手というわけではないんです。武道界が厭になったんです。流派の正統は俺の師匠だ。いや違う、こちらが本物だと足を引っ張り合います。不毛な中傷の飛び交う、嫉妬深い武道家たちに、私は耐えられなくなったんです。止めて良かったと心底思います」
 という返事が返って来ました。そして、まさに、この文章のように新宅先生は、発言されたのです。
 つまり、遙かに年上の伝説の強者が、私ごときに対しても敬語を使われるんです。新宅先生の言われた話しを、最近私は、実感として感ずることが出来ます。時代は変わっても人間の本性に進歩ということは無いようです。悲しいことですが。

 我が、一貫堂の山田宏師範は、現役時代の新宅先生を知っています。 
「あの人は、本当に強かった! 道場の稽古で、二段、三段クラスが十数人、次々に掛かっていいったのを見たことがある。その十数人が、床に倒れ、あるいは腹を押さえて唸っているのに、新宅さんは、驚いたことに呼吸も乱してなかった。あんな人はまずいない!」
 塩川先生も言われます。
「新宅と組み手をするときは、俺も真剣だった。とても油断なんて出来るもんじゃない。他の弟子のように、軽くあしらうというわけにはいかなかった」
「今のお弟子さんの中にも、強い方がおられるじゃありませんか?」
「まあ、そこそこにはな。しかし、俺は思うんじゃがな、先生が弱くなると、弟子も弱くなるぞ。老いては麒麟も駄馬にも劣るじゃ!」

 岩目地先生はこれを認めません。老いて弱くなるのは、術が出来ていないだけの話しだと仰るのです。そして、続けられます。
「だから私も駄目なんです」と。
「では、先生、老いて行くに従ってますます強くなる。そんな人がいるんですか?」
「植芝盛平先生です」
 そう言い切ってしまいます。この件については、岩目地先生の人となりを、もう少しあきらかにしたところで、書こうと思います。


 話しを戻しましょう。
 昭和三十三年に塩川先生は、すでに取得していた七段に加え、摩文仁賢栄先生から空手道師範免状を頂いた。そして、三十五年には全剣連杖道五段(当時は五段制)、居合道五段をもらっていた。
 昭和三十六年、下関に空手を立ち上げた時からの同士で、剣道の昇段審査のとき防具を借りた大上保氏の勧めで、拓殖大学療科の東洋鍼灸専門学校に行くことに決めた。
「塩川さん、武道じゃ飯が食えんよ。ここは頑張って、鍼灸の資格を取ったらどうだね」という、勧めに従ったのだった。
 予科練以来、不思議と入学試験を得意とする先生は、合格してしまう。後の国家試験ももちろん合格した。
 こうして、先生の東京での生活が始まる。むろん、下関の空手道場拳聖館の面倒も見る。関西では、中川伸一師範、中嶋浅吉師範の居合と杖道の指導のお手伝い。さらに東京で学生生活。一日の睡眠時間が三時間を超えることは無かったというのも頷ける。

 この昭和三十六年には、もう一つの事件が勃発した。無外流中川伸一宗家による、次の十二代宗家石井悟月師範の破門騒動である。あまり触れたくはないのだが、やはりやり過ごすわけにはいかないだろう。
 石井悟月師範は、塩川先生とも親交の深かった無双直伝英信流宗家、河野百練師範の後を継ぐだろうと衆目の認めるところであった。しかし、宗家は石井師範の処へは往かなかった。その理由は? 
 この辺になると諸説紛々、宗家が誰の処へ往ったのかも諸説あるらしく訳が分かりませんが、私としては、塩川先生説を聞きました。しかし、ここでの公表は差し控えます。
 何故、あの大家河野百練師範が、塩川先生に『剣兄、剣兄……』といって何度も、へりくだった手紙を送っているのかも、これも不思議といえば不思議です。
 ともかく、それやこれやで、石井師範は門弟百人(五十人から二百人までの説あり)を引きつれ無外流の門を叩いた。喜んだのは中川先生である。すぐにも次代の十二代宗家を譲ってしまった。
 塩川先生は、この石井師範の居合が好きでよく教わった。
「いろいろの居合と接したが、悟月さんの居合が一番だった」
 先生の言ういろいろは、大変なものである。紙本栄一、壇崎友影、河野百練などの、師範を含んでのことですから。
「中川宗家はどうでした?」 
「こういっちゃ悪いが、中川先生は、武道家というよりも、むしろ学者だった気がする……」
 すまなさそうに、先生は少し俯いた。先生にとっての価値判断は強いかどうかなのだから……まったく!

 ところが、石井悟月先生は、門弟を引きつてこんどは、剣道連盟に走ったのだった。石井先生が無外流に属していた期間は、三年弱である。
 怒り心頭に発したであろう中川先生は、石井先生の罵倒する手紙を塩川先生に送りつけると共に、『石井悟月に渡したのと同じ免状を渡すから、高野山に来い』と命じた。
 何が何やら訳の分からぬ塩川先生は、高野山で免許状を渡された。中川先生からの、怒り心頭の手紙を、ここに書こうかとも思ったが、面倒くさいのでやめる。

 今日、塩川先生は無外流正統十五代宗家を名乗られている。
「中川先生は十一代を名乗っていたが、ある時、俺に言ったよ。よく調べてみると、前にもう二代あって、先生は十三代になるとな」
「では、先生。十四代は?」
「石井悟月さんだよ」
「石井先生ですか? それって……」
「ああそうだ、文句があるなら何時でも言ってこい。相手になってやる」
 塩川先生は、すべからくこうである。破門になった石井悟月先生が十四代? そんなことがあるのだろうか? では、石井先生から、塩川先生は宗家を受け継いでいるのか? そんなことは無いはずだ。自分がそう決めているだけである。では、石井先生から受け継いだ人が、無外流宗家を名乗ることもありうる理屈になり、そちらが正統になってしまわないだろうか。
 ようは、先生お得意の「理屈は、ええんじゃ、勝負で決めよう」である。

 本来は、ここまで書いて東京時代に移る予定であったが、宗家問題が出たので、次項では、もう少しこの問題に触れてみたい。


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