師とその周辺







塩川寶祥伝(その十三)




 昭和三十九年の東京オリンピックを前にして、空手道界の各流派に統一への兆しが出てきた。
東京オリンピックは、単なるスポーツの祭典ではなく、戦後の日本にとっては大変な出来事となった。今日振り返ってみるに、経済、社会、文化のあらゆる面において、分水嶺のごとく変貌を遂げさせる事件であったと思う。経済に関しては、本格的な高度成長の始まりであった。
 余計なことですが、当時私は中学二年生で、同級生のワルに空手の真似事を教わっていました。そして、案内されて彼の通っている近くの道場に行って驚きました。
 いるいる、この地区の不良が勢揃いしているではないか。さらに、極道、チンピラといわゆる、アウトローの溜まり場のようでした。指導者がまた凄い、とても同じ人間とも思えませんでした。
 それらの猛者を、新宅、楠田先生は、まるで子供をあしらうように全く問題にしなかったと言うんですから……。
 以上、昭和三十九年当時の地方における空手道場の風景でした。


 昭和三十九年六月三日、衆議院議長公邸で国会空手道連盟結成記念大会。十月一日に国立教育会館で全空連結成の会議がもたれた。
 そして、ついに各流派統一の全日本空手道連盟が結成され、十一月十四日、結成記念大会が日本武道館で行われた。
 この記念大会では、糸東流を代表して四人が演武を行った。すなわち、宗家の摩文仁賢栄師範、関東代表の岩田万蔵師範、関西代表の高丸治二理事長、中国・九州代表の塩川先生の四人である。
 全空連の初代会長は、早稲田大学総長の大浜信泉先生であり、塩川先生は若くして評議員となった。全空連結成を期に、塩川先生は東京を後にして下関に帰った。何と言っても下関は田舎である。そのまま、先生が東京で武道活動を続けていたらと、思わぬでも無い。

 下関に帰っていた塩川先生のところに、ドレーガー師範より連絡があった。その話とは、このHPの“師とその周辺、ポンタル君について”で書いた、フランス国営放送のミッシェム・ラムドム監督が「日本の武道」の映画撮影に訪れるという話しであった。詳細は、“ポンタル君について”を読んで下さい。
 塩川先生の武道を気に入ったラムドム監督は、以後の予定をキャンセルして下関に居座った。
「面白い人でな。緊迫した、激しくて危ないのが好きで、俺が気に入ったらしいんだ」
 映像は、後にフランスとアメリカで書籍になり出版もされた。その映像が、なんと昨年、フランスに帰ったおりに、ラムドム監督を訪れたポンタル君によりもたらされたのだ。
「塩川先生に宜しく」と言う言葉と共に。
 感激した私は、著作権侵害を承知でダビングしてもらい友人に配った。

 このビデオには、昭和四十年の若き塩川先生と、その弟子の演武稽古風景が写っている。楠田喜久男、光廣勝人、畑村亀代治の各師範にまじって岩目地先生が出演している。年齢は二十代半ばであろうか。他には、宮瀬昇三先生の姿も見える。宮瀬先生は空手道は千唐流千歳剛直師範の弟子であるが、居合道、杖道は塩川先生の弟子である。
 ここでの、岩目地先生の演武は一見の価値がある。当時、空手道二段、杖道は初段を取ったか取らないかの若者であった。その演武たるや、杖道に関しては“五本の乱れ”を見事に演じているのだ。これが、実に見事! 杖道の関係者には理解できると思うが、通常、“五本の乱れ”は“影”の後、五段になって稽古するものだとされている。
 私は東京都杖道連盟において「段位を返上しようではないか!」と、思わず放言してしまった。

 注目すべきは、このビデオにおいてサイ対剣の演武が為されていることである。沖縄武器術のサイ対剣。これは、たぶん本邦初公開である。そして、ランドム監督を感激させただけあって、実に見事な型である。サイは塩川寶祥、剣は岩目地光之。まさに、この二人以外にはあり得ないという、人を得た素晴らしい型に仕上がっている。
 なにを隠そう、この型は国際武道研究会の台湾派遣の計画の為に、塩川先生と岩目地先生が共同で創作した型である。
「型を五本創るつもりだった。しかし、三本創った処で面倒くさくなって止めた」
 いかにも、塩川先生らしい。
 型の創作、これは塩川先生に取って空前絶後のことであった。塩川寶祥の伝説の空手型がある。型名は“ケンセイカン”と言うらしい。その伝説が塩川門下に流布していた。ことあるごとに師範の方々に聞いたが、名前を聞いたことはあるが型は知らないと言う返事が返るばかりであった。岩目地先生ですらその実態をご存知なかった。

 私は、恐る恐る塩川先生に尋ねた。
「伝説として、先生が創作されたケンセイカンという型があると、いろんな先生が仰います。先生! ケンセイカンという型はあるんですか?」 
「おお、あるぞ。何度か演武した。お前に教えてやろうか」
「えっ、せ、先生! 本当ですか!」
 私は感激の行ったり来たり。あの伝説の…!!
「ああ、ええぞ。まず、セイエンチンでこういう風に入る。ここからはローハイになり、セーパイ、そして、セイサンで終わる。それだけだ」
「先生、それって……」
「ああ、繋ぎ合わせただけだ。新しい型を創る、そんな面倒くさいことを俺がすると思うか?」
「思いません……」
 私はガッカリしました。ちなみに、ケンセイカンは先生の道場の名前、拳聖館から来たらしい。
「あったりまえだ。新しく創るには、前の型より、良くなきゃ意味がない。そんな面倒なことを、俺がするわけないじゃないか」
「そっ、そうです。確かにそうです……」
 塩川門下を代表して、先生に質問した結果がこれです。そして、結果的にこの先生の返事を、皆さんに言いふらしました。伝説は儚くも立ち消えてしまいました。お喋りの私の耳に入ったんですから、留まることをことを知りません。ここにも書いているのですから、伝説の末路は霧散ということに、なってしまいました。

“五本の乱れ”が出たついでに、逸話を一つ。京都の下鴨神社、この神社は徳川家に縁のある神社で、毎年、杖道の奉納演武が行われたいた。時は、フランス国営放送取材の一年前になろうか。通年の演武者は、清水隆次師範対乙藤市蔵師範。中嶋浅吉師範対塩川寶祥師範というぐあいに、杖道界の最高権威が出場していたという。
 ところが、たまたまその年は中嶋師範が都合により出場出来なくなった。そこで塩川先生は、お前が相手になれと言って岩目地先生を指名した。
 当日、清水先生、乙藤先生の演武が終わった後に、打太刀、塩川寶祥、仕杖、岩目地光之で演武を行った。
「先生から、お前が相手をしろと言われて、連れて行かれたんですが、行ってビックリしました。今で言えば、それこそ八段クラスの人たちが、毎年、奉納演武をされていたんです」
 岩目地先生は、苦笑しながら私に言われた。そして、その時に演武した型が、“五本の乱れ”であった。

 驚いたのは、清水先生と乙藤先生である。以下のような会話が二人の間で交わされたということを、後で清水先生が仰ったそうです。 
「乙藤さん、今演武した塩川さんの相手を、知ってますか?」
「知りませんな。若いが、なかなかのもんです」
「何段でしょう?」
「さぁー、何段でしょう?」
 両師範は事情を聞いてさらに驚いた。なんとこの時、岩目地先生は段外者、つまり、初段も取っていなかったのである。
 段外でありながら、両師範を唸らせる術を披露した岩目地先生も大したものだが、このような由緒ある演武会に段外者を引っ張り出した塩川先生は、ある意味で、さらに大したものだとは言えまいか……。


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