師とその周辺







塩川寶祥伝(その十二)




塩川先生は、昭和三十八年春には、柔道整復師、鍼灸マッサージの国家資格を取得しました。同時に、今流行のカイロプラティックの資格も得ております。
「先生、何でも取るんですね?」
 全部英文で書かれた、カイロプラティクの免状を見ながら私は尋ねた。
「ああ、貰えるものは何でも貰うさ。役に立つことが、あるかもしれんからな」
 こういった点は、先生、結構したたかです。
 同じような感じでしょうか、塩川先生の本質には、あまり意味のないことかも知れませんが、このころ取得した段位、称号を列挙してみます。
 昭和38年 5月 5日 居合道七段(全日本居合道連盟)
 昭和38年 5月 5日 居合道六段(全日本剣道連盟)
 昭和38年 5月 5日 居合道錬士(全日本剣道連盟)
 昭和38年 5月 9日 杖道錬士(全日本剣道連盟)
 昭和38年11月17日 十手術教士七段(大日本武徳会)
 昭和38年11月17日 鎖鎌術教士七段(大日本武徳会)
 昭和三十八年は、いったい何だったんだ? 五月五日は? 全居連と全剣連?
 
 意外に、こういうことに興味をお持ちの方も多いので、もう少し列挙してみます。尚、前に書いていますが、塩川先生の年齢は昭和の年号と一致します。
昭和41年11月21日 居合道七段(全日本剣道連盟)
昭和42年 5月17日 居合道教士(全日本剣道連盟)
昭和44年 3月 1日 空手道八段(糸東流、摩文仁賢栄)
昭和45年 2月15日 槍術範士九段(光厳流、釈顕實)
昭和45年11月16日 杖道教士(全日本剣道連盟)

 とりあえず、このくらいにしておきます。上記に、杖道六段が出ていませんが、塩川先生は、昭和四十三年四月一日に取得しております。
 昭和三十一年に杖道が全剣連に包含されて以来、段位は五段まで、後は称号という規定であったのが、昭和四十二年に審査規定が変更され、昭和四十三年四月一日付けで十段制が施行された。そして、特例審査が行われたのでした。
 合格者の一覧表が手元にあるので、次ぎに列挙してみます。物故者も多いですが、現在の杖道界の大御所は、だいたい網羅されていると思います。尚、名字だけで、名前は出ておりません。調べるのもめんどくさいので、そのままにします。


昭和四十三年、全日本剣道連盟、段位制施行特例合格者(三十二名)

 <八段>
東京  清水
福岡  乙藤
兵庫  乙藤(春)

 <七段>
東京  藤井、瀬上、竹村、黒田
愛知  浜地(光)
大阪  中島
岡山  可児
広島  福島
山口  木村(米)

 <六段>
東京  浜地(康)、藤田、神之田、広井、米野、壇崎、長本
静岡  荻野、勝瀬
滋賀  小島
兵庫  中村
大阪  内山、加藤、浮津
山口  塩川、木村(剛)
福岡  肱間、川崎、高山、松田


 ついでに、翌年、四十四年にも審査があり五名の合格者が出ている。

 <六段>
東京  鶴山、鈴木(進)、ドン・ドレーガー
大阪  矢野
福岡  波止

 四十三年四月一日の十段に制定の直前、三十九年三月二十九日に全日本剣道連盟制定杖道の型が決定した。基本十二本と型十二本は、すべて神道夢想流の型から選ばれたものであり。剣道連盟杖道=神道夢想流杖術という図式である。型制定委員の中には、塩川先生の名はない。しかし、最も精力的な活動をされていた中嶋先生の関係で、オブザーバーとして塩川先生は大いに貢献した。
 後年、乙藤市蔵先生は、
「いまや、制定型成立の事情を知っているのは、私と塩川先生だけになってしまった」
 と申された。乙藤先生が杖道関係者を呼ぶときは、清水さん、中嶋さんであるか、波止、光広、と呼び捨てにするかであった。では何故?
「塩川先生は、他の者とは違う。居合道の先生であり、空手道の先生でもあるからだ」
 とのことである。

 制定型の前に、杖道に型試合が成立している。昭和三十七年から四十年にかけて、中嶋先生を中心に、塩川先生、小島先生が、空手、居合の型試合を参考に創りあげたものである。
「あの、型試合の制定がなかったら、今日、杖道は廃れてしまったのではなかろうか」
 と乙藤先生は、申された。


 ああ、疲れた! 杖道と居合は、取りあえずここまでにして、空手の方の話しを綴って行きたいと思います。
 先生が、花小金井のアパートに住んでいた頃です。この話しを最後に他流試合の話しは打ち止めと致します。
 当時、台東区にあった有名道場を訪ねたのです。突然の訪問ではなく、前もって電話を入れてからのことでした。つまり交流稽古というわけです。
 先方は大いに歓迎してくれたそうである。そして、稽古相手たるべく道場で待っていたのは、五人か六人の黒帯だった。後で聞いた話によると、海外へ派遣される予定の強者だったそうだ。先生はその全員と戦った。

「結果はどうでした?」
「何回も言わせるな! 俺は、勝負でおくれを取ったことはない」
「そ、そうですか……」
 植芝先生が頭をよぎったが、それを言う勇気は私には無い。
「しかし、なぁ、稽古の後に、風呂をもらったときに驚いたよ。なに…が、裂けているんだ」 
「なにって……もしかして?」
「そうだ、そのもしかしてだ! その先が裂けて血が出てたんだ。取りあえず応急手当をした。少し心配だったが、なあに後遺症は無かった」
 後遺症どころか、先生はいい年をして精力絶倫なんですよ。
「当時のその流派は、猫足で構え、金的を蹴るのが得意だった。寸前のところで、交わしたつもりであったが、何度か掠ったんだろう」
 今でこそ、全空連の大会の組み手部門では、そのルールに則った合理的な構えになった為に、ほとんど違いは見られないが、以前は、各流派によって個性が強かった。四股立ちで構える者もいた程である。

「稽古の後、ご馳走になったよ。話しが弾んで、終電に間に合わなくなった。当時、たしか中学生だった息子さんが、かいがいしく面倒を見てくれたよ」
 先生は、酒は八十歳の今日までビールしか飲まない。『強い酒では、いざというとき後れを取る。ビールなら大丈夫だ』と断言される。武道のプロもけっこう因果な商売だなと多少は同情するが、塩川先生は、道場での指導中にもビールを飲むのである。こればかりは、さすがの私もどうかと思う。
「では、泊めて頂いたんですか?」
「うんにゃ、花小金井まで歩いて帰ったよ」
「えっ、台東区から、花小金井ですか……!」
 少なく見積もっても二十キロはあるはずだ。
「ああ、片足、四キログラムの鉄下駄を履いてな」
「!!……!」
 私は絶対信じません! 金輪際信じません! これを読んでおられる方に申し上げます。片足四キロの鉄下駄を履いて、道を歩いたことがありますか? 私は歩いたことがあります。どんなに頑張って、引きずるように歩いても私では、五百メートルが精一杯でした。
 重量の問題であることはむろんですが、鼻緒を掴む、足指のグリップ力が無いのです。掴みやすいように、馬鹿でかい鼻緒を用意しても同じことでした。
 いかに、精力絶倫の塩川先生と言えども、こればかりは信じられません。


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