師とその周辺







塩川寶祥伝(その十七)




  この項では、少し私事を書くことにします。塩川先生の道場の雰囲気が、これで多少分かるかも知れません。

 時は昭和から平成に変わって、すこし経ったある日のことです。空手の稽古が終わった私に、塩川先生から、一寸来い、と呼び出しが掛かりました。
「はい、先生何事ですか?」
 場所は、道場の横手にある鍼灸の診療室です。
「おう、お前は杖道をしろ。水曜日に来い」
 と、突然申し渡されたのです。私には全く訳が分かりません。ジョウドウ? なんだそれ? まあ、武道なんだろうな?
「申し訳ありません。空手も満足に出来ない私が、今、新しい武道を始めるのは勘弁して下さい」
 と申し上げ、逃げだしました。
 ところが、一月も経たぬうちに、再度先生から申し渡されたのです。塩川先生から二度言われて断る勇気は、私にはありませんでした。塩川門下で、先生の指示を、敢然と拒否できるのは岩目地先生ぐらいのものです。
 
指示のあった水曜日に、私は道場に行きました。
「よし、これを持て」
 空手着に着替えていた私にそう言うと、先生は一本の棒を差し出しました。それが杖だったのです。なるほど…杖だからジョウと言うんだなと、何となく納得していた私の思いを断つように、優しいとはとても言いかねる声が、聞こえてきました。
「さあ、始めるぞ!」
 塩川先生は、手を取って指導をされるようなのです。まず、杖の持ち方から始まります。
「はい、杖を引いて、はい、親指を外して……」
 そして、基本十二本。型の水月、斜面、着杖、物見と一気に教わってパニックに陥ってしまいました。時間にして一時間ほどだったと思います。
「素人を、教えるのは面倒くさいったら、ありゃせん!」
 ですから、私は遠慮したのに……。
 塩川先生の指導が一息ついたと思った頃、稽古をする人々が集まってきました。そして、稽古開始の礼をしたあと、一人一人に私を紹介した先生は、席を外されました。ビールを飲みに行ったに違いないと、私は確信しました。
 その間、先生から、杖道に付いての解説はして頂けませんでした。神道夢想流という流派があり、開祖は夢想権之助で、杖の長さが決まっていることを知ったのは、だいぶ後になってからでした。

 集まって稽古をする者の中に、初心者は皆無でした。今はそれぞれ昇段されておりますが、当時の段位で紹介します。松原宗治先生七段、嶋田謙先生六段、田村博先生六段、里富勲先生四段の四人です。里富先生は杖道こそ四段ながら、居合においては無外流の免許を許されておりました。また、嶋田先生は、当HPの掲示板でおなじみの“髪ふさふさ美剣士”先生であります。
 そんな中に、ポツンと杖を持ったばかりの男、それが私でした。松原先生を中心に稽古は行われるのです。そして、最後に塩川先生が見えて、一人一人に太刀を持って下さいました。(杖道は太刀と杖の相対動作で稽古が行われます。上級者が太刀を持ち、杖の指導をするという図式です)
 毎週水曜日に塩川先生の道場で稽古をしていましたが、そこに途轍もなく上手な先生が時に見えるんです。それが岩目地先生でした。

そのことが縁で、岩目地先生が指導されている場所にも顔を出すようになりました。この場所も同じでした。これまた当時の段位ですが、山田宏先生七段、青木さん五段(剣道は教士)、佐々木さん四段、山中さん四段、そして嶋田先生というメンバーでした。
 以来、このメンバーでの稽古が続きました。私が、同じレベルの者と稽古できたのは、七年前に東京に来てからのことです。
 岩目地先生から受けた最初の指導は、まったく塩川先生と対照的でした。まず、杖道成立の歴史的経緯から説明されます。杖の四尺二寸一分の杖の長さ、手の内で回せる必要性、そして、杖道の目指す理念を説明されてから指導に入られました。

 このようにして、杖道を始めた私です。やってみるとこれが結構面白いんです。一緒に稽古する先生の皆さんにも親切にしていただき、下手なりに真剣に稽古に励んでいました。
 そんなおり、塩川先生からまたもや、恐怖の呼び出しを受けたのです。
「おい、今度の土曜日の午前九時に道場に来い」
「何ですか先生?」
「来れば分かる。あぁ、その時、杖道の支度をして来いよ」
 杖道の特別指導でもして貰えるのかと思い。道場に顔を出したところ、まっていたのは、居合刀と塩川先生でした。
「おぃ、これを使え」
 と言って、居合刀を渡されました。私は、刀など抜いたこともありません。
 塩川道場の師範席はすべてガラス張りになっています。塩川先生は、本身の刀を手に持ち、
「鏡を見て、俺のする通りにやるんだ!」
 と言って有無を言わせず、始めました。その時に、刀礼から、無外流の型、五用五本、五応五本、そして剣連制定居合二本を一気に指導され、私はパニック症候群になってしまいました。

 私と居合との出会いはこのような、悲惨な案配だったのです。杖道のように、親切に教えて頂ける先生、先輩もおらず、寂しい限りでした。
 ところが、東京に来て見ると、これが皆さんに羨ましがられたのです。
「塩川先生に、毎週個人指導ですか! 羨ましい!」
 という案配なのです。そう言えば思い当たる節もあります。東京など、各地から塩川先生の道場に、直接指導を受けるのを目的として、熱心な方々が、一年に一度は来られていたのですから……。
 その中の御一人が、現在、無外流十六代宗家を継承された、極真館師範の岡崎寛人先生でした。一貫堂六本木道場の会員、松岡大祐もその一人です。(ごめん、本名を書いてしまった!)
 しかし、それほど熱心でない私にとって、毎週、塩川先生と一対一で指導を受けるのはありがたいのですが、苦痛でもありました。そのことがトラウマになったのか、現在、居合の稽古はしておりません。

 塩川先生の門下は、皆さん開放的で、上下関係もそれほどうるさくありません。気軽に稽古できるため、東京をはじめ各地から稽古に見えられる先生も多く、楽しく交歓していました。現在、東京在住の私は、下関に稽古に行きたい希望者があれば、出来るだけの便宜を図り、連絡係となっています。
 昨年は、東京都杖道連盟に入門して、四ヶ月の青年の紹介の便を計りました。本当の初心者に対しても、岩目地先生を初め、山田先生、嶋田先生ほか皆さんは、親切に対応して下さいました。
 少し反省したのは、私です。行けば親切にされるのは分かっています。しかし、先方には迷惑な話しかも知れません。今後は、自重することに致しましょう。
 以上のような案配で、塩川先生をはじめ、下関の塩川門下生はこんな雰囲気で日々稽古に励んでおられます。


塩川寶祥伝を書くに当たって、岩目地先生を抜きにすることは私には出来ません。水と油、極右と極左のように全く性格の違う二人です。この二人の衝突の中からそれぞれの人間性が如実に浮かび上がって来るのです。この二人が師弟関係であるのは、天の配剤と私には思えます。
 岩目地先生の生まれは、高知県の天台宗のお寺です。お父上は住職でした。これから、先生の経歴を書いていこうと思いましたが、岩目地先生にとって迷惑だろうと思い止めておきます。
 ただ、これだけは書いておきたいと思います。岩目地先生が、無外流中川宗家から免許を許されたのは、昭和三十八年のことです。無外流免許の巻物は、中川先生が戦災で焼失され手元に無かったものを、大森曹玄老師が高知県で見付けられ、中川先生に渡されたということで復活致しました。
 ところが、なんと! 岩目地先生の自宅に無外流の巻物があったのです。お父上の遺品の中に免許状があったというのです。こう考えると世間はまったく狭いものです。縁は異なもの、味なものと言うやつです。

 岩目地先生は、下関市立大学に入学後、空手部に入り、初めて空手と出会いました。ですから、武道は遅く始めたことになります。それ以前は器械体操をされていたそうです。
 下関市立大学の空手部は、塩川派糸東流です。ここで、塩川先生との縁が出来ました。才能があったせいか、めきめきと上達しました。
 岩目地先生が強いという話しは、方々で聞きました。しかし、本人に聞くと、何時も「私は駄目です。弱いです」という言葉が返ってくるばかりでした。でも、私は納得がいかないため何度も尋ねました。そして、ついに本音を聞き出したのです。
「台湾遠征の前後のことだと思いますが(当時、空手道二段)二十七歳の頃は、型、組み手の両方とも、試合に出れば負ける気がしなかった。そして、大会に出れば優勝しました」
 あっ! 噂は本当だったんだ!
「まったく、テングになっていました。そして塩川先生に、試合では、全く負ける気がしません」
 と言い放ったそうである。
「そうすると先生から『うぬぼれるな! 日本中を探せば、お前より強い者は何人もいる!』と叱られました。自分はそこで壁にぶつかってしまいました」
 その壁を、乗り越えることが出来ずに、以後は落ちていくばかりだと言うのです。そして、現在は、過去に鍛えた貯金を、食いつぶしているだけだと先生は言う。
「先生、では杖と居合はどうですか?」
「空手ほど鍛えていません。したがって全然駄目です」
 と言い切ってしまわれます。全然駄目で、あれかよ! まったく!

 岩目地先生は、武道をするのに特に大切なのは、目標を何処に置くかだと言われる。段を取ることなのか。国体や国際大会での優勝なのか。いずれにせよ、目標を達成したら、そこで終わる。
 目標は高く持てば、持つほど良い。これを先生は、“志”を持ちなさいと言われる。
「私は、弟子に言うんです。大会に出なさい、そして負けなさい。どんどん負けて勉強しなさいと。大会に出るのは、あくまで稽古なんですから。大きな“志”の為、目標達成のための、一里塚なんですから」
 非常によく分かります。私もその通りだと思うんですが、誤解のないように付け加えます。
 高校総体で勝ちに行く。国体の優勝をねらう。これれは、これで素晴らしいことで、感動もドラマもあります。しかし、これはスポーツなのです。試合があり、勝敗がある限りに於いてはスポーツなのです。(その辺の私の意見は、このHPの、“身辺雑事”に記してあります)
 岩目地先生の仰っているのは、武道のことだと思います。武道とは、死ぬまで続ける“行”なのです。 
 塩川先生はどうなのでしょう? おそらくこういわれると思います。『立っているか、倒れるか。死ぬか、生きるかじゃないか! 他に何かあるなら言ってみい!』
 そして、これは比喩でも何でもありません。先生は、文字通りそれを、体現してきたのです。何と言っても、最後の武術家なんですから。 

 最後に、岩目地先生の塩川先生評を一つ。
「谷さん、間違えてはいけません。塩川先生は本物ではありませんよ」
「えっ、それって…では、本物は誰ですか?」
「私が知っている限りにおいて、明治以後の武道界全体を見回して、一人だけ間違いのない本物がおられます。合気道の植芝盛平先生です」
「植芝先生…何となく解かります。でも、高野佐三郎師範、中山博道師範も本物ではないのでしょうか?」
 私の好きな、斎村五郎先生も駄目なんだろうか?
「たぶん違います。ただ、もしかしたら本物ではなかろうかと思われるのは、神道夢想流の乙藤市蔵先生です」
 非常に興味深い話しなので私が先を促したところ、岩目地先生の回答は、次のようでした。
「塩川先生は、本物になれる全ての要素をもっています。資質、才能、胆力。あれほどの胆力のある人間は先ずいません。しかし、先生は努力が嫌いなのです。稽古するのが嫌いなのです。もし、先生が努力をされたら……返す返すも残念です……」

 岩目地先生は、武道で大成するには稽古だけだと申されます。空手の前屈立ちが出来るまで数ヶ月かかる人がいる。一方、二、三回で立派に出来る者がいる。前者が前屈立ちが出来る頃には、後者はどんどん進み、四股立ち、猫足立ち、素立ちも出来ている。
 しかし、同じ前屈立ちでも錬度が全く違うと申されるのである。まったく非なるものだと申されるのです。器用な者は、どんどん先に進んでいって、結局はものにならないそうです。
 よって、空手で大成するのに必要なものは、第一に運動神経の鈍い者。第二に弛まず稽古を継続すること。この二点だけだ! と言われる。
 そして、付け加えるに「これには例外がない!」と断言される。
 大成する。つまり一流になるのはこれである。がしかし、超一流つまり本物(植芝盛平)になるには、やはり才能を必要とするかも知れないと。
「岩目地先生はどうでした?」
 と私は質問した。
「私は、器用でした。したがって、全然駄目です」
 いつもの返答で終わってしまう。
 全然駄目? 謙遜もそこまで行くと、傲慢になるぞ!

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