師とその周辺







一途な人(その六)






 澤木興道老師のエピソードは少し触れてきた。しかし、文照老師の本当の師は鈴木皓慈老師である。
 文照老師は昭和21年、黄檗山禅堂に掛錫し鈴木皓慈老大師に就く。以来、23年間、通参して昭和44年に老大師の心印を受けた。
 私は拝謁頂いたことこそないが、この老大師が大好きである。逸話を聞くに、真面目も真面目大まじめな老大師であるが、並はずれて真面目なために世間の常識から逸脱してしまう感がある。そこのところが実に可愛いのだ。私をしてこういう発言をしても許して頂ける雰囲気をお持ちなのだ。
宗門はともかく、世間的な知名度においては澤木興道老師にまったく及ばないばかりか、知る人も殆ど居ない。残念至極である。
 さて、鈴木老大師は昭和21年に黄檗宗本山の師家に就任なされた。本山師家を武道の団体で例えれば、最高師範にあたる。黄檗宗最高師範になられたのだ。
 以下、老大師の略歴を記してみることにする。出典は林文照老師著「禅心の軌跡」による。

<鈴木皓慈老大師略歴>
生 誕  西暦1896年 明治29年、韓国慶尚南道昌原郡全海村の生まれ
  姓は金、名は鼎堂(テイドウ)
 5歳  父と死別
 6歳  妹と死別(母と二人きりになる)
 9歳  韓国昌原郡 聖住寺に於いて得度
14歳  明治42年
     下関市長府 覚苑寺住職、進藤瑞堂禅師に就き日本に渡る
21歳  大正6年般若林卒業 黄檗山禅堂掛錫 山田玉田猊下の室に入る
28歳  仏国寺住職(京都市伏見区深草大亀谷)
49歳  昭和19年黄檗本山代49代玉田猊下の心印を授かる
51歳  昭和21年黄檗山師家就任
67歳  昭和37年黄檗山師家再就任
77歳  昭和47年1月27日遷化(於仏国寺)

 私が坐禅に通った覚苑寺は、明治時代において、毛利公爵家の後援を受け韓国の釜山に観音堂を建てていた関係で、住職の進藤瑞堂禅師は度々、朝鮮に出向いていた。
 明治42年のことだった。瑞堂禅師は講演を依頼されて、釜山から5里離れた聖寿寺を訪れた。その講演の時に一人の少年僧が眼にとまったという。
 聴衆より少し離れた屏風の陰で、遠慮がちに熱心に禅師の話を聞いていたのだ。気になった瑞堂禅師は、少年を部屋に招き入れ話しを聞いた。しかし、少年は簡単な挨拶以外ほとんど日本語が話せないのだった。

 瑞堂禅師は、自分の詠む経や法話を意味も分からず、真剣に屏風の陰から聞いていた少年僧の気持ちをおもんばかり優しく問いかけた。
「日本に行きたいのか?」
 身振り手振りで、熱心に理解しようとう禅師の意志が、何とか少年に通じたらしい。 
 その時まで、俯いていた少年僧の瞳が輝くと、瑞堂禅師を正面に見つめ大きく頷いた。眼の光は彼の決意を現していた。
 そういう経緯で、鈴木皓慈老大師は玄界灘を越えて下関、則ち日本に渡ったのであった。言葉も解らず、身寄りとてない異境の地へ向かう関釜連絡船の中で、皓慈老大師は何を思ったのだろうか? 自らの経歴を必要最小限にしか話さなかった老大師である。私には推測することしか出来ない。

 覚苑寺に落ち着くと、瑞堂禅師は懇意にしていた小学校の校長を寺に招き、少年を紹介した。小学校に入れて、取りあえず日本語と生活習慣を学ばせようとしたのだった。
 しかし、校長は少年をじっと見つめておもむろに口を開いた。
「この子は見所がある。年齢も違い程度の低い小学校に入れずに、一、二年日本語を勉強させて、直接、仏教関係の学校に入れた方が本人の為になる気がする」
 当時の小学校校長は、社会的ステータスも大したものであったが、江戸時代の武士として生を受け、武士的教養と眼光表裏に達する慧眼の持ち主が多かったらしい。
 進藤瑞堂禅師は、校長の言葉に従い少年を二年間ほど寺で日本語を叩き込み、十六の時に京都の般若林に入学させた。

 その後、鈴木皓慈老大師は、21歳で般若林を卒業し、大正13年に、28歳で仏国寺の住職になった。貧乏寺の仏国寺の中興の祖として、皓慈禅師は寺を立派に立て直した。
 貧乏寺とは言いながら、この寺は皇室とも関係の深い由緒ある寺であった。その関係で皓慈老大師の皇室に対する崇拝の念は篤く、「天子様」と言葉を発するときは改めて姿勢を正すほどであったという。むろん、戦前、戦後を通じこの態度にはいささかの変化もなかった。ここには、計算も分別も衒いもない。真実素直な気持ちでそうされたのは、老大師の人となりを考えれば自明のことである。 
 さらに、住職になって程なく、朝鮮より母親を仏国寺の呼び寄せ一緒に生活を始めた。母親の墓は仏国寺にある。なお、母親は死ぬまで朝鮮服以外を着用しなかったという。この母も又、見事である。この子にして、この母ありだろうか。

 皓慈老大師が日本の土を踏んだのは明治42年、そしてその翌年の明治43年日本による韓国併合がなされ、朝鮮総督府が設置された激動の時代であった。
 思春期の多感な少年胸の内は何を思っていただろう。時は第二次大戦の前の話しである。今日の比ではない、偏見、侮蔑、差別は如何ばかりであったろう。しかし、その間の事情を皓慈老大師は死ぬまで一切他言しなかった。
 鈴木皓慈という名は誰が命名したのか? 国籍は朝鮮籍のままであったのか? これらを私が知る機会は無かった。
 さらに戦前、28歳の若さで衰えたと言えども名刹の仏国寺の住職になれた訳は?
昭和19年には、黄檗宗官長、玉田猊下の心印を受けている。(免許皆伝に相当する)
昭和21年に本山師家(宗派の最高師範)就任。
このあたりを知る資料は私は全然持っていない。また、文照老師が話されたこともない。
ようは、全然解らないのだ。

 当時に於いて出自のハンディーを乗り越え、黄檗宗の頂点に立った人。怜悧な頭脳と冷静な情勢分析、権力志向、組織の中で人間関係の構築する卒のなさ、といった人間像が浮かんでくるのが当たり前である。
 しかし、皓慈老大師はまったく違った。どう考えても、軽率、不器用、権力志向どころか何とか人に就いていくのがやっとという有様である。ただ、坐禅に必死に取り組んだと言うだけの存在という気がする。
 この間の逸話については後に少し述べてみが、その前に私見を一つ。


 偏見って何だろう? ここから差別、蔑視の感情が生まれると思う。私は決して心理学に詳しいわけではない。以下は、あくまで寝言である。

 偏見を持つのは止めようと、声高に叫ぶ御仁は多い。しかし、彼等が実に強固な偏見を持っていることはごく普通である。ようは、自覚をしていないのだ。
 愛憎という言葉がある。愛と憎しみは表裏一体というふうに私は解釈する。
 愛と偏見、これも表裏一体で切り離すことは出来ないと思う。偏見とは愛の別称と言っても良いだろう。
 家族を愛し、地域を愛する、これも偏見である。高校野球で地域代表を応援する。これは郷土愛であり、愛すなわち偏見である。オリンピックもしかり。
 地上から偏見による差別をなくす最も確実な方法は、愛をなくすことである。逆も又真なり、偏見をなくす為には、愛情を捨てればよい。
 それが、はたして可能であるか? 可能ならばとっくに、宗教紛争、民族紛争は沈静化しているであろう。
 若い男女の恋情、これは偏見そのものだが、止めろとは言えず、止める必要もない。
“愛情が人間のものなら、偏見も又人間のものなのだ!”

 簡単に解決する方法はない。あれば、とっくに解決しているだろう。私が出来ることは、愛すなわち偏見であることを自覚し、理性によって何とか飼い慣らしていくことであろう。 そうすると妻から叱責されることになる。
「お父さん! 子供が可愛くないんですか! あなたは自分の子も、近所の子も同じ感覚で見ているでしょう!」
 私に二言はない。子供たちを同じ視線でみると言うことは、愛情の欠如と見なされる。理性によって飼い慣らすと言うことは、そう言うことでもある。

 ちなみに、仏教において、“愛”という言葉は忌み嫌われている。すなわち、むさぼり執着することと解されている。
 さらに、仏教では慈悲が中心で、愛は憎しみを生ずるものであり怖れ生ずると説く。個人的な自己中心的なもので、それが友情となり恋愛、渇愛となって生の営みが行われるとする。禅で言う、悟り、解脱はこれを止揚することであろうか?
 原始仏教及び禅宗は、西洋概念的にはとても宗教とは言えぬ。神の愛、恩寵とは唾棄すべきものだという考え方が、はたして宗教なのだろうか?
 生の営みが出来ねば、人類は滅亡するであろう。偏見をなくすことは、それほど大問題なのである。

 さてさて、我が師、林文照老師の師匠であらせられる鈴木皓慈老大師は、この間の事情を如何思われていたのだろうか?
「馬鹿者! きいた風なことを抜かすんじゃない!」
 と、一喝される気がする。まさに老大師は、そのようなお方なのである。



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