師とその周辺







一途な人(その一)




  

 これから書こうとする、「一途な人」とは私が七年間師事した林文照老師のことです。まさかこのHPで、文照老師の事跡を書こうとは思いもよらぬ事でした。
しかし、世の中、不思議な切っ掛けで事態は進展するんです。塩川寶祥伝を書いた切っ掛けは、木蘭さんが遭遇した事件でした。今回のエッセイは、あろま様の掲示板での文章です。私の、あろま様とアサイッチに対する応援のエールだと思って下さい。
 書き方は、塩川寶祥伝と同じく、あくまで私のエッセイです。出典は文照老師の講演記録、発表した文章、著作そして私が直接に聞いたことを中心に、私なりにキャラクターを立ててみました。
 ただ、塩川寶祥伝と異なるのは、本人の了解を得ていないことです。「おぉ、おぉ、好きなように書きゃええ!」とは言われてないのです。まして、塩川先生との関係のように文照老師との関係は親密とは言いかねます。
 したがって、出典が多くあります。これについては、このエッセイの最後にまとめて記載させて頂きます。

 塩川先生を巡る弟子達は、先生の暴力的強さ、胆力に憧れるか、型破りな性格を愛している人々です。しかし、文照老師は違います。彼を取り巻く人々は、彼に精神的な拠り所を求めている人々です。さらに信心の対象にしているのです。この人達の心を傷つけないように気を配ればなりません。宗教信者はある意味でとても恐い存在です。その信心が純粋であればあるほど、普通の人間にとっては、恐い存在になってしまいます。なぜなら、普通の人間なるものは、極めていい加減に世渡りをしているからです。間違い、良い加減と言い換えましょう。


 さて、仏教関係者で私が直接接し、感銘を受け、一途な人だと思えた方は、天台宗の回峰行者、斯波最誠老師と、本編の主人公、林文照老師です。
 師事した時間の長さと、典型的な一途な人である文照老師を本編の主人公と致しました。
私なりに、“一途な人”を定義すると。長年にわたり一つのことに拘り、他のものを犠牲にして、只ひたすら非社会的な行動に邁進する人を言います。反社会的ではありませんよ、念のため。
なお、斯波最誠老師について知りたい方は、ヤフーで検索してみて下さい。たくさんヒットします。また著作も多いのでそちらを御覧下さい。

 人が、ある一事にのみ執着をして他のもの顧みず、十年、二十年とひたすら励むとき、世間が放っておきません。その一事が人間の業である利害得失を超えたところでなされる場合は、その人間があたかも真空になったかのように、巨大な吸引力を発揮して他の人々を惹き付けてしまうのです。あたかも竜巻のように。その典型的な例として、私は恐れ多くも林文照老師を料理しようというわけです。
 これには間違いがありません。ささやかではありますが、現実の生活で私自身が実験台となって検証したことがあります。扇風機の風ぐらいしか影響が無かったのは、私という人間の器と動機の不純さに原因があることは明らかです。

 想像してみて下さい。あなたが今日、一念発起して毎朝五時に起きるとします。出勤前の二時間、自宅前の道路を清掃するのです。むろん徹底的に。それを、雨の日も、雪の日も一年三百六十五日、十年続けてごらんなさい。社会に大変な影響を及ぼすことは間違いありません。二、三年では駄目です。最低十年が必要なのです。
 最初の影響は家族に現れます。初めは軽蔑されるかも知れません。なにをバカなことを! です。しかし、亭主がバカなことを真剣にやっているのを数年見てごらんなさい。妻の態度が変わります。バカ親父と軽蔑していた子供も、これって一体何なんだと、貴方を見る眼が変わるはずです。
自宅前の道路を清掃されていた近所の人たちも、嫌みったらしいと蔑視の目を向けるはずです。しかし、一年三百六十五日、雨の日も、雪の日も続けてごらんなさい。必ずや変わるはずです。そのうち、ちらほら清掃を始める人の姿を見かけるでしょう。腕に覚えのある人は街路樹の剪定を始めるかもしれません。そして十年後には、まさに町内大清掃運動になってしまうでしょう。
 どうです、やってみますか? 私は面倒なのでごめん被ります。
 じつは、文照老師はこれと似たような事を三十年に渡ってやった人なのです。単にそれだけとも言えるでしょうが、普通の人間にはまず出来ません。

 いささか皮肉めいたことを申していますが、むろん、私は文照老師を心より尊敬致しております。しかし、「一途」という言葉には、参ったな! とか、ちょっとバカじゃ在るまいかという意味も含んでおります。(あぁ! ヘマすると信徒に殺されそう!)
 
 誤解しないで下さい。文照老師は智彗深淵に達した碩学でもあります。漢文に精通され、自作の漢詩を詠む趣味をお持ちです。さらにサンスクリット語にも造詣の深い、仏教界の至宝とも言える御方です。
 私如きが云々するのはおこがましいのですが、どう転んでも、まさか殺されることは無いでしょう。


 林文照老師、この方は黄檗宗の禅僧です。現代の日本に禅宗は三宗あります。曹洞宗、臨済宗、そして黄檗宗です。厳密に言えば、黄檗宗は臨済宗に含まれます。しかし、中国より伝来した時期が異なり、(江戸幕府の再三の招請を受け、隠元禅師が日本の地を踏んだのは、西暦1654年のことである)臨済義玄の師であった黄檗希運をもって宗派名としました。
 隠元禅師は、後水尾上皇、徳川家綱の帰依を受けて、宇治の地に黄檗山満福寺を開山しました。長州藩(山口県)に於いては、毛利家の帰依を受け菩提寺となっています。私が禅会に参加した覚苑寺は、毛利家長府支藩の菩提寺でした。
 もったいぶって何を言いたいかと申しますと、黄檗宗とはあまり馴染みがない禅の宗派であるが、いい加減な宗派では在りませんよという一言なんです。あぁ、疲れた!

 疲れついでに、老師の経歴を簡単にたどって見ましょう。林文照老師は大正11年3月1日、福岡県北九州市で生誕。9歳にして北九州市小倉北区広寿山福聚寺住職林隆照和尚(実父)に就き得度。翌年、10歳の時に父、林隆照遷化。
 蔵内次郎兵衛氏の援助により、昭和16年駒沢大学に入学、沢木興道老大師に坐禅の指導を受ける。昭和18年応召兵役。昭和20年復員、直ちに復学。21年駒沢大学本科卒業。同年黄檗禅堂再掛錫。師家鈴木皓慈老大師に就かる。昭和44年同老大師の心印(印可)を稟ける。

 余談を一つ、老師という称号は、師より印可を受けた者の尊称である。武術に於いては、師範、免許者にあたる。
 禅会や葬儀の時に行う法話は、住職でも出来る。しかし、提唱を行うことが出来るのは、老師のみです。
  法話−仏法の趣旨をやさしく説いて聞かせる話
 提唱−禅宗で宗旨の大綱を示して説法をすること
武道に置き換えれば、指導員が出来るのが法話であり、提唱が出来るのは師範(免許者)だけだと言うことになろう。
ありがたいことに私は、七年間にわたり文照老師の提唱を聞いてきたことになります。
 さて、この印可(心印)であるが、老師に許されるのは聖俗対等である。かの大森曹玄老師は生前に11人に印可を与えたと聞きました。その内、僧籍にある者が4人、在家の居士が7人であったという。
 よって、寺の住職が、サラリーマンで印可を受けた者に従い、修行をすることも珍しいことではない。

 話しを元に戻すことにしましょう。鈴木皓慈老大師と沢木興道老大師このお二人は、文照老師の生涯の師匠となった。沢木老師の名は、禅に関わる者で知らぬ者はないほどに有名だ。そう、あの“宿なし興道”です。
 一方の鈴木老師は、禅僧はともかく一般人には、それほど名は通ってはいない。(ヤフーで検索しても出てきません)しかし、この鈴木老師は大変な人物です。後の章でその人となりを、乏しい知識で述べることになろう。この人もまた、一途な人である。


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