師とその周辺







塩川寶祥伝(その二十三)




商標登録出願は、取り下げられました。当たり前と言えば当たり前の話しですが、直接の原因があります。
 この騒動のさなかに、いつものように塩川先生は、乙藤家を訪れ、歓談されていました。そこに電話が掛かってきたのです。乙藤先生宅は、老齢の先生と耳の遠いおばあさんの二人暮らしです。塩川先生が電話を取りました。
「あー、もしもし、乙藤ですが……おっ、カンちゃんか!……儂よ! 塩川よ……」
 神之田先生です! 本当の偶然です! 電話はその後すぐに、乙藤先生に替わりましたが、用向きが済むと先生は、事態を憂慮されていたらしく受話器を塩川先生に渡しました。
「話し合い? それが出来りゃあ立派なもんじゃ、その気持ちが有るんならな……カンちゃん分かった、分かった。いがみ合うことはないからのぉー……」
 これで商標登録出願は取り下げです。全杖連の中にも、高齢な乙藤先生をこれ以上、困らせるのは忍びないとの意見が大半を占めていたようです。
 私は、その場にいないのに、いかにも聞いた風に書いていますが、聞いたのです。この日の会話は、すべてテープに録音されていたからです。

老齢の乙藤先生に、心労をお掛けするのは申し訳ないとの気持ちは、全杖連の中にもありました。この事件を切っ掛けに、それが更に強くなりました。
 私自身、それを強く感じました。というのも、登録出願異議申立人に全剣連の著名な師範の方々が網羅されていましたが、その筆頭に名前が挙がっていたのが乙藤先生だったのです。
 えっ、! と思いました。と言うのは、商標登録出願の発起人名簿の筆頭に、乙藤先生が自署捺印をされていたからです。異議申立人の名簿では、筆跡こそ違え、確かに乙藤先生の印影でした。
 これをどのように解釈すれば良いのでしょうか? 乙藤先生は、杖道界において、君臨すれども統治せず、統合の象徴だったのでしょうか?


 原因は全く別に在るのですが、あたかもこの事件を切っ掛けのように、全杖連の内部で派閥による抗争が始まってしまいました。別に珍しいことだとも思いません。殆どの組織に、その種子は内包されています。
 全剣連内部でも同じことだと思います。ただし、剣道連盟杖道部の場合は、寄らば大樹の陰、名誉欲と金銭欲を提供出来るシステムが出来上がっている為に、分裂とまでの深刻な事態を招聘しないだけだと思います。
 全杖連は組織自体が小さく、名誉欲、金銭欲を満足させるシステムが弱かったために、分裂、消滅の道をたどるのも止むなし、と私は覚悟をしていました。
 所詮、人間はその程度のものだとの諦観は、残念ながら過去の人生経験で勝手に思えてしまうんです。

 内部抗争の詳細を書く気は有りません。読者の方が勤務されておられる会社、あるいは所属する組織において、ほぼ日常的に見られるものと大差は無いでしょう。でも、少しだけ書きましょう。
 全杖連がこの事態に陥ったときに、救世主が現れました。我が一貫堂の山田宏師範です。この困難な時期に全杖連の理事長に就任し、あえて火中の栗を拾ったのです。獅子奮迅の大活躍で全杖連の危機を救いました。同じく一貫堂の嶋田謙師範は、事務局長として、よく山田先生の補佐をされました。
 一貫堂師範会の、この内紛に対する共通認識は以下でした。
(全杖連は小さくとも公の組織である。個人の主催する団体、道場とは社会的責任が異なる。会長名義で発行した、段、称号の責任はどうなるのだ。各師範にではなく、全杖連という組織に入会し、訳も分からず抗争に巻き込まれてしまった、一般会員に対する責任はどう取るのだ)

 岩目地先生は、山田師範が理事長になる少し前に全杖連を脱退しておりました。全杖連の総本部長でしたが、面倒くさいことは大嫌いな先生です。
「杖道の稽古は続けていますよ。一貫堂で稽古できるだけで満足です。正直なところ、脱退して肩の荷が下りました」
 しかしながら岩目地先生は、
「復帰するのは厭ですが、もし、全杖連が解散、消滅という事態に陥るならば、私は復帰し、一人だけでも全杖連を引き受けて維持して行きます。今まで発行してきた段位、称号の責任の一端を取る覚悟はあります」
 という決意を表明されました。

 私は私なりに事態の収拾策を考えていました。極めて単純なことですが、岩目地カードをいかに切るかです。しかも、絶妙なタイミングが必要です。
 山田先生も嶋田先生も思いは同じでした。その為にお二人は、あえて汚れ役を引き受け頑張っておられました。 
 私は、所属する東京都杖道連盟の皆の意見を聞き、各地の情報も集めていました。東京における岩目地待望論は、まさに悲鳴でありました。
 待ちに、待ちました。そして、ここぞというタイミングで、岩目地カードを切らせて貰いました。電話、手紙でお願いしました。ありがたいことに先生は、嫌々ながらもカードになってくれたのです。

 実に岩目地先生らしいのですが、全杖連復帰にあたり先生は、あらためて入会金を納め、新入会員としての立場を堅持されました。少なくとも一年間は、一切の役職に就くことを拒否されたのです。
 かたちはどうであれ、岩目地先生は全杖連に復帰されたのです。流れは一気に収束に向かいました。
 その他、全杖連を愛する人々の力で、現在、復興の途上にある全杖連は、往時の三分の二までの回復を見ました。
 東京都杖道連盟の藤代利明師範は、本当に苦労をなされました。しかし、そのおかげで、私も現在、気持ちよく杖道の稽古をすることが出来るのです。ありがとうございました。
 出来る範囲で、私も多少の手助けは致しましたが、今は、のうのうと、こんな駄文を書いています。

 現在、全日本杖道連盟は、会長、安部晋三、副会長、小西御佐一、総本部長謙理事長、岩目地光之の体制です。嶋田先生は事務局長として頑張っておられます。山田先生は、理事長を辞任し常任理事の地位にあります。
 武道塾一貫堂は、岩目地塾統を始め皆さん典型的なアマチュア集団です。辻先生の言われるように、純粋性を保持している集団です。なぜなら、武道の世界での名誉が、自己実現、自己表現と言うほど、その人間の自意識に関わらないからです。つまり、自己顕示欲に繋がらないのです。
 武道はあくまで単なる趣味であり、“術”以外のものを武道に求めることは、あまりないのです。ですから、組織の拡大にとっては、まったく役に立ちません。これは、断言できます。自分が稽古できれば、それだけで満足なんですから。
 しかし、組織が混乱したときには、意外に出番がやって来ます。なぜなら、利害損得を離れた行動を取れるからだと思います。
 一貫堂師範の末席を汚している私ですが、一貫堂は実に居心地の良い集団であります。


 武道塾一貫堂は、塩川一門に於いて在る程度、重要な位置を占めています。考え方は結構バラバラで、対立することも少なくありませんが、極めて人間的に仲が良いのです。
 私は、意見の対立から山田先生に、ビールのジョッキで殴られそうになったことがあります。何と言っても山田先生は武闘派です。恐ろしいことに、これまた意見の対立から道場の床を叩いて塩川先生を怒鳴った程ですから。(全杖連の混乱の時でした)
 山田先生、私も裏の世界を多少は知っているのですよ。極道の世界での山田先生の評判を! 先生は紛れもなく堅気の経営者ですが、極道に一目置かれているのは何故ですか?
 その山田先生が、岩目地塾統にだけは完全に服従しておられます。山田先生は全杖連で教士八段です。範士を取るように小西先生に何度も促されていますが、拒否しています。その理由は、範士八段になったら、岩目地先生と肩を並べてしまう事になると言うのです。
 何処かで聞いたような話です。どうぞ、好きにして下さい。でも、私は山田先生が好きです。武勇伝も聞いておりますが、武士の情けです。ここで明らかにすることは致しません。

 一貫堂には、塾統、岩目地光之先生以下、山田宏師範、嶋田謙師範、里富勲師範、そして、私しこと谷照之の四人の師範がおります。すべて、岩目地先生が任命されたのです。
 私だけ本名で無いのはどうかご勘弁下さい。ここで白状しましょう。谷は、私の名字を反対に読んだのであり、照は、塩川寶祥照成から、之は、岩目地光之から、ご両人には了解を得ることなく勝手に頂きました。(これが私の流儀です)
 岩目地先生を崇拝するポンタル君は、一貫堂シンパの代表と言うべき存在でしよう。彼は、私などと比べるのもおこがましい程の武道家であります。
 表向きは空手道三段、杖道三段、居合道三段で在りますが、実は、杖道に於いては乙藤先生より、神道夢想流杖術免許の巻物を頂いており、居合道に於いても塩川先生より、無外流居合兵道免許を許されているのです。禅に於いては、良寛和尚も修行した岡山県の名刹、曹源寺の原田正道老師に参禅すること二十年に及ぶ雲水でもあります。でも、私に取ってはあくまでもポンタル君です。
 ポンタル! 私が死んだときの引導は頼むぞ! 


 無茶苦茶、横道に逸れてしまいました。このエッセイの主人公である、塩川先生はと言いますと、今現在、全杖連を引退しておられます。この騒動の最大の責任者は、塩川先生であります。
 全日本杖道連盟にとって塩川先生の位置は、杖道界における、清水、乙藤、両先生を合わせた位の権威が在ったはずです。柔道界では、嘉納治五郎先生の立場です。はっきり申しまして、ほぼ全員が塩川門下なのですから。
 しかし、塩川寶祥は大人しく神棚に鎮座している人間では在りませんでした。統合の象徴たるには、あまりにも個性が強すぎたのだと思います。
 極めて、はた迷惑な話では在りますが、それでこそ塩川先生とも言えます。

 最後に、現在の塩川先生と全日本剣道連盟の関係を記してみたいと思います。どうやら、剣道連盟に籍は在るようなのです。杖道部は退部しましたが、居合道部の籍は別物です。
 昭和六十年代のことになりますが、山口県剣道連盟から塩川先生宛に手紙が届きました。
「おい谷、この手紙を読んでみろ!」
 と言って先生は、便箋を私に渡されました。私の記憶によると以下のようになっておりました。
「時節柄、塩川先生に於かれましてはますますご清栄のことと、お慶び申し上げます……」
 ようは、先生が主催されている会は、益々隆盛の途にあるやに聞いております。付きましては、まだ現在、山口県剣道連盟に籍が在るため、全剣連との間にあって苦慮致しております、形式的ではございますが、別紙、脱会届を出して欲しいとのことであった。
「退会して欲しいんですか……。山口剣連は困っているようですね」
「内々に、今までの功績を考慮して、居合道範士の称号を贈るからとも言いやがった」
「先生どうなさるんですか?」
「こんな紙っぺら一枚寄越しやがって。本気なら足を運んで来れば良いじゃないか」
「そうしたら……」
「ああ、脱退届を書いてやるよ」
「本当ですか?」
「ただしその後、一勝負するがな」
 そう言って、先生は不敵な笑いを浮かべました。
 山口県剣道連盟はすべてお見通しなのです。塩川先生は、返事を出されませんでした。除名する名分が立たない以上、現在も籍だけは、そのままになっているのではないかと思います。


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