師とその周辺







塩川寶祥伝(その十六)




 中嶋先生との関係が疎遠になっても、塩川先生は、主として空手道の関係者を通じて、杖道の普及活動は続けた。ヨーロッパは、塩満、大上両師範の和道流空手道を通じて、アメリカは崎向師範の少林流空手道を通じてであった。
 しかし、比重は剣道連盟の居合道の方に移っていった。弥次さん喜多さんから、水戸黄門と助さん格さんである。(事実、こう呼ばれていたのだ)
 水戸黄門が紙本栄一範士、助さん格さんは、どちらがどうだか分からないが、富ヶ原富義師範、そして塩川先生である。
 富ヶ原師範は後に、剣道連盟居合道範士九段になり栄達を極める。また、全剣連の全国大会で三連覇を果たしている。

 居合道も杖道と同じく昭和三十一年に、剣道連盟居合道部として発足した。そして、昭和四十四年に、全剣連の居合道型が制定された。
 その頃のことであろう、剣道連盟から大号令が発せられた。
「剣道家たるもの、竹刀だけではだめだ! 本身の刀を習得せよ。そのために、五段以上は必ず居合を修めろ」
 という主旨であったそうだ。困ったのは各県の剣道連盟である。適当な指導者が居ないのだった。ところが居た! 居た! 山口県に三人も! 御大の紙本師範と直弟子の富ヶ原師範、そして、塩川先生である。
 かくして、水戸黄門と助さん格さん、三人の行脚が始まった。中国地方を中心に、九州、四国、関西、北陸にまでその足跡は延びている。
 たとえば、ある県の講習会に招かれたとする。その地区の剣道五段以上が集まった席で、黄門の紙本先生が、講義をされる。その後、二班に分かれ、富ヶ原先生が夢想神伝流を指導する。塩川先生が、剣連の制定居合の指導。そして、交代して指導。
 ようは、夢想神伝流と剣連の制定居合を指導して回ったことになる。

「無外流を指導したかったよ。しかしまさか、紙本先生の手前もあって、教えるわけには行かなかった」
 しかし、無外流を全く指導しなかった訳ではない。紙本先生の都合が付かない時には、塩川先生は、弟子の宮瀬先生、あるいは岩目地先生をともなって、単独で各県を回った。その時などには、おおいに宣伝したことであろう。
 その時に、塩川先生が指導した人の中から、現在の全剣連、八段範士が続々と誕生しているそうである。
これほどの活動をしたのである。紙本先生と、富ヶ原先生は、全剣連で栄光に包まれ、その生涯を終えた。一方、それほどの普及活動をしたにもかかわらず、後に塩川先生は全剣連と大喧嘩をしたために、大事にされるどころか忌み嫌われることになった。
 しかし、紙本先生だけは、晩年まで、「塩川さんには、悪いことをした。悪いことをした」と言われていた。塩川先生は、紙本先生の言葉だけで満足されている。
 これと、全く同じことが杖道にも言える。乙藤市蔵先生だけは、塩川先生に「悪いことをした」と申されている。
 空手道、居合道、杖道それぞれの組織で、最高権威になっておかしくないはずなのに、必ず問題を起こしてしまう。では、何故そうなるのだろうか? 一言で言えば、すべて塩川先生の性格のなせる技である。すべてが自分の責任である。
 これを称して自業自得という。そして、それ故に最後の武術家なのである。


 富ヶ原師範と塩川先生は良きライバルでも在ったらしい。全剣連の全国大会の決勝で当たった時は、富ヶ原先生が勝ち優勝している。その翌年の大会が、前に書いた老範士を罵倒した大会であり、以後、塩川先生が大会に出なかったために勝負を競うことは無かった。 この二人の剣風が全く異なるのである。岩目地先生が指導していた空手の道場に、富ヶ原先生が場所を借りてもいいですかとやって来て黙々と居合を抜いていたそうだ。
「私は、塩川さんとは違う。あの人は一回見れば、すぐ出来てしまう天才だ。私は、何回もやらなければ同じことが出来ない。だから、毎日抜いて居るんです」
 と、岩目地先生に申されたそうである。そうして三百六十五日、一日も欠かさず居合を抜いておられたとか。これもまた、一種の天才では在るまいか。

 この富ヶ原先生は、試斬に関しては不得手で、塩川先生に遙かに及ばなかったと岩目地先生が私に言われた。塩川先生は、取り立てて稽古をしたとも思えないのに、(この先生はホントに稽古をしない先生です)畳表、藁、竹を切る試斬は見事であった。
 試斬の写真やビデオを見た方も多かろう思うが、通常は、斬る為に剣理を外れた体勢で大きく振りかぶっている。そして、斬った後の刀が流れているのがほとんどであるが、塩川先生は違う。斬ったあと、ピタリと刀が止まっている。要は、居合の型どおりに試斬をされているのである。しかも、斬った竹はそのまま立っている。

「俺の、試し斬りを見た中村泰三郎が、是非、試斬会に来て演武して欲しいと、二度ほど言ってきたが、断ったよ」
「えっ、中村先生って、あの中村先生ですか?」
「おお、試斬で有名な先生だよ『あんたの試し斬りが、本当の試し斬りだ』と言っていたがな、俺にはそんな暇な時間はなかったんだ」 
 この言葉通りに、塩川先生は試し斬りには、あまり興味はないようだ。武道の本質とは関係なく、型どおりに刀を振って、切れればそれで良しという位の感覚である。

 今、私の手元に塩川先生の試し斬りの写真がある。道場の板張りの上に丸椅子がある。先生は紋付き袴の出で立ちだ。丸椅子の上に置いただけの竹を見事に切っている。切れた竹は落ちずに立ったままだ。刀はピタリと止まっている。体勢の乱れは全くなく見事なものである。素晴らしい!
 ここまでは良い。ここまでは素晴らしいのだが、何と、足下はスリッパを履いているのである。この辺が、私が塩川先生を愛して止まないゆえんである。
 別の写真では、姫路城を背景に、羽織り袴の出で立ちで記念撮影をしたのがある。懐手に、なかなか格好いい。しかし、しかし、なんと足下は靴を履いているのだ。
 まったく……もぉー!! だけど、だけど、その感覚! 良いなー!

 試し斬りについて、私は岩目地先生に質問した。
「身長二メートル、体重百五十キロの大男が、数ヶ月の練習で、二尺八寸の大太刀を使って畳表八本を、据えもの斬りをするそうです。これって、武道の本質には関係ないですよね?」
「関係あるかないかはともかく、術を会得したならそんなもの軽く斬らねばなりません。私は術を身に付けていないので斬ることは叶いませんが」
 まったく、この先生はこの先生で参ってしまいます。

 居合道は極めて客観的評価の難しい武道である。慧眼の眼で評価しなければならない。よって昇段審査において、いかに評価するか、これが大問題である。試斬、これは客観的に評価が出来、誰が見ても分かる。よって安易に試し斬りで評価する。これは、塩川先生ではないが、私も極めて安易な方法だと思う。審査員の怠惰だと言うのは不遜であろうか。

 実際にこういうことが在った。ある居合道の大会での話しである。たまたま、私は、岩目地先生と一緒に見学に行っていた。そして、結果の発表の後に先生は、私にそっと耳打ちをされた。
「谷さん、今の結果をどう思いました?」
「さすがですね。優勝、準優勝、三位は大したものです」
「貴方は、まだ修行が足りません。全く見る眼がありません。あの三人はこれこれで……駄目です。私の見た限りでは、早くに負けましたが、あそこにいる人が一番良かったと思います。見る眼を養って下さい」
 と申され、ニッコリ笑われたのです。
「お恥ずかしいしだいです。修行いたします」
 と返事を致しました。岩目地先生の言われたことが一々正解だと思えたのです。
 ところが、私はここで気が付いた。では、あの審判員の見る眼とはいったいなんだったのだろうか? 高段者の審判員の人々が、私と同じ程度の眼力を持っているにすぎない。そういうことに、なってしまうではないか。
ひょっとして、岩目地先生はそれが言いたかったのでは? 

 さらに、付け加えます。岩目地先生ほどになると、その評価に対して文句を言われることはないでしょうし、問題が生じることは在りません。あの先生ならと、誰もが納得するからです。
 しかし、恥ずかしながら私も、嫌々ながら空手の大会で審判をやらされた経験が在ります。まあ、これほど辛いものはありませんでした。東京に来てホッとしております。
 審判を為されておられる皆様に申し上げます。「本当にご苦労様です! でも、お願いしますよ! 審判がいらっしゃらねば、試合が成立しないのですから!」
 塩川先生も申されます。
「何と言っても、審判が一番大変なのだ! 大会で一番苦労しているのは審判だ!」
 これは、武道に限ったことでは在りません。アマチュア野球、サッカーの審判をされている、ボランティアの皆様。本当にご苦労様です! 大変な事情は、日常茶飯事の出来事として、数々の事例を、私は聞いております。

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