師とその周辺







一途な人(その二)




「谷さん、今でも坐禅を続けてるんですか?」
ポンタル君である。空手の稽古が終わり着替えている時だった。場所は日本空手道会本部道場、分かりやすく言えば、塩川先生の拳聖館道場である。
 そう言えば、以前、ポンタル君と坐禅の話しをしたことがあったっけ。以後、彼は岡山県の曹源寺に掛錫して一年以上会う機会が無かった。
「ああ、日曜日には、なるべく禅会に行って坐るようにしているよ」
「そうですか…」
 嬉しそうに彼は言葉を繋いだ。
「…実は先日誘われてある禅会に顔を出したんですが。そこの老師が素晴らしいんですよ。数百年に一人出るかどうかの人物です」
「おい、それはいかに何でも言い過ぎだろう」
「絶対に言い過ぎじゃありません。ぜひ行ってみて下さい」
 着替え終わった後も話しは続いた。ポンタル君は、剃髪に洗い晒しの作務衣を着た、二十歳過ぎの若者であった。今から十四、五年前、平成一、二年の頃だったと思う。

 ポンタル君に言われて、たいした期待もせず、日曜の朝六時半に下関長府にある覚苑寺の山門を潜った。大きな寺で、後で知ったのだが後背の山も寺の所有であった。
 正面に僧堂があった。江戸時代建立の文化財に指定されている建築だ。その後ろに、庫裡があり、隣接して庫院らしき建物があった。(名称を正確に知っているわけではない、多分そんなところだろう)
 靴を脱ぎ雪駄に履き替え、境内を清掃を始める。楓の生い茂った境内の清浄な空気が快い。木板の音を合図に掃除を止め、僧堂に入る。七時半になると坐禅が始まった。
 五体投地をする。正面に本尊の釈迦牟尼仏の像、その左右の像は名前が解らない。一つは文殊菩薩かも知れない。
 ここで言い訳をしておこう。私の仏教、坐禅についての興味はかなり偏りがあります。
もちいる用語も間違いがあるかも知れません。どうかご勘弁願いたい。

 暫くすると、先に入って坐して待つ我々の前に、七十歳過ぎの老僧が入ってきた。林文照老師との初見であった。
「あっ、これは違う!」
 老師の風貌を見た瞬間そう思った。明らかに我々凡人とは違う世界に住んでいるということを感じた。メガネに穏やかな顔つきだったが、姿勢がよく、立ち居振る舞いは武道の達人に通じまったく無駄が無い。
 以後、同じように会った瞬間、明らかに凡人とは違うという決定的な印象を受けた方がもう一方おられる。それは、常陸宮殿下を間近に拝見したときであった。

 そして、老師に従いもう一度あらためて五体投地の礼を行い、“単”に正座して経を挙げる。開経偈、魔詞般若波羅密多心経、妙法蓮華経観音菩薩普門品第二十五……。
 約一時間経を挙げたところで、坐禅に入る。二時間坐ったところで老師の碧巌録の提唱が一時間。なんともいえぬ良い声である。次ぎに参禅となり、順番に庫院の一室に入って老師と対座して参禅。参禅しない者はそのまま、一時間坐禅を続ける。
 短い経品の時間を挟み、やく四時間坐ったところで、十一時半になる。すると坐禅は終わり薬石が始まる。提供される白粥の旨いこと。此処までは緊張している。
 薬石が終わり喫茶、老師とうち解けた話しをするのだが、文照老師は穏やかに気品をもって雑談をする。結局、すべてが終わるのは十二時半ぐらいであった。完全に半日かかってしまう。
 まあ、だいたい禅会はこのように進行する。

 この禅会(法輪禅会)が気にいった私は、以後七年にわたり、この法輪禅会に顔を出した。四年、五年と続ける内に、けっこう私も古株になっていった。
「谷さん、参禅されてはどうですか?」
 と、禅会を主催しておられる、覚苑寺の浜田住職に何度も誘われたが、断り続けた。
「私は、数息観だけで結構です」と言って。
 何の因果で、人に罵倒され、時には暴力まで振るわれる参禅なんかをしなければならないのだと心底思っていた。
 老師の鉄拳が飛んできたら、手刀受けでハッシと捌いてやろうという妄想はした。

 最低、一年続けなければ参禅は許されない。しかし、すぐにも参禅したがる者もいる。そう言った人は、浜田住職に諭されることになる。まずこういった人は長続きせずに止めてしまうのが常だった。
 参禅とは、老師から公案を貰い対面して問答することを言う。
「谷さん、数息観だけで大悟した方も居られます」
 と言うポンタル君の言葉を信じた私は、以後、数則観に励んだ。では数息観とは何でしょう? 簡単に言えば自分の呼吸を数えるのである。ひとーっ、ふたーっ……十まで数えて終わり。また一から数える。
 これが大変に困難である。やってみれば解るが、集中して息を数えることが出来ないのだ。禅会のあいだ三時間、数息観をやっても、満足に十まで数えられたのは、一度か二度であった。
 法輪禅会は、第四日曜日の月に一度だけであった為に、私は毎日自宅の座敷で、一?坐禅をした。一?とは線香一本が燃え尽きるまでを言い、通常は四十分である。
 襖を閉め切り自宅で坐ると、不思議に四十分間に二度の数息観ができる。

 以上、簡単に坐禅について書いてきた。私といえば途中、怠けながらも何とか十年坐禅を続けてきたことになる。そして何も得たもなはない気がする。ただ、まがり成りにも十年続けた事実だけが残っている。


 さて、文照老師は昭和23年、二十六歳の時に郷里に帰った。そして、父親、隆照和尚と縁のあった、円通庵に入寺、その後一ヶ寺に昇格させ円通寺となった。
 寺には違いないだろうが、この円通庵は大変なものであった。六畳の居間に八畳の仏間、そして客間の八畳だけ、便所と風呂はどうやらあったらしい。むろん、檀家の一軒、一人の信者も居ない。
 さらにこの庵、根太は腐り床は傾いているわ、屋根も腐り瓦が落ちて、ひとたび雨が降るや、雨漏りなんぞという生易しいものでは無く、雨が掛からない場所に避難する始末だったらしい。
 円通庵は借家となったいたが、痛みが激しく無住になり、浮浪者が住み着付く羽目に陥った。さらに痛みは進行し、さすがの浮浪者も逃げだしたという、いわく付きの廃寺であった。

 ここで文照老師は人生の岐路に立たされた。噂には聞いていたが、さすがに庵の前に立ち呆然としてしまったに違いない。
 この時、老師は学校教師をしていた級友と再会した。級友は、さすがに見かねたのか中学、高校の教師免状を持っていた老師に、教員になるよう強く進めた。当時は、教員が不足していた時代であり、簡単になることも出来たのだが、老師はそうはしなかった。

「カカアは持っても寺は持たぬ。人に執着を離れることを教える寺が、僧侶の執着の砦になっている」
 といって一生涯、奥さんも寺も名誉も求めず、坐禅三昧、衆生済度に勤める生き方をしたのは、沢木興道老師である。
 彼に心酔していた文照老師は、「よーし、俺も一つや二つ真似してやろう。先ず一生涯女は持つまい、次ぎに名誉は求めまい」と二つの誓願をたてた。荒れ果てた円通庵のご本尊を守り一生を終えようと思ったのだという。
 思うだけなら誰でも出来る。私とて武道の名人になりたいという妄想を持つことはある。しかし、そう思うのはウイスキーを飲みながらで、翌日の稽古はサボるということの繰り返しである。

 一軒の檀家も、一人の信者もいない坊主に何が出来るか? 戦後の昭和23年、食料事情の最も悪い時、どうして喰うことができるのか? それが出来るのである。坊主だからこそ出来るのである。
 墨染めの破れ衣に網代傘、素足に草鞋履きで托鉢をするのだ。一軒一軒の門に立つ乞食(コツジキ)である。
「乞食と坊主は三日やったら止められぬ」
 という言葉があるが、案外通じるところがあるやも知れぬ。しかし、これは坊主の王道であると思う。ひたすら、この道を歩む坊主には、自然に頭が垂れてしまう。

 文照老師は、托鉢を始めた。午前中に市場から商店、住宅街を廻り、夜は繁華街、遊郭などを廻った。毎日三十キロの行程である。托鉢経路は小倉市を本拠に若松市、戸畑市、八幡市、門司市と現在の北九州市の全域に及んだ。
 夏は、熱で溶けそうなアスファルトの上を、冬は凍てつく大地のうえを、素足に草鞋で雨の日も雪の日も、三百六十五日、二十年間に渡って托鉢を続けたのだ。完全に托鉢を止めたのは三十年後のことであった。
 むろん、三百六十五日というのは、言葉の綾である。厳密に受け取って貰っては困る。この間、老師は京都の鈴木晧慈老師の元を訪れ参禅に勤めていた。

 ある日の禅会で坐禅が終わり、喫茶のうち解けた雰囲気の時だった。
「私が、僧として誇れるものは、托鉢である。これだけはどんな僧にも負けぬ」
 と言って、老師は托鉢の仕方を教えてくれた。
 門に立ち、唱えるのは普回向と四弘誓願文である。これを言葉明瞭に詠んでは駄目で、
ホォー、ホォー、ホー、ホー、……と唱えるのだそうだ。老師は見本にといって発声してくれたが、なるほど年期が入っている。とても一朝一夕とは参らぬようだ。
 食うに困ったときはこの方法があると一瞬思ったが、私がこれをやると、本当の乞食、餓鬼になってしまう。なぜなら私には誓願が無いからである。
 この章の最後として、四弘誓願文を書いておこう。

 <四 弘 誓 願 文>
  衆 生 無 邊 誓 願 度(しゅじょう むへん せいがんど)
煩 悩 無 盡 誓 願 断(ぼんのう むじん せいがんだん)
法 門 無 量 誓 願 学(ほうもん むりょう せいがんがく)  
佛 道 無 上 誓 願 成(ぶつどう むじょう せいがんじょう)




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