塩川寶祥伝(その十)
塩川先生は、無外流十五代宗家を名乗っておられる。しかし、無外流にはもうひとかた宗家がおられる。小西御佐一師範である。
小西先生は、糸東流空手道では塩川先生と兄弟弟子。居合と杖道では塩川先生の弟子という関係である。
高野山で免許を受けた塩川先生は、約束通り宗家を譲ると言われてビビッてしまった。(命知らずの先生でもビビルことがあるのだ)
今はいざ知らず、当時のことである。塩川先生は、石井悟月師範が河野百練師範の後を継げなかった理由を考え(塩川先生の話によると大変なことでる)、むしろこの頃から、中川先生を避けるようになった。
そして、姫路在住の小西先生に、中川先生の面倒を頼んだ。その後、塩川先生は中川先生の許可を得て、全剣連に所属し大活躍をする。現在の中国、四国、九州の範士の皆さんは何らかのかたちで、塩川先生のお世話になっているはずである。神道無想流杖術二十六代の統、全剣連範士九段であった乙藤市蔵先生ですら、居合に関しては世話になっているほどだから。
ようは、弱小流派であった無外流を、全国区にしてしまったのである。しかも、ほとんど独力で。しかし、中川先生との縁はますます薄くなっていく。
歳月は過ぎ、中川先生は晩年、六人の弟子に免許皆伝を渡した。その中に塩川先生は入っていない。小西先生は入っていた。
皆伝をもらった小西先生は、さっそく下関の塩川先生のもとに行き、事情を説明して皆伝の巻物を塩川先生に預けた。
「見てみろ、これが無外流の皆伝だ」
と言って、塩川先生は中川先生より小西先生に渡された巻物を、私に見せてくれた。
「小西は筋を通す男でな、俺が皆伝を出す時に一緒にくれと言って預けたんだ」
小西先生は、古武士のようでもあり、浪花節のように情のある先生でもある。
平成十二年、塩川先生は自らが発行した皆伝と共に、預かっていた中川先生の皆伝を小西先生に渡した。そして、十六代宗家を継承とあいなった。小西先生は十六代を譲られるとき、岩目地先生の了解も得たという。塩川先生の本心は、以前から岩目地先生に譲りたかったようだが、岩目地先生が拒否したという経緯もある。マジで、岩目地先生と言う男は、師匠の言うことを身も蓋もなく拒否するんです!
では、拒否する理由は? 私は言い切ります。煩わしいんです。下手に受けると、責任が生じるのが厭なんです。武道は大好きな先生ですが、岩目地先生にとって、段位、称号、巻物は煩わしい以外の何物でもないんです。後に書きますが、先生が空手道、七段、八段を塩川先生からもらったときの逸話は、ハッキリ言えば無茶苦茶です。
無外流に取っては、万々歳である。小西先生は中川伝の宗家も頂いておられる。たまたま期せずこれが、同じ十六代。よって中川伝と塩川伝の、二つの流れが一つになったのだ。 ところが、そう単純行かないのが武道の世界である。そうなっては面白くない人たちもいた。それぞれの思惑が絡み合い、結果的に二人の仲は裂かれることになる。
「私の武道家としての人生が、こんなに豊かになったのは、塩川先生のおかげである。本当に感謝している」
と、私に申されていた小西先生であるが……。
そう、まじで裂かれたのである。四十年に及ぶ二人の仲が……げに、恐ろしきは人間の欲望である。(塩川、小西の両師範も、例外ではあり得ない)
新宅先生の言っていた言葉が、ズンと胸に応えた。
単純に言えば、居合だけではなく、杖道も含めた塩川先生の跡目相続の争いである。決して珍しいものとは言えないだろう。ヤクザの世界ではしばしば見受けられることだ。
しかし、これを堅気の人間がやると見るに耐えない。ヤクザは自分たちが何をしているか認識している。そこに救いがある。
堅気の場合は、それぞれが正義を振りかざすのである。本当にそう思っているから、まったく救いがない。
人ごとでは無い。武道だけではなく、世の中で日常的に行われている遺産相続の争いも同じことである。相続財産の多寡はあるだろうが、問題はその心理である。自分が正義であると誰しもが思っている、その一点のみが賤しいのである。
塩川寶祥の跡目相続に関するもめ事の詳細については述べない。なお、私が六年前に居合を止めたのは、そんな理由からではない。単純に、やってて面白くないからである。
杖道の世界については、後に述べるが、これまた欲望の渦巻く世界であることは同じであった。乙藤市蔵先生の跡目相続争いである。
話しを、元に戻すことにする。高野山を後にした塩川先生は、その足で東京へと向かった。東京では、また一騒動起こしてしまう。実際先生は、昭和の時代に武者修行をやってるつもりなのであろうか。
とりあえず、先生は西武新宿線、花小金井にアパートを借り、東洋鍼灸専門学校に通う学生となった。
しかし、どう考えても真面目な学生だったとは思えない。
下関、近畿、東京と席の温まる暇のない先生のことである。とても、真面目に授業を受けられる筈がないではないか。
「先生、真面目に学校へ通ったんですか?」
「おっ、試験は全部合格したぞ」
と先生は、論点をずらす。
「本番に強い先生のことだから、それは分かりますが、授業の方はどうなんですか?」
私は、しつこく聞いた。
「まあな……出席日数が全然足りなかった。本来進級も出来なかったはずだが、奥の手をつかったよ」
「奥の手……?」
私の頭を一瞬“賄賂”という言葉がよぎった。
「厚生大臣官房から電話をしてもらったんだ。鍼灸学校は厚生省(現在の厚生労働省)には弱いんだぞ」
「そりぁあ、そうでしょうよ」
「ほぉー分かるか……あのな、こういうことだ。当時全国的に有名な鍼灸師の娘が在学していたが、こやつがほとんど学校に来ないくせに進級する。何せ教える教師が、親父の弟子なんだから、しょうがないわいな」
「なるほど、ありそうな話しですね」
「そこで、大臣官房からそのことを指摘させたんだ。学校は青ざめたと思うぞ。そして、ついでに俺の名を出してもらって、『官房では、いろいろ仕事をしてもらっておる。宜しく!』と言うわけだ。以来、教師の態度ががらりと変わった。出席してなくとも、皆勤ということだ」
先生は、ただの野人ではなく、その辺はすこぶる要領が良い男である。
「なるほど……それは分かりますが、先生、厚生省にコネがあったんですか?」
これが何とも、聞いてびっくりのコネであった。
昭和三十七年、警視庁第四機動隊でのことであった。警視庁の剣道師範を交えた、剣道家を前にして、先生は武道(居合、杖)について大口を叩いていた。
しだいに、『若い空手家がなにをいうか!』という雰囲気が、その場に拡がっていった。「実際に剣を使うとそうはいかない」
という話しになり、警視庁剣道師範が塩川先生に立ち会いを求めた。
いかに腕に自信のある、強面の剣道師範と言えども、先生とは踏んできた修羅場の数がちがう。
「竹刀、防具では、自分は勝てない。防具なしの木刀でやりましょう」という話しになり、立ち会う。
道場内みんなは、見て見ぬふり。大口を叩いた空手家が懲らしめられるのを当然としているようであった。総責任者でその場にいた某範士も、あえて止めなかった。
剣道師範は、上段に構え、ジリジリと間合いを詰めてくる。塩川先生は、だらりと下段に構え動かない。素面に木刀による勝負の緊張感からか、相手の肩に力が入っている。
「どういうわけだか、いつも勝負の時には、相手は肩に力が入るんだよな? それじゃ動きが鈍くなるだろうに……」
(当たり前だろうが! 平然と勝負出来るのは、あんたぐらいのもんだぞ!)
相手が、斬りかかって来た! 切っ先を紙一重で交わすと、先生は、下段からそのままスーッ、と突きを入れた。突きは、相手の胸板を貫き、すぐに救急車で病院行きと相成った。
前置きが長くなったが、その場に居合わせた某範士は責任を取らされ、警視庁から左遷された。その行く先が、厚生大臣官房というわけである。
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