師とその周辺







一途な人(その三)




 文照老師は、ひたすら歩き続けた。小倉を中心に毎日三十キロの行程をである。肩から“本堂建立”の襷を掛けていた。この襷が一つのミソであると私は思う。人は純粋な行為を褒め讃える。しかし、それは一過的なものになりがちだ。本当に人を感動させることはあまりない。無償の行為は、往々にしてマスターベーションそのものであり。自己満足で終わってしまうことを、我々は本能的に知っている。本堂建立の願は、自己満足の世界を突き破る錐になったのではないだろうか。そして、社会に影響を与えていく。

 みすぼらしい青年僧が、雨の日も、風の日も毎日托鉢を続けている。二年もすると、彼を取り巻く環境に、波紋が起こってきた。家の門で老師の来るのを待つ人もおり、仏間に上げ、経読を依頼する者も出てきた。こうして、信者が一人、二人とぼつぼつ増えだした。
 さらに、肩から“本堂建立”の襷を掛けて、托鉢してくれる人が出現した。在家の居士、大姉(要は、普通のじいさん、ばあさんである)が一緒に歩いてくれるようになったのだ。 協力者は、「観音講」を組織し、結局、本堂建立の祈願が成されたときまでに、協力者の人数は、延べ四十人に達したらしい。

 昭和29年、梵鐘堂が建ち、遂に昭和35年には本堂が完成した。昭和39年には、帰依した料亭の女将の遺言で昭和40年に幼稚園を開園。昭和45年、庫裡の第一期工事完工。昭和51年禅堂を建立。昭和57年には、庫裡の第二期工事が完成して、今日の円通寺の姿となった。
 青年僧がひたすら二十数年歩き続けた結果、廃寺が此処までになったのである。しかし、社会に与える影響は、これだけでは済まなかった。その詳細は後の章に譲ろう。

 料亭の女将の遺言の下りを、もう少し書いてみようと思う。女将とは、小倉の高級料亭「土筆(つくし)」の経営者、有賀たか子さんである。彼女は幼くして父に死別、小学校もそこそこで舞子になり身代を築いた人であった。
 ある日、老師は托鉢の途中に、料亭の前で呼び止められる。母親の命日だから、お経を上げて下さいとの依頼であった。言われるままに草鞋を脱ぎ、足を洗って読経をしたのが縁の始まりであった。
 以来、親交は続き女将は、信心深い人となった。信心の対象は仏教、禅宗、黄檗宗ではなく林文照という雲水であった筈である。人が宗教なり、武道なりに嵌るときは必ず人間を媒体としているというのが私の経験則である。
 女将は一人の雲水を信仰した。心のなかには、ほのかな恋心があったに違いないと私は思うのである。誤解しないで頂きたい、これは皮肉を言っているのでは無い。心底、素晴らしいと感動しているのだ。

 ここからは私の想像である。女将は早くに父親を亡くし、花柳界で辛酸を舐めたことであろう。楽しい事もあったに違いない。何れにせよ高級料亭の所有者にまで成るには、普通の人とは違った凄まじい人生であった筈である。
 齢六十を過ぎたとき、ふと周りを見わたせば身寄りは居ない。従業員をわが子と思い接してきたはずだ。そんなある日、一人の雲水が眼に入った。初めはそれほど気にとめなかったが、一年、二年と続く内に雲水の托鉢姿が気になりだした。身に着けている物はぼろだが、いささかの卑しさもなく、本堂建立の襷を掛け、颯爽と真っ直ぐに道を歩んでいく聖に感動したのだ。本人は気づいていないだろうが、これは老女の恋情であった。
 どうです、素晴らしい話しだとは思いませんか。

 女将たか子さんは、昭和39年1月に六十五歳で生涯の幕を下ろした。生前、女将は教育の大切さを痛感し、他人の子供を何人も大学まで出すなど「教育ばあさん」と呼ばれるほどだった。ひとり身で相続者がいない女将は、弁護士に依頼し、借金を返済し、板場や中居に十分な退職金を与え、その上余れば、額の多少を問わず円通寺に志納して欲しいと遺言した。結果的に円通寺に志納された金額は当時の金で一千万円であった。(現在だと一億円近くになろう)
 身よりのいない「教育ばあさん」の意志をついで、文照老師は此の金を元に幼稚園を建てた。子供の無いたか子さんに、たくさんの子供が出来ることを祈念して。
 正確な数字は分からないが、現在まで四千人のたか子さんの子供が、森林幼稚園を巣立って行った。文照老師とたか子さんの間に出来た子供である。

 動機はどうあれ、経営判断として昭和39年当時の状況に於いては、幼稚園の経営は最適な先行投資だったと言える。庫裡(住居)や禅堂を後にして、幼稚園を開園したことは円通寺の伽藍建立の為には最高の選択であった。と賤しい俗人の私は思うのである。


 証言を一つ、(坂本博孝氏)
「昭和23年頃は皆様もご経験のある様に戦後の食料事情としては一番悪いときでした。人々の心も荒んで、神、仏への信仰心もなく妙見様でも詣でる人は一人もありませんでした。………毎日毎日、雨の日も風の日も、降り積もる雪の日も、蒸せかえる夏の日も一人の雲水僧の托鉢姿が小倉の町にありました。
 この雲水姿の托鉢僧を私共が見る度に『日本は戦争に負けたがまだこんな人がいる』とか、又、アカギレで血がにじんだ草履履きの足を見ては『わしも負けん様働くぞ!』等と、私達市場の商人達の胸の中には、なにかすがすがしい思いがこみあげてくるのは私一人や二人ではありませんでした。あのさっそうとした托鉢姿が二年、三年、四年と続き、托鉢の協力者も段々増えて参りました……」


 托鉢のエピソ−ドで私の好きなのを、老師自身の筆で。

 <蛸の共食い>  
 友、遠方より来たるあに楽しからずや。法雲旭常君が久しぶりに遊びに来た。早速二人して托鉢に出た。あらあら歩き終わり帰途薬石(夕食)の準備が必要だと気が付いた。
「おい、何か肴を買って帰るからな。雲水姿で一寸と体裁は悪いが魚屋に寄るぞ!」
旭師「よしや」と、二人で店の前に立った。見れば赤い茹で蛸がある。これなら手間は省ける。
 云く「その蛸を下さい」
店の大将云く「坊さん、その蛸、高いぞ(値段)」ときた。
魚屋さんは活きがよいが言葉は荒い、その上二人共乞食坊主の姿だから相手は分不相応というのだろう。自分も若かったから
 云く「高うてもよい」とやった。
案の定、目玉が飛び出るほど高かった。二人の財布をはたいてやっとだったが実に冷や汗ものだった。帰って一杯飲みながら「蛸坊主が蛸を食うものだから、罰が当たって高かったのー」と。破戒坊主もよいとこだった。
 此の次の托鉢で此の魚屋の前に「ホー、ホー」と立ったら奥さんが「一寸と寄って下さい」と云う。
 主人云く「坊さん、わしの店は生きた鰻を毎日殺して売っている。考えて見ればわしは殺生ばかりしているので一ヶ月に一度位は鰻の御供養をしたい。そこでこれにお経をあげておくれ!」と包みを差し出した。帰って水施餓鬼しょうと思い、貰った包みを開いてみたら料理した大きな鰻と金一封だった。お経を上げた後は、勿論、放生の池は吾が胃袋である。このことは以来、一ヶ月に一度ずつ続けられたから何十回か数え切らね程貰った。 主人云く「坊さん、その蛸高いぞ!」お言葉は私にではなくて相手にとって高いものについた訳だ。托鉢というものは実に面白い有難いことです。
 今だにその店の前を通ると、主人は愛想よく挨拶をしてくれる。美しい奥さんは大分老けてはきたが……同じこを向こうも思っているだろう……

 書きついでに、老師の托鉢についての一句

 小欲とは 大欲と比較して
言うことではない
足るを知ると言うことである
 足るを知ると言うことは
前後左右を裁断して
それになりきることである
 一輪の花は 全花に咲き
一粒の実は 天地一杯の
 結実にこそあれ
(文照)



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