師とその周辺







塩川寶祥伝(その二十四)




 灰燼の中から立ち上がった、戦後の日本。飢えに苦しみ、日々の食を得るために、人々は必死で毎日を送りました。生存に関する、最低限に必要な物の確保から始まったのです。社会秩序の維持という国家の重要な役割を、一時的にヤクザ組織が担ったのも事実です。

「戦後すぐのことだったと思う。夜道を歩いていると、向こうから風呂敷に巻いた、刀のような物を持った奴がやって来た。殺気を感じた俺は、身構えた。すると男は、何も言わずに突然、斬りかかってきた」
「先生っ、それって……」
「ああ、辻斬りだ。心の準備をしていた俺は、とっさに落ちていた煉瓦で、刀を受けた。その時、指先を少し切った。僅かだけどな。指先の怪我、あれは痛いぞ!」
「はぁ、そうですか?」
 指先が切られても、痛さなど大したことはあるまい。それよりも、
「先生っ、辻斬りされたんですよね?」
「まあそうだ」
「辻斬りを、したんじゃ無いんですね?」
「馬鹿者! あったりまえだ! しかし、どうも奴は、俺と承知で斬りかかってきたような気がする。誰かに頼まれたに違いない……」
 先生の賭場荒らしの逸話が頭を掠めました。怖くなった私は、その事件の結末まで聞くことは出来ませんでした。
 
 戦争中の戦闘機乗りであった時代から、戦後の混乱期における、進駐軍との闘争時代は、武道の試合などと言う生やさしいものではありません。ルール無用、日々殺し合いの修羅の世界でした。
 そこでの必要性から先生は、武道に接近したのです。その逆ではありません。
 野球のように打率四割を目指すなどという、生易しい世界ではありません。勝率十割でなければ命がないのです。試合ではありません。リベンジなどあり得ない、殺し合いなのです。このような過酷な世界に、人間の神経は何処まで耐えることが出来るのでしょう。
 かの宮本武蔵も二十九歳の時に、修羅の世界を離れています。そして、六十歳にて歴史に顔を出し「五輪の書」を残してこの世を去りました。
 塩川先生も昭和三十年、三十歳にしてトタン屋根のバラック立ての道場を建てました。宮本武蔵と同じくこの頃に、修羅の世界を離れたのでは無いかと想像します。社会がそれを許さなくなったのです。武蔵は三十歳からの三十年間の軌跡が不明です。
 しかし、塩川先生は三十歳から、実戦武術家として、社会の中で位置を得ます。命を賭けた、過激な他流試合が続きました。がしかし、それはあくまで社会秩序の中でなされました。

 今、私は主として、社会秩序の中での塩川寶祥を書いています。しかし、塩川先生の人間としての背景は、修羅の世界を抜きにすることは出来ません。九歳の時に、武道家で地方の名士であった祖父の義重爺さんに、切腹を迫った魂を忘れてはならないでしょう。十一歳の時には、ヤクザを斬りつけ、辻斬り豆剣士の異名を取りました。
 戦後の、修羅の世界については、ここで詳細を記述することは出来ません。

 人は、たとえそれが虚妄と知りながらも、生存していく上で、人生の目的を必要とする場合があります。自らの資質と、時代の流れにそって極めて過激に生きてきた先生も、それを必要としたのでしょう。
 そして、武道を極めることを、その対象にしたのです。この決断がなければ、先生はいずれ討ち死にしたと思います。武道を志すと言うことは、言い方を変えれば、社会と妥協することです。
 その出発の象徴が、バラック建ての道場でした。社会的にかろうじて認知されうる、実戦武術家として生きていくことを選択したのです。
 これが、塩川寶祥の第一の転換点でした。第二の転換点は、後述しますが、平成十七年の八十歳の今です。


 昭和三十年に入ると、新生日本の建設が始まりました。それに伴い、武道界の再構築も計られるようになりました。例えば、剣道、柔道、合気道、空手道、居合道、杖道もそうです。
敗戦後の混乱の時期から、現代武道界の草創期に掛けて、塩川先生は大活躍を致しました。時代が彼を必要としていたのです。期待に応えた先生は、全剣連の居合道、杖道の今日を創りあげたと言っても過言でないほどの貢献をしました。水を得た魚のように、先生は時代を泳ぎ切りました。前述の武道すべてに、先生は関係しています。
 柔道における塩川先生の足跡を書いておりませんが、剣道と同じような案配で、五段を取得したすぐ後に、止めています。

 ところが、昭和三十九年の東京オリンピックを機会に、世の中は激変致します。大阪万博の大成功もありました。高度成長経済を経て、五十年代に入ると社会の秩序も確立されてきました。
 混乱期、草創期の英雄は必要なくなったのです。いや、その実力、実績、行動様式ゆえに、むしろ確立した組織に取っては、その存在自体が、害を及ぼすようになりました。
 では、どうなるか? 宮本武蔵と同じように、排除されることになるのです。
 ここに、塩川寶祥の悲劇が発生して来ます。確立した組織は、自らの存在を維持する為、先生に時代錯誤のピエロ(道化師)としての役割を与えようとしました。
 昭和五十九年の全剣連との衝突も起こるべくして起こったと言えるでしょう。全剣連の審査規定に抵触したなど、些細な切っ掛けの一つに過ぎないと私は思います。
 
 塩川先生は私に申されました。
「審査規定で、人数を満たしていないだと! ふざけた事を言うんじゃないぞ! では、俺が弟子の宮瀬(宮瀬昇三師範)と二人で、各県を回って、居合道の段をどんどん出したが、ありゃどうなるんじゃ! 今では、みんな立派な高段者になっちょるが、俺が公にしたら、全剣連はひっくり返るぞ!」
 そうです、先生は、請われるままに手弁当で各県を廻り歩き、講習会を行いました。そして、段位を、どんどん発行したことによって、剣道連盟も昭和五十五年の審査規定が出来るような体制になったのです。(杖道も同じです)
 しかし、時代の空気を読んで、身を処することの出来ない男が、今現在の組織に居ることは、“百害あって一利なし”と言えるでしょう。組織維持に為に、排除に向かったのも当然のことだと理解できます。一昔前なら組織を守る為に、刺客を放ったとしても不思議では有りません。

 秩序の確立した時代にあっては、塩川先生の居場所は少なくとも組織の中には在りません。自らが創設した全日本杖道連盟に置いても然りであります。無外流居合兵道の混乱も然りです。塩川派糸東流の、日本空手道会も軋みを揚げているようで、東京に居る私の耳にも聞こえてきます。
 私も含めた、一般大衆が武道に求めるものは何でしょう。健康の増進、喧嘩で強くなりたい、精神的に強くなりたい為、その分野で名を成したい為……。
 色々有るでしょうが、塩川寶祥は違います。先生なりに時代に適応しようとなされていますが、本質的に、先生における武道は「殺すか殺されるか」の修羅場における道具なのです。
 命を賭けて戦うなどという事とは、レベルが違います。即、死と隣合わせの世界であります。先生は、羊の皮を被っては居ますが、実にその世界の住人なのです。

 
 いったいどうなるんだろうと、心配していた私にも、最近になって、やっと見えてきました。八十歳になられた先生は、やっと対象を特定できない怒りの感情の爆発が、治まってきた様な気がするのです。
 塩川派糸東流空手道は、御子息、塩川尚成師範に二代目を譲られました。神道夢想流杖術の後継者は、岩目地光之師範です。ほとんど孤軍奮戦して、日本全国にその名を広めた無外流居合兵道については、中川伝は、小西御佐一師範が継承されておられます。塩川伝は、岡崎寛人師範が継承されました。
 老婆心ながら一言。頼むから先生! もう組織のことには口を出さないで下さい。あなたの活躍できる時代は終わったのです。他の武道大家のように大人しく神棚の前に座って居て下さい。
 そうです、乙藤市蔵先生、紙本栄一先生という、素晴らしい御手本が在るではありませんか。

 ここまで読んでこられた方に、深く感謝すると同時に、塩川寶祥伝(その三)に私が、恐れ多くも宮本武蔵と、塩川先生の比較したのを憶えておられるでしょうか。そして、ある程度納得されたのでは無かろうかと自負しています。
 宮本武蔵は、関ヶ原の合戦から徳川初期の世の中が騒然とした時代に現れ、秩序が確立すると共に姿を消しました。そして、再び世に現れたのは六十歳の時です。その必要に応じて時代が彼を出現させ、不要になった時、時代が彼を疎外したのです。
 武蔵と同じく塩川先生もこれといった師匠は居ないような気がします。むろん、当代一流の師範の門に入りましたが、世の常の師弟関係とは明らかに異なります。次ぎに一覧してみましょう。

 空手道   摩文仁賢和師範
合気道   植芝盛平師範
居合道 紙本栄一師範、中川申一師範
杖 道 乙藤市蔵師範、中嶋浅吉師範

 何れもその世界に於いては名だたる先生ですが、本当に塩川先生の師匠なのでしょうか? 薪水の労をとり、術を教わったと言う感じは全くありません。全剣連居合道全国大会三連覇の、冨ヶ原冨義範士をして言わしめたのですから。
「塩川さん、あの人は私とは違う。一度見れば出来てしまう。天才なんだから……」
 あるいは本当にそうかも知れません。

 
 塩川先生が、現存の武道家の中で、最高レベルに達しておられると言うのは、贔屓の引き倒しの感があるかも知れません。しかし、一流の武道家であることは間違いないでしょう。
 大ざっぱに言って、武術六百年の歴史の中で、一流の武術家の言として、以下の言葉が残されていることは、寡聞に聞いたことがありません。絶無です!
 塩川先生は、私にはっきり、こう言い切ったのです。
「いいか、谷、良く聴け。武道なんてものは、実に底が浅い。本当に底が浅いんだぞ!」
 この言葉は、千鈞の重みが在ります。この言葉を吐いたことで塩川先生は、歴史に名前を止める資格があると思います。
 齢七十を過ぎた武道家。そして、命を賭けて武術を極めることに邁進した者が、地位も名誉も無視した本音。素裸の戦闘者にしか言えない言葉を発したのです。
(武道の大家と公言し、理屈や理論でいっぱしの顔をして、ふんぞり返っている小物は五万といるが、実力はお粗末なもんだ。武術は殺し合いの道具じゃないか。命を捨てる覚悟のない武道家ばかりじゃないか)
 私にはそのように聞こえるのです。
 そして、その言葉は、ある種の寂寥感を漂わせているように思います。命を賭けて極めようとした対象に、裏切られた諦観の響きとも感ぜられたのです。  

 宮本武蔵は、齢六十にして突然、再び歴史に顔を出し、「五輪の書」をしたためました。この事実よって武蔵は、武術を極め、解脱し、悟りを開いたとの高い評価を得ているようです。
 しかし、私はそうは思いません。時代に迎合して歴史に名を残すことを選択した、哀れな老醜を感じてしまいます。そこに、戦闘者としての挫折が観えてしまうんです。

 誤解のないように言わせて頂きます。私は武蔵を軽視している訳では無いのです。それどころか、柳生を筆頭とする、武術を商売、政治と見なして世渡りする武芸者とは、同列に扱ってはおりません。
 しかし、時代の趨勢として、社会に容認されやすい理屈や理論としての武術が栄えたことは、これまた当たり前のことではあります。
 名だたる武術家の極意書は、数多くあります。極端に言えばその多くを私は、商売の書だと思っております。執筆者が自覚しているかどうかは別にして。(繰り返しになりますが、茶道、華道の極意書も似たようなものです)
 この点の思いに関してだけは、私は塩川寶祥の弟子です。武術の実力は、てんで話しにならず、とても弟子と言えないことは断言できます。


                                               <25>へ

トップページへ