師とその周辺







塩川寶祥伝(その十四)




 記述するエピソードは、彼方へ行ったり此方に来たり、目まぐるしいことおびただしいが、それこそが塩川寶祥の人となりであるから仕方がない。
 先生は、先生なりにこの道一筋ではあるが、この武道一筋ではないから、こうなってしまうのだ。そして、一度にこれだけの活動をしたのだ。この一事をもってしても、とても常人ではない。

 後年、光厳流の辻宗家は私に仰いました。
「谷さん、“一芸を極めれば万芸に通ず”という言葉があります。それは本当だと私は思います。しかし、塩川先生は違います。一芸を極め、万芸を極めているのです。こんな、とんでもない人は、見たことも聞いたこともありません」
 かく言う辻先生も薩摩示現流、柳生新陰流、竹内流……気に入った武術があればすぐに飛んでいって入門し、そのまま一年でも二年でも、納得が出来るまで居座るという情熱とそれを支える経済力をお持ちでした。
 失礼ながら、もう八十歳を過ぎておられ、鬼門に入られる日もそう遠く無かろうと思います。武道研究家の皆さん、ぜひ辻先生にインタビューをされて、貴重な談話を録音されては如何でしょうか。表向きではなく、本当の術理と流派の内情を知ることが出来るに違い在りません。

 ともあれ、今度は空手の話しとまいりましょう。
 全空連の結成記念大会で演武をして下関に帰っていた塩川先生に、一通の手紙が舞い込んできた。発信人は全空連の会長であった大浜信泉氏であったという。
 内容は、全空連に内紛が発生し、大浜氏の海外滞在中にクーデターが起こり、笹川良一氏が会長になった。資金力に圧倒的に有利な笹川氏が理事会を抱き込んでしまった。と言う文面だったそうである。おそらくは、大浜一派による、笹川一派に対する反撃として、評議員宛に配られた手紙だと推測される。たぶん、この手紙をもらった評議員の中で、表だって行動を起こした者はいなかったはずだ。

 しかし、塩川先生は直接行動を起こしたのである。どこが先生の琴線に触れたのかは分からない。あるいは、単なる弱いもの虐めは許さない。ということが正解かも知れない。
 大阪時代に、面識のあった笹川良一氏に直談判に出かけたのである。擦った揉んだのあげく、取り巻き連中に阻止されて笹川氏に談判することは出来なかった。
 塩川先生は、面談してどうするつもりだったんだろう? 言葉で人を説得するのは、苦手なはずである。では、まさか殴り合いでもするつもり……まさか!
 しかし、このままでは治まらなかった。怒りからか笹川一派は攻撃に出た。全空連で、塩川寶祥の査問委員会が開かれたのだ。先生が不在のまま委員会は開かれた。
 議題は「刑務所に入った人間を評議委員にしていて良いのか?」ということだったらしい。進駐軍政令違反のことである。その事実を密告して、問題を起こした人物を先生は私に名指しした。

「先生、それで?」
「ああ、その席で、大阪の林輝男が俺の弁護をしてくれたらしい」
「ほぉー、林先生ですか」
(林派糸東流の御宗家である)
「ああ、『武道家たる者、そう言う場に遭遇することはままある。問題はその理由である』と言ってくれたらしい」
「林先生、良いところありますね」
「まあな、それで、本人を呼んで直接事情を聞くということに落ち着いたそうだ」
「それで、どうなりました」
「俺は返事をしたよ。お前ら如きに弁解が出来るか! と言ってやった。そして、評議員は辞任してやった」
 先方の思う壺ですね。とはさすがに私は言えなかった。

 全空連の評議員を辞任した塩川先生は、新たに日本空手道会を立ち上げる。今私は、昭和四十五年の日本空手道会の組織図を見ている。
  名誉会長  岸信介
  会 長   安部晋太郎
  総本部長  塩川照成 
理事長 小西御佐一
その他に、関東地区本部長、関西地区本部長、兵庫本部長、広島・岡山本部長、
       山口本部長、鳥取本部長、島根本部長、九州地区本部長が列挙されている。

 小西御佐一先生は、全空連に不義理をしてまでも、塩川先生と行動を共にされた。しかし、このままでは治まらないのが世の常である。笹川一派により、日本空手道会を潰す動きが見受けられはじめた。一計を案じた塩川先生は、辻先生を通じて岸信介元首相に会長就任を依頼した。この点、なかなかしたたかである。
「谷さん、俺は参ったよ。塩川先生が怖い顔をして、岸信介に繋げと言うんじゃけ」
 なお、辻師範は岸信介のボディーガードをやっていた時があり、特に親しくしていたという。
 岸信介先生は、「私が責任を持つから、安部晋太郎に会長をやらせてくれ」と仰ったそうである。
 そう言う次第で、当時、衆議院議員、落選中であった安部晋太郎氏が会長になった。日本空手道会の現在の会長は、安部晋太郎氏の御子息、安部晋三氏である。
 なお後年、辻先生は、自由民主党山口県連の幹事長を長く務められた。
「日本全国の自民党県連の幹事長で、議席を持たなかったのは、私だけだ」
 と私に言われて、笑っておられた。光厳流槍術宗家であると共に、僧籍を持たれていた辻先生にとっては、議席は全く魅力のないものだったようである。

 時計の針を少し戻そう。昭和三十年代の後半、先生が下関に帰ってすぐの頃のことであろうか、全日本剣道連盟主催の居合道全国大会に初めて出場した塩川先生は、大旋風を引き起こすことになった。決して悪い意味ではない。
 結果はベスト十六に入ったのだが、無外流という弱小流派を知るものがいなかったのだ。
「無外流? それって何だ? 山口県?」という状態であったらしい。
 その後も先生は、全剣連の全国大会に出場し、個人戦では準優勝、準決勝進出の成績を残し、団体戦では優勝を飾っている。審判員はむろん全て他流派。無外流の選手すらほとんどおらず、孤軍奮闘して無外流の名前を全国に広めた。

 全剣連の居合道の大家、紙本栄一範士は山口県に住んでおられた。東の壇崎、西の紙本の、あの紙本先生である。
 私の記憶によれば、当時の型試合は五本演武を行い、三本は全剣連の指定型、二本は各流派の型と言うことであったらしい。
「塩川さんが、大きな流派であったなら、もっと素晴らしい成績を収めていただろうに」
 と後年、紙本先生は申されている。(ちなみに、紙本先生は夢想神伝流である)
 しかし、紙本先生は座していたわけでは決してない。塩川先生と相談の上、無外流の型を、全剣連の大会に合うように少し変更された。
 よって、塩川先生の無外流は、中川先生の中川伝とは少し異なり、石井悟月、紙本栄一師範の影響で、現在の塩川伝になっている。そういう事情により、現在の剣道連盟の無外流の人たちは、御本人は知らずとも、塩川伝になっていることが多いそうである。
 このようにして、塩川先生の活躍と、大森曹玄老師の著作で無外流は全国に広まっていった。

 ある年の全剣連居合道全国大会でのことである。先生は、前年の準決勝で勝った某師範と準々決勝で対戦し、破れてしまった。その晩のことである。審判員であった某範士が先生の宿舎を訪ねてきた。
「今日の大会では君の方が良かった。しかし、君は年が若い。今後、間違いなく何度でも全日本で優勝することが出来る。一方、某氏は年齢も考えれば今回が最後のチャンスだろう。今回は、彼に譲ってやってくれという気持ちで、私は旗を揚げた」
 わざわざ、審判員の著名な老範士が、若い選手の宿舎を訪ねてくれて、ある意味で激励してくれたのだ、私なら平伏して感謝するであろう。そして、来年以後も自分に眼をかけてくれる見込みも立つ。それが、世間の常識というものである。これによって、新たな人間関係もできるのである。

 ところが、ところがである。塩川先生は、老範士の話を聞くと、怒り心頭に発し怒鳴りつけたのであった。
「何を言うか! 本当は勝っていたのに負けただと! 俺は負けて稽古が足りなかったと反省していたんだ! それを何と言うことを言うんだ。帰れ! すぐ帰らないとぶっ飛ばす!」
 まあ、こんなような放言したと、先生は私に言うんです。全く信じられませんよ。いかに勝負に情を挟むなといっても、試合は終わっているんです。わざわざ訪問してくれた範士に感謝の意を表せよ! 単純に損得だけを考えても、そうすべきだと思わなかったのだろうか?
 塩川寶祥先生は、こんな先生です。とんでもない我が儘ですが、自分の気持ちには実に忠実です。こんな先生が私は好きです。
後日談として、この事件以来、塩川先生が全剣連の全国大会に選手として出場することは無くなった。
 あったり前でしょうが! どの面さげて出られると言うんですか!!!

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