師とその周辺







塩川寶祥伝(その十一)




 塩川先生は、東京に出てすぐに、当時の警察学校の道場で、杖道の稽古も始めた。今その場所は、日本武道館に建て変わっている。
 当時は、第五機動隊までしかなく、各隊の隊長である、吾妻、黒田、米野、広井、神之田、という杖道の先輩の中に入って稽古をした。青い眼の武道家、ドン・ドレーガー氏とも懇意になった。

 ドン・ドレーガー氏、この人は大変な人物である。詳しく知りたい方は、「日本杖道会(会長、神之田常盛)」という、HPに出ています。
 塩川先生は、この東京時代も他流試合に精を出していた。強いと聞けば何処へでも行ったと言う。どうやら、その情報源の一つがドレーガー氏であったようだ。
 著名な空手家とは、ほとんど試合をさせてもらえなかったそうだが、意外なことに、剣道家、古武術家は戦ってくれたそうである。昔からの伝統のなせる技であろうか?
「まあ、仕方ないだろう。田舎の空手家には、勝って当たり前、もし負けでもしたら大変なことになるからな」
 先生は、珍しく分かったような理屈を言う。
「先生、鹿島神流の国井善弥師範は、どうでしたか?」
「国井……知らんなぁー、ドレーガーが、鹿島神流をやっていたが、聞いたことはないな。弱わかったんと違うか?」
 私は、何も言っておりません! 異議のあるかたは、お願いですから直接、塩川先生の方へどうぞ。

 ドレーガー氏について、もう一つ与太話を。
「おい、谷。余り知られてはいないが、ドレーガー、あれはアメリカの秘密諜報機関員だと思うんじゃ! 思い当たる不審な行動が多々ある。突然、ベトナムに何ヶ月も行ったりな……」
 この件に関しても、私は何も言っておりません。ただ、反証する材料がなかったので、黙ってしまいました。

 杖道の話をしてたんですよね。むろん、大阪の中嶋先生のところの杖道祭には必ず顔を出していたが、東京で清水隆次先生に指導を受け、仲間とともに稽古に励んでいた。
 五人の機動隊の隊長の中で、ウマがあったのは、黒田市太郎師範と神之田常盛師範であったようだ。
 後年、剣道連盟の黒田師範に対する扱いが、なっていないと言って、塩川先生はご立腹であったことがある。

 余分な話しではあるが、黒田先生は書道家としても大したもだと聞いた。
 大森曹玄老師は言わずもがな、このエッセイの第三項に名前の出た、光厳流宗家、辻宗賢師範、そして、居合、杖道においては、塩川先生の弟子である、沖縄剛柔流、甲斐国征師範は書道家としても有名である。
 神之田師範、塩川先生、岩目地先生の毛筆も極めて味がある。河野百錬師範に至っては、味があるを通り越して少し変である。
 武道家は、往々にして書に通じている。書はある意味で現実である、半紙に書かれている実態があるのだ。
 ところが、良く見受けられるが、生半可に“禅”を持ち出す武道家。彼らを、私は信用しない。

 杖道に戻ろう。横紙破りの塩川先生が、二十七代の統を名乗らない理由は、
「カンちゃん(神之田先生)に、遠慮しちょるんじゃ!」
 と言うことである。
『文句があるなら、何時でも来い。勝負だ!』
 と言いっても不思議でない先生ではあるが、情も並以上に深いことは言っておく必要があろう。

 私の知人で、武道研究家の某氏は言いました。
「塩川寶祥、この先生は最後の武術家だ! これからの社会情勢を考えると、このような人は今後、まず出現することはないだろう。一方、岩目地光之、この先生は大したものだ、道場武道であそこまで行けるものなのか? おそらく何万人に一人いるかどうかだろう」
 私も頷けるんです。岩目地先生は、歩いているだけ、極端に言えば立っているだけで、尋常ではないのです。これは、武道を知らない素人が見ても分かります。
 そして、塩川先生、この先生は、演武を見ただけでは何処が凄いのか、非常に分かりづらいのです。素人が見たら、田舎の爺さんとしか見えないかも知れません。もっとも、対戦したらその凄さが分かるでしょうが、その時はもう手遅れかも知れません。

 岩目地先生は、私にはっきり申されました。
「私は、塩川先生に遙かに及びません。とても、かないません!」
 ポンタル君が私に言いました。(このHPでおなじみの)
「このお二方は特別です。道場に入ってこられただけで、その場の空気が変わるんです。こんな人は、いまだかって見たことがありません」
 ポンタル君の言う意味が私にはよく分かります。事実、私もそう感ずるんですから。

 ついで、と言っては申し訳ないんですが、杖道について一言言わせて下さい。二十六代の統、乙藤市蔵先生が亡くなられてだいぶ経ちますが、未だに二十七代の統を名乗られる先生を私は耳にしておりません。
 恐れ多いことですが、
「儂が死んだ後のことは、すべてを神之田に任せる」
 と、乙藤先生が発言されているテープを、私は所有しております。これって、二十七代の統のことですよね?


 このエッセイは、構成もなにもあったものではなく、思いつくままに書いています。ただ一つルールがあるとすれば、だいたい時系列に並べているということです。ただし、編年史を書くつもりはありません。よって、それぞれのエピソードを続けて書くこともありますので、その点はご容赦を。
 本来ならここで、塩川先生と杖道の関わりについて書いていくべきでしょうが、そうすれば、他のことが疎かになりそうなので、取りあえず時系列に戻しましょう。

 時系列と言うことになれば、昭和36年の日比谷公会堂の古武術大会の話しになってきます。つまり、大森曹玄老師との出会いです。詳しい経緯は、このHP、師とその周辺の序文に、老師よりの手紙文も載せて書いていますので、そちらを参照して下さい。
 
 世間は、狭いという逸話を一つ。
 我が一貫堂六本木道場の会員に、「ヒロシ」という男がいます。そうです、くそ真面目で、中国人女性が大好きだと紹介している、あの男です。入門五年、現在空手道一級ですが、かれは剣道家で、直真影流の極意伝を受領しております。偶然にも、この“師とその周辺”の序文に書いてある、曹玄老師と塩川先生の仲を取り持った、市川師範の門下だったのです。
 私がヒロシに、日本空手道会創立四十五年誌を贈呈したところ、彼は市川先生にその本を見せたのです。
「塩川先生だ! 懐かしいな。大森先生と一緒に、居合を教わったよ。あっ、この写真は俺だ! 若いな! ぜひ、先生にお会いしたいものだ」
 と市川先生が申されたという報告を、ヒロシより受けました。さっそく私は、塩川先生に言ったところ、「市川さん! おれもなつかしいよ!」と言う返事を貰いました。
何とか機会を見付けて、対面して頂きたかったのですが、ほどなく市川先生は鬼門に入ってしまわれました。

 さらに余談を一つ、ヒロシは本当に中国人女性と結婚してしまいました。むろん、紹介文に書いた当時、付き合っていた女性とはちがいます。上海大学を卒業した才媛で、中国企業の駐在員として東京に来ていました。
「おい、どうして知り合ったんだ?」
 と言う私の質問に彼は答えました。
「上野公園でナンパしたんですよ……」
 その言葉を聞くやいなや、私はヒロシの頭をブッ叩きました。後日、一貫堂六本木道場のみんなで、彼女を招待し、居酒屋で祝杯をあげました。
 彼女の父親は、内モンゴル自治区に住んでおり、以前は音楽教師で胡弓が得意だそうです。胡弓に夢中だった青春時代に文化大革命で酷い眼にあったといい。今は老いて、夕暮れ時になると公園へ行き、一人で胡弓を弾いておられるそうだ。ここにも、一編の物語があるが本編とは関係ないので、ここまでにしておく。


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