塩川寶祥伝(その十五)
さて今度は、杖道の話しとまいりましょう。あーあっ、全くまいってしまいます。こう目まぐるしく移り変わっては、書いていく方は堪りません。実際にやる方はもっと大変だろうに……。先生は、どれか一つの武道に集中しようとは思わなかったんだろうか?
「やってないのは、手裏剣術ぐらいかな?」
と申されます。そういえば先生は、能も舞うんです。きっと、根っから身体を動かすのが好きなんでしょう。
神道夢想流杖術、もしくは全剣連、全杖連などでいう杖道。いずれにせよ、杖道という武道の名前を聞いても、部外者は即座に思い浮かべることが出来ないでしょう。このHPの“杖道”の項を読んで頂ければ、多少は想像できるかもしれません。しかし、知る人が少ないだけで、意外に普及しているんです。杖道人口は、三万五千人と称され、薙刀よりも遙かに稽古している人間は多いのです。
しかし、薙刀は国体の種目にあります。なぜなら、薙刀は昭和三十年に剣道連盟から離れ、全日本なぎなた連盟という単独組織になったからです。
一方、まったく逆に、昭和三十一年、全日本杖道連盟は、剣道連盟の一部になったのであります。(そして、全杖連は後年解散する)
よって、国体種目になることは不可能なのです。いかに競技人口が多く、多府県に普及していても、一つの団体からは一種目しか国体には出場出来ないからです。
これまた余談になるが、全日本なぎなた連盟の初代会長は、山内禎子範士である。その山内範士の追善古武道大会が高知で行われた際には、塩川先生は招待され、杖と居合の演武を行っている。同時に招待されて演武を行った人に、少林寺拳法開祖の宗道臣宗家がおられた。さすがにこの時は、仲良く歓談したという。
というのは、塩川先生が若かりし日、大阪の西成で暴れ回っていたときに、同じく大阪のミナミで宗道臣氏が名前を売り出しており、塩川先生が、勝負をしようと、つけ狙っていたことがあったからである。
昭和三十年当時の全日本杖道連盟の会長は、頭山泉氏でありました。頭山泉氏は全杖連の前身、大日本杖道会の会長であり、著名な頭山満氏の御子息です。
全剣連への加入については、頭山泉会長は反対でしたが、清水隆次師範の強い希望により実現したのでした。今現在の時点で、なぎなた連盟と杖道連盟のどちらの決断が正しかったかは分かりません。ただ、戦後の混乱期に、二つの団体は全く異なった決断をしたことは事実です。このしばらく後に解散した“全日本杖道連盟”という名前を覚えておいて下さい。後で出てきます。
鍼灸学校を卒業した塩川先生は昭和四十年に下関に帰るも、空手道に集中するわけではなく、以前から行っていた杖道と居合道の普及活動に邁進することになった。
杖道は、中嶋浅吉師範と二人で全国各地を飛び歩き講習会を行った。その活動は、中嶋師範をして、「中嶋の後に塩川あり。塩川の後に中嶋あり」と言わしめる程であった。
ところが、外野席は「弥次さん、喜多さん」と陰口をいっていたらしい。
昭和四十二年、流祖夢想権之助が杖術に開眼したという伝説がある福岡の宝満山で、権之助神社の建立が行われた。その際、杖道普及の功績が顕著である。との理由で頭山泉会長と清水範士に特に選ばれ、中嶋先生と共に塩川先生は感謝状と金杯を授与された。
しおらしくも、その時塩川先生は、
「自分よりも、神之田師範の功績の方が大きい」
と清水先生に申し上げたところ
「神之田は、警視庁師範で仕事の一部だ。一方君は手弁当でやってくれた。よって、君に授与する」
との返事だったそうである。当時、ボランティアという言葉は当然なく、無償の行為は手弁当と言った。
杖道の指導は一人では難しいところがある。清水、神之田。中嶋、塩川。このツウペアーが、今日の杖道普及を支えた最大の功労者であろう。現存者は、神之田師範と塩川師範である。
その、弥次さん喜多さんこと。中嶋、塩川両師範が袂を分かつ出来事が発生したのは、昭和四十三年の国際武道研究会の台湾派遣行程の間に起きた事件であった。
派遣団員は中嶋門下と塩川門下でしめられ、武道種目は杖道、居合道、剣道、空手道であった。
我が一貫堂の塾統、岩目地光之師範も団員として参加している。肩書きは、居合道五段、杖道四段、空手道二段になっている。
ともあれ、この台湾で塩川門下のある先生が問題を起こしてしまったのである。
「中嶋先生が俺に破門しろと言うんだ。俺は奴の方に理があると思い、拒否をした。先生もその辺は分かっていたが、立場上譲るわけには行かなかったんだ」
塩川先生が破門すると、その人は杖道が出来なくなると思い、いかな中嶋先生の指示でも塩川先生は拒否をした。中嶋先生も立場上後には引けない事情があった。この事件が切っ掛けで、二人の間には以前のような交流は無くなった。
中嶋先生は、寂しそうに言われたらしい。
「中嶋の後に塩川あり。塩川の後に中嶋ありと言われたが、もうこれまでだな」
しかし、完全に切れたわけではなく二人の関係は細々と続いていく。中嶋先生の最期を、塩川先生は看取っている。
この当時の台湾は、男性天国。各地で、夜な夜な団員は歓楽街を徘徊したそうである。また、受け入れ側の台湾の武道関係者も、それが当然のように案内をしてくれる。
しかし、ただ一人だけ各地を回る間、最後までホテルに籠もり、台湾の武道関係者の好意を裏切って歓楽街に出なかったのが、我らが一貫堂の、岩目地師範であった。
「メジさん(岩目地先生のこと)は、どうしようもない堅物だ!」
「先生はどうでした?」
答えは分かっていたが、あえて私は尋ねた。
「おっ、儂か、わしゃーホテルで寝たことはない。女郎屋から、会場に駆けつける毎日だったよ」
この二人の師範は、本当に水と油、極右と極左。よくもまあここまで性格が違うもんだとあきれてしまう。しかし、お互いに認め合って、敬意を表していることもまた事実である。
この台湾遠征で、岩目地先生は各地の剣道家と試合をした。一般には、あまり知られていないが、台湾にも(韓国にも)剣道五段、六段の強者が各地にいる。
試合は、剣道の防具を着けて、竹刀と、竹を割って作った杖をもって戦う。岩目地先生は一度も後れを取らなかった。これ以後も剣道家と戦って負けたことはない。
平成に入っての、乙藤先生と塩川先生の会話である。
「今の、杖道家で、剣道家に勝てる者はおらんじゃろう。まず勝てないと、儂はみちょる」 と乙藤先生。
「先生、岩目地がおりますよ。彼奴は剣道家に負けたことがない」
と塩川先生。
「おお、そうじゃったな」
と乙藤先生。
この辺の事情を私は、岩目地先生に質問しました。
「他の先生は、なかなか剣道に勝てないのに、先生は、何故勝てるんですか?」
思えば、おかしな質問ではある。強いから勝つ、それに尽きると、言われればそれまでの話しである。
「剣道家が竹刀や、木刀できたら、私は杖術の技は使えないと思います。もし相手が真剣で本当に切ってきたら、あるいは使えるかも知れません」
「それって?」
「そうです。私は杖道家として戦ったことは有りません。空手家が杖をもって戦ったんです」
そして、全勝。岩目地先生は、技も凄ければ、洞察力も素晴らしい。よくある、単なる理屈や思い込みでないことは、事実が証明している。
「空手家が武器を持つと強いですよ。剣道と薙刀が試合をした結果は、ほとんど剣道が負けています。それも名のある高段者が皆そうです。剣道家はどうしても剣にこだわってしまいます。囚われてしまうんです。むしろ、薙刀とは、空手家の方がいい勝負をすると思います」
武器を持ちながら、武器にこだわらない。相手との間合いによって自在に変幻する。これをやるのは極めて困難です。理屈としては分かりますが、その場に臨むと、どうしても意識することなく、こだわってしまっているんです。これが出来れば、達人と言えるかも知れません。
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