師とその周辺







一途な人(その五)






 文照老師は、托鉢の傍ら坐禅会を始めた。何時から始められたのかは定かではない。おそらく信者の増えだした昭和25、6年頃ではないかと思う。
 今では、まさかそんなことはあるまいと思うが、以前は坐禅をしない禅宗の住職が多く居られたようだ。
 駒沢大学で、文照老師は澤木興道老師に坐禅の手ほどきを受けたのであるが、駒沢大学に坐禅を持ち込み、仏教学科の必修科目としたのは興道老師であった。三顧の礼で学長に大学に迎えられた老師である。教授や学生の絶対反対を押し切ってこの快挙を成し遂げてしまった。(禅を教える大学で、教授や学生が坐禅に絶対反対で抗議行動を起こす……私にはとうてい理解できない)
駒沢大学の仏教学科の在学生は、禅寺の子息が殆どである。
 それまでは、坐禅の無い禅の大学を卒業し、教師資格を取って、曹洞宗の大山の住職に鎮座する例が多かったそうである。坐禅をしたことのない禅坊主である。

文照老師云く
「今の顕法、嗣法、住職資格も純粋に考えなければならない時が来ているのではあるまいか? 世間は全て専門職で生きているではないか! 大工は大工、左官は左官、医者は医者、弁護士は弁護士とそれだけの実力を養っているではないか。禅僧は? 禅寺は? 現状の儘でよいのだろうか」

 老師語録が出たついでに、もう少し語って貰おう。文照老師は、興道老師に眼を掛けられていたようである。貧乏寺の円通寺の禅会に何度も参加されている。その時の模様を文照老師自身の筆で次ぎに記す。実に雰囲気があって往時を想像できる。

 老師を、お迎えする時分、拙寺の庫裡は見るもあわれなものだった。軒先の瓦は落ち、柱は斜めに、雨戸はところどころ破れて穴があいていた。老師がこられて坐禅の後の御講演。平素来たことのない人が多勢来寺し、一カ所だけの東司(便所)を使うことに相成った。この私が東司を使うその時は、ギイギイという音で弱い所は判るから、足をふんばる時でも、手心ならず足ごころを加えて用を足していた。然し、突然に集まった人々にはその様な配慮などあろう筈は無い。とうとう見事、踏み抜いてしまった。
私は老師におことわりした。
「老師、手前のここに立って小用をたして下さい。奥まで行くと床がありませんから」と。
 老師も一寸この哀れな様を見て驚かれたらしく
「こりゃ、何だ!」
 私「ご覧の通りです。お客が床を踏み抜いたのです。だから老師、朝顔に用を足そうとお思いなさらず、ここに立って、下の便壺めがけて、直接、用を足して下さい」
 老師「よしよし判った。よく言ったもんじゃ、仏法に底なしじゃ…!!」
 と床と底を引っかけて用を足しなさった。案内する方もする方だが、受ける方も受ける方で、このような貧乏は、「吾が意を得たり」とばかり、殊の外に喜ばれた様な気がする。
 小生も若かったせいもあるが、それでいて老師を迎えて別に恥ずかしいとも思わなかった。
 

 澤木興道老師は曹洞宗である。一方、円通寺は黄檗宗だ。宗門の至宝とも言うべき、興道老師は円通寺ばかりに行っている。老師を黄檗に取られたと、北九州では大騒ぎになっていた。
 文照老師もそうであるが、禅僧は意外に宗門には拘らないところがある。臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の垣根は意外に低い。
 文照老師に至っては、天台、真言、浄土、はてはキリスト教にまで理解を示し、仲の良い神父も居られる。道はそれぞれ違うが、おなじ頂を目指すもの同士、仲良くやりましょう、という感じなのである。
 ここに、老師の人間的鷹揚さ、器の大きさを見るか。はたまた、日本人特有の、宗教的峻厳さの欠如と見るかは、各人の勝手である。
 ちなみに私は、いい加減は大好きである。

 ともかく、老師は托鉢と坐禅以外のものに目を向けず日々の精進を続けていた。しかし、事件が勃発した。昭和30年2月、三十三歳にして彼は結婚したのだ。
 澤木興道老師に触発されて立てた誓願の内、一つを破ることになってしまったのだ。
「先ず、一生涯女は持つまい、次ぎに名誉は求めまい」
 女を持ってしまったのだ。「男なら仕方がない」と言うか、「出家をそもそも何と心得るか」と色々議論はあるだろうが、老師は誓願を破り結婚してしまったのだ。生物的本能にしたがったとも言えるだろう。
 ところが人間という生き物は、事物をそう簡単に割り切ることは出来ない。挫折である! 彼は苦悩し、懊悩に頭を痛めたことだろう。そして、達した結論は「カカあは持ったが、名誉は求めまい」であった。
 その後も老師は、他の女性が美しく見えたこともあれば、つまみ食いをしてみたいと思ったこともあると申されておられる。事実はどうであれ、その様に思ったと言うことは、浮気をしたとも言えないことはない。
 キリスト教の聖者、アウグスティヌスも「告白録」の中で、夢に出てきたこと、頭の中で想像したことには責任を取らないと申されている。
 同じく私も、妄想したことに責任を取る気は一切ない。

 結婚しようが、何をしようが老師は、托鉢と坐禅を続けた。そして、老師を崇拝する人の輪は拡がり、禅会も五カ所で行われるようになっていった。
 則ち、五禅会である。列挙してみましょう。
 福厳禅会 福岡県柳川市
法雲禅会 福岡県大牟田市
慶瑞禅会 大阪府高槻市
法輪禅会 山口県下関市
円通禅会 福岡県北九州市

 私は、ポンタル君に誘われて、法輪禅会に所属して坐禅に励んでいた。不思議なことでも何でもないが、坐禅の数息観に集中していると、冬の寒い日でも汗が出てくるのだった。 天井が高く、広く土間の本堂は、冬場はことさら冷え込む。しかし、三十分もすれば汗が出てくる。
 試しに、サウナで数息観をやってみたところ、一挙に汗が噴き出した。(あたりまえだ!)
“心頭滅却すれば火おのずから涼し”は快川和尚の言であるが、分からぬ事もな……いな! さっぱり分からん!

 他所の禅会についての知識はあまりないが、法輪禅会の巡警は厳しい物であった。巡警とは警策、つまり棒をもって禅堂内を巡回することを言う。
 我々の禅会でのこの役目は、主として住職の息子さんがされた。時には、禅会の先輩である、S居士がされることもあった。
 警策を肩に担いで廻って来る巡警さんが目の前に来たときに、合掌すれば、先方も警策を捧げ、一礼する。
「叩いて下さい」「はい承知致しました」ようは叩いてくれとお願いをするのです。
 しつこいようだが、坐り方が乱れ、集中できていない人を覚醒させる為ではなく、あくまでお願いするのである。 
 俯き、背中を相手に向ける。そして、背中を叩いて貰うのだ。いや、叩くという表現は適切ではない。ブッ叩く! 殴りつける! という感じに近い。背中全体に達する痛みはほぼ二日間続く。他の禅会ではこのように打擲するところは無いようだ。
 息子さんの、警策を持つ構えには目を見張った。まさに香取神道流の大八相の構えに寸分の違いもない。そして、遠山の目付、摺り足で巡警するのだ。強烈に打擲が成されるのも無理はない。

 警策が折れることも、たまにあったほどである。若者ならまだしも、年老いた爺さん、婆さんがこぞって、叩いてくれとお願いするのだ。かく言う、私とてお願いをした。
 信頼する者に、自ら望んで、あえて叩かれる。宗教上の儀式、修行には違いないだろうが、深層心理における、マゾヒズムの表出とは考えられないだろうか。宗教にはマゾの傾向が間違いなくある。さらにキリスト教に於いては、かなり顕著である。
 このような発言をすると叱られそうだが、私にはそう思えてならないのだ。
 すべての宗教は戒律を持っている。すなわち、人の行動を拘束するのだ。そして信者は拘束されることにより安息と癒しを得る。そこには歓喜と心の昂揚、そして自由が有るという。
 
 ヒリヒリ痛む背を気にしながら、喫茶の席に着くと、文照老師は穏やかな顔で上座に座られ、優しく言葉を掛けて下さる。仕草、声には何とも言えぬ気品が漂っていた。
 感情を面にに出さず、無表情にか弱い老女をブッ叩いていた息子さんも、ニコニコ笑って我々の会話に加わる。彼は最近には珍しいタイプの好青年であった。
御住職云く
「老師は、七十歳を越した今では、仏の文照と言われていますが、若いときはそりゃ恐かった。鬼の文照と言われていたんですよ」
 そう言う、御住職自体、結構恐い顔をしており、白か黒かをハッキリ言う性格だった。往々にして、坐禅を続けると性格がきつくなる傾向は確かにある。

 ある日の坐禅が終わった後の喫茶の時であった。某居士が発言した。
「このまえ、テレビで禅宗本山の修行僧の特集をやっていました。さすがですね! あの修行は凄まじいものです。たまの日曜日に三時間ばかり坐る我々とは大違いです。あのくらいやるから、悟りという言葉も現実味を帯びてくるんだなと思いました」
 ニコニコ聞いていた老師は恐ろしいことを言われた。
「本山の修行僧、彼等は何のために苦行をやっているのですか? 坐禅をしているのですか? 全員とは言いませんが、殆どの者は、寺を嗣ぐ為、資格を得る為、箔を付け信徒に崇められる為です。そうです、何かの為に坐禅を道具に使っているのです。一方、皆さんはどうです?」
 老師は優しい眼差しで一同を眺め、そして続けた。
「皆さんは、休みの日に朝早く起き、交通費まで使ってここに来ています。そして足の痺れる坐禅をしているのです。何かの為にでは有りません。ただ坐る為に骨折り損のくたびれ儲けをしているのです。これこそが本当の坐禅です! 仏が坐っているのです」 
 この章の冒頭に老師の言葉として紹介したように、文照老師は禅宗の僧侶のあり方に、大きな危機感を持っているように感じた。



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