師とその周辺







塩川寶祥伝(その二十)




 この項では、塩川門下の中で、私が簡単にご紹介したい人が、お二方おられます。太田師範と、A師範です。

 昭和三十八年に、塩川先生は無外流宗家、中川申一先生を下関に招き、講習会を行った。その時、宗家より三人に免許が授与されている。岩目地光之、宮瀬昇三、加瀬谷孝のお三方です。
 その頃の写真に、黒いメガネを掛けた人が写っています。当時、一緒に稽古されていた、太田正行さんです。
 後に、太田師範は全日本剣道連盟の居合道七段にまでなられた。塩川先生の弟子の中でも異色の剣士であり、全剣連でも有名な先生である。

 この塩川寶祥伝を書くに当たって、どうしても太田師範には触れたいと思っていました。師範の不興を買わないことを念ずるばかりです。
 太田先生の仕事は、下関盲学校の教師でした。そうです、太田師範は本人自らが、身体障害者なのです。当時、太田先生はほとんど全盲に近かったそうです。光が分かるのと、微かに外界の形が、朧に見えるぐらいでした。さらに、それだけでは在りません。右手は小指一本しか在りませんでした。

 では、太田先生はどのようにして、居合を為されたのでしょう。先ず剣は右腰に差します。小指しかない右手で刀を押さえ、左手で抜刀するのです。
無外流得意の袈裟の切り上げはよいでしょう。では、切り下ろすときはどうするのでしょう。右手の小指と手の平で、柄を握るのです。
 型はすべてが逆になります。斬りつける際には、左手が前で柄を握り、左足が前に出るのです。
 よろしければ実際にやってみて下さい。すべてが左右逆、当たり前のことですが、これは大変にやり辛いですよ。
 しかし、刀を差した立ち姿、斬りつけた後の姿勢、不思議とこれが、違和感があまりないのです。ゴルフや、野球のサウスポーのように、明らかに違うという感じがしません。下手をすると、気づかないことも在るのでは? と思ってしまうほどです。
 居合でのサウスポーというのは、聞いたこともありませんが、まったく不自然でないからこそ、全剣連は七段を許したのかも知れません。そうであって欲しいものです。
 身体障害者だから大目に見てなどという、ことではなかったと信じたいのです。
 
 太田先生は、現在、居合道を止めておられます。視力がさらに落ち、光さえ感じられない完全な全盲になられたからだと聞いております。
 太田先生は、武術の指導を、塩川先生にはむろんのこと、岩目地先生からも受けました。居合の指導と限定しなかったのは、訳があります。神道夢想流杖術、内田流短杖術、中和流短剣術も稽古なされたそうです。
 岩目地先生は、私に言われました。
「谷さん、太田さんの指導をして、本当に勉強になりました。我々、眼の見えるものは、本当の型をやっていません。見えると言うことは、知らず知らずの内に、微調整をしているのです。それを気づかさせて頂きました」
 仰る意味はよく分かります。岩目地先生は、初段どころか入門数ヶ月の人間からも教わっています。私自身、何度も目撃し、聞きもしました。
「何十年、やって来て。今初めて気づきました。なるほど、そう言う方法もあるんですね!」
 とマジで白帯に仰るんです。言われた方が、その気になってしまうと、私が神道夢想流の乙藤先生の真似をした結果になるんですが。

 一方、塩川先生も、ある意味では同じです。段位、肩書きを一切問題にしません。問題なのは、強いか弱いかです。(表面上は別です。なにせ商売の部分があるんですから)
「それで、切れるか! なぜ、無駄な動きをするんだ! 最短距離を、素早く斬るんだ!」
 と言う案配です。細かいところには、こだわりません。
「ああ、別にそれでもええぞ、相手が倒れりゃあな」
 私は思うんです。岩目地先生の域には、あるいは、必死の努力、稽古を積み、真摯な気持ちで理合に取り組めば、もしやと言う気持ちも湧いてくるように思います。(もしやが、先ずあり得ないのも承知しておりますが)
 一方、塩川先生、これは明らかに無理です。絶対に無理です。出来るわけがありません。稽古の目標にはなり得ないのです。塩川寶祥として、生まれ変わる以外ないのです。もし可能であるならばの話しですが。

前に述べた、塩川門下の小泉多加子師範、この先生は心身に障害のある子ども達を優先的に入門させて指導にあたっておられます。聞くところによりますと、入門希望者が多く、道場の広さの問題から、入門待ちの子ども達が大勢おられるそうですが、障害のある子ども達は優先的に入門を許可されているそうです。


 さて、塩川門下、もう一人の異色の弟子をご紹介致したいと思います。いまは、亡くなられましたがA師範です。歳は私と同じですから、現代では早死にの方だと思います。
 名前を伏せたのには、理由があります。遺族の方が、迷惑を被るのを恐れるからであります。
 A師範、この方は現役の極道でした。(私は確認しておりません。塩川先生がそう申されたのです)
「おい谷、Aはな、俺がヤクザから足を洗わせたんだ。見所のある男でな、道場を持たせてやったよ」
 と、極めて率直に塩川先生は申されました。大会などの時に、何となく他の支部長の態度に違和感を感じて私が質問したのか、そこのところの記憶は定かではありません。しかし、塩川門下で孤立した感じがしていたことは事実です。
 初めの頃は、弟子の数も少なく、昇級審査の際に塩川先生にわざわざ来場頂くわけにも行かなかったようでした。困ったA先生は、岩目地先生に頼んで、一貫堂と一緒に審査会を行いました。

「谷さん、子供達に空手を教えるのは大変ですよ! まったく忙しくって堪りません」
「えっ、一週間に二回でしょ?」
「道場での指導だけじゃないんです! 参ってしまいますよ」
 不登校、家庭内暴力などの問題がある子ども達の世話を、親に頼まれてやっていると言うのです。最初の頃は、道場の弟子だけでしたが噂は広まるんですね。色々な人から頼まれるようになったそうです。そして、嫌々ながらの家庭訪問。A先生には、ボランティアの社会活動という意識は全くなく、頼まれてしかたなくやっていたのです。
 親や、学校の教師の言うことは一切聞かない子供が、A先生が言うと不思議に聞くらしいんです。
 どういうふうに説得するのか、A先生に聞いてみましたが、別段変わった事はしないようです。
「別に変わったことはしません。親に暴力を振るうのはけしからん! 学校へはいけ! と言うだけなんですが?」
「それだけで、うまくいくんですか?」
「そうですね……それと、親にも問題があるんです……」
 失礼な事を申せば、A先生に教育心理学や、心理カウンセリングの知識、経験があったとは思えません。しかし、彼の言葉と態度には、荒んだ子ども達の心に染みいる何かがあったのでしょう。あるいは天性の教育者としての適正があったのかも知れません。
 そんな訳ですから、弟子の数はどんどん増えます。二つ目の道場を立ち上げるのに、そんなに時間は掛かりませんでした。

 筆が滑りついでに、もう書いちゃいましょう。岡崎寛人師範のことです。
岡崎先生は、極真館の師範の他に、塩川先生より無外流居合兵道免許皆伝、神道夢想流杖術の免許も許されている一流の武道家であります。
 しかし、これから私が述べるのは、中学校の教頭としての岡崎先生です。先生は今までの教職員としての経験の中で、A先生と同じく、不登校、家庭内暴力の子ども達の教育に取り組んでこられました。
「谷さん、子供にとって、三歳は他人から愛されること。六歳は、他者の存在を認識すること。そして、十二歳で努力は報われるという経験が必要なのです。問題児は、その成長課程に問題があったのです。しかし、中学生の間はまだ間に合います。必ず立ち直ることが出来るのです。私はそれをやってきました。そして、現在もやっております」
 岡崎先生の言われることは、在る意味で当たり前のことかも知れません。つまり、教育心理学、発達心理学に於いては、目新しいことでも何でもありません。
 矯正の方法論、マニュアルも出来上がっています。
 現に、その問題に取り組んでおられる。ボランティアの団体も多くあり、多大な成果も上げておられます。

 しかし、現実の場に於いて、それを実行し、ここまで劇的に成果を上げるとなると別問題です。それが出来る教育家がどの位いるでしょうか? 少なくとも私は、A先生と岡崎先生しか知りません。お二人は、教育の技術者では無く、芸術家だと思います。
 知識や情熱だけではどうしても到達できない、個人の才能だと思います。しかも、世に幾多ある才能の中でも、極めて希な才能でしょう。
 
「谷さん、具体的には、私は徹底的な家庭訪問をやります。毎日、問題のある子供の家を訪問します。そして、言えるのは問題は子供にあるのではなく、すべて親にあります。親を落とすのです。親が落ちた瞬間、子供の顔が、パッと輝きます。もう問題は解決しました」
 家庭訪問、つまり親に問題がある。A先生と、岡崎先生は全く同じようなことを言われました。
 私の人生に於いて、今まで何百人の教育家と接して来ました。しかし、このような教育家は、この二人しか知りません。荒んだ子供の心に染みいる魂。親を落とさずには置かない誠。これは、才能としか言い様がありません。
 このような先生に出会うかどうか…それは運です。残酷ですが、運以外の何ものでもありません。

 私が、教育に関して述べるのは片腹痛い! と思われる方もおられると思います。私自身がたぶんにそう思うんですから無理もないでしょう。
 なにせ、私は子供に武道を教えるのは大の苦手です。さらに、自分の子供の教育ですら満足に出来ません。その割には、何とか人様に恥ずかしくないように育ったのは、行幸としか言いようが有りません。まだまだ結果は分かりませんが、この親にして……と私自身驚いています。
 こと教育に於いては、誰でもが評論家になれます。殆どの人は、十年近く、教育の現場を経験しているのです。二十年近く教育を受けた人も珍しくは有りません。
 だからといって、あまりに安直に教師を批判して良いものでしょうか?
 私は、教わった経験と、教え導くことは、まったく別物だと思います。生まれつき才能が有るなんて人は、ほんの一握りでしょう。才能がないかも知れませんが、大部分の教師は、心血を注いで教職の仕事をまっとうされています。教育の芸術家をあてには出来ません。技術者として頑張って頂くことを、社会は望んでいるはずです。
 教師の皆さん、あるいは子供に武道を指導しておられる皆さん、負けないで下さい。教わるのと、教えるのは全く違うんですから。この間の事情を、分かっていない人があまりに多いのが情けないですが、どうか負けないで下さい。

 三年前だったでしょうか、塩川先生が東京に来られたときに伺いました。
「谷、Aを知っとるだろうが」
「はい、よく存じています」
「あいつ、死んだぞ」
「えっ!……」
「先週、葬儀があったんだ。いままでずいぶん葬式には出たが、あんな葬儀は初めてだった!」
 先生の話によると、いよいよ最後の火葬の時だそうです。白い棺桶の上には、A先生の使用していた道着と帯が置かれていた。突然、子ども達が駆け寄り、棺に触るとおいおい泣き出したそうです。堰を切ったように何十人の子ども達が、しゃがみ込んで泣き始めた。
「俺の眼も潤んだよ。あんな葬式は初めてだった。俺もあんなふうに送って貰いたいものだ……」
 先生! それは、無理です!

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