師とその周辺







一途な人(その七)






  本来、このエッセイで鈴木皓慈大師のことについては、あまり触れる予定はありませんでした。ただ、文照老師の軌跡について述べるならば、触れざるを得ないことも当たり前のことです。適当に流そうと思っていたのですが、思わず力が入ってしまいました。
 “ものは次いで”という言葉もあります。引き続き皓慈老大師について述べようと思います。
 これも、老大師の法力のせいに違いありません。

 さて、皓慈老大師は名刹の仏国寺に住職した。
 黄檗宗は江戸時代の初期、中国では明王朝の末期、すなわち1654年に再三の幕府に招聘に応じ、中国黄檗山主であった隠元隆g禅師が弟子30人を連れて来航したことにある。(隠元禅師を知らなくとも、彼が「明」から移植した、インゲン豆はよく知られている)
黄檗宗は、法統はむろん、教義、修行、儀礼などは、日本の臨済宗と殆ど同じである。しかし、日本の臨済宗は鎌倉、室町中期にかけて宋と元の中国禅を受け入れ日本化していた。そこで、中国で臨済宗の原型を保持する隠元禅師が、新風を巻き起こすことを期待されて招聘されたのだった。

 当時、日本に於いては檀家制度が確立していた。幕府の政策で日本人は、何処かの寺に檀家として所属させられていた。これはキリスト教禁制の為だという説もあるが、私は幕府の人民統治政策という説に組みしている。
 過去帳、人別、つまり戸籍制度を、日本各地の寺が管理していた。寺は行政組織の末端として重要な役目を担っていたのだ。
 このような状態の日本に、隠元禅師は招聘されたのである。幕府としても、檀家制度に組み入れることは困難だった。
 そこで、徳川将軍家が帰依すると同時に、幕府は強力な支援を行い、京都の宇治に黄檗山万福寺を建立して隠元禅師を迎え入れた。
 皇室関係、大名、上級武士の間に帰依者は増えていった。日本の上流階級の間に普及したということは、大いに問題であった。寺の存立基盤が脆弱なのである。檀家制度という確立した組織の基盤の上に立っているのではないのだ。
 庇護者が隆盛な内は良い。しかし、ひとたび庇護者が衰退すると途端に、寺も立ち行くのが難しくなる。

 私の通っていた、法輪禅会の覚苑寺も長府毛利家の手厚い庇護を受けていた。しかし、戦後の華族制度の廃止と共に寺の経済は悪化した。後背の山を所有し広大な敷地を誇る覚苑寺であるが、八十数家の檀家しかない。これは実に厳しい。覚苑寺の住職は寺の経済を維持するために、学校の国語教師を兼任せざるを得なかった。
 覚苑寺にはみるべきものが多くある。由緒ある伽藍だけでなく、かの有名な貨幣、和同開珎の鋳造所もある。陶芸の登り窯もある。墓所に行くとさらに驚く。墓の区画が途轍もなくでかいのだ。一区画が五十坪以上ある。さらに墓所は土塀で囲まれ、入り口には瓦葺きの大きな門がある。その様な墓がずらりと並んでいるのだ。しかし、その多くの門はぺんぺん草が生え、ところどころに瓦が落ちて、土が剥き出しのものが多かった。これだけの墓になると維持するにも大変だろうと、私は変なところで納得した。


 以上は前置きである。私がなにを云いたい為に、このように長々と前置きを書いたかというと以下になる。
 皓慈老大師が28歳にして入山し、住職した仏国寺は、かつては皇室の庇護の下、由緒ある寺であったが、当時はどういう理由か庇護を離れた貧乏寺であった。

ある日、遂に仏国寺の米櫃が底をつき、喰うものが無くなってしまった。そこで老大師は一計を案じ、一週間の断食行に挑戦したのだ。(仏法に於ける誓願とは違い、喰うものがないからと言う理由である)
 寺に転がり込んでいた弟子まがいの男と二人で挑戦したのだ。三日目になると、一緒に坐禅をしていた弟子が音を上げた。
「おっさん、ひもじい!」
 ここが見識の見せ所と、皓慈老大師は
「馬鹿者!」
 と一括し坐禅を続けた。
 夜半の事である。予期せぬ来客が訪れた。以前、寺に一緒に住んだことのある居士であった。彼は満州に渡り少しばかり成功して、一寸と内地に帰ってきたのだった。土産は大きな広敷に包まれた二十個のあんパンであった。
 今まで、泣き声を出していた弟子が、「あっ!」という悲鳴を挙げると同時に、あんパンに飛びついた。
 湯茶がないうえ、空腹の絶頂である。パンを両手に持った弟子は、眼を白黒させながら食べ始めた。
 こうなると、老師も堪らない。臆面もなくパンにむしゃぶりついた。
 その後、不純な動機で断食行を始め、しかも途中で挫折したことを恥じ、ご本尊に「嘘をついて申し訳ない」と老師は心から土下座をしたらしい。

 皓慈老大師の逸話は、こんなものばかりが残されている。こういう話しを好んでされていた老師の人間性が垣間見えて私は嬉しくなる。

 こういう話しはたくさんある。これまた皓慈老師が住職したての貧乏な頃、バスの回数券を拾った。金に換算すると五円分あったらしい。警察に届けようかどうしようか迷ったあげく、現金ではないと勝手な理屈を付けて猫糞した。ところがその回数券が二、三枚の残となった時に、二十円入った財布と共に落としてしまった。五円得して二十円損をした計算になる。
 天罰じゃ! やっぱり人間は正直であらねばならぬ。(あったりまえだろうが!)

 ある時は、寺を訪れた紳士から、庫裡を再建する奇特な金持ちが神戸に居るがどうか、と言う話に乗った。取りあえず、あり金をもって紹介者と神戸に行った。今日は先方が不在だ、明朝には繋ぐと言うことで宿に泊まった。翌日もその翌日も先方の都合が悪いと云うことで逗留。飲めや歌えの大騒ぎをしたあげく、紳士は姿を消した。ようは、詐欺に引っかかったのだ。無論有り金では支払いは出来ぬうえ、帰る旅費すらもない。
 老師は、考えあぐねた末、絡子、法衣を脱いで褌一つの裸になり、宿の女将に差し出した。
「寺に取りに帰るので、支払いを待って下さい。帰る汽車賃も無いので貸して下さい」
と低頭した。
 哀れな坊主を見た女将は怒るどころか笑い出した。
「御心配には及びません。取りあえず着て下さい。汽車賃も貸します。女中をお供させましょう」
 老師は裸で帰らなくてよいと知って安堵した。何のことはない。吉原の遊郭と同じように、付け馬が付いたのである。
教訓、欲をかきすぎるとろくな事は無い! と老師は申されている。しかし、ここまで見事に騙されるのは、とても常人のなせる技ではない。


 失敗は確かに人格形成の糧にはなるだろうが、ここからは少し皓慈老大師の失敗が本人の実になり、禅僧として大成していった話しを述べてみることにする。

 ある年の台風は、仏国寺にも甚大な被害をもたらした。何とか修復せねばならぬと老師は奔走した。檀家を廻り寄付を募ったが思うように集まらない。
 そこで思い当たった。何年か茶道の教授を受けた師匠のことをである。著名な女宗匠のもとを老師は奉賀帳を持って訪れた。宗匠の弟子や知人の紹介を願ったのである。
 ところが、この女宗匠は大した見識の持ち主であった。
「おっさん、こんな奉賀帳まっぴらごめんどっせ。弟子や、他の人にも、よう廻しませんぜ。道を求めて途中で辞める様な人には、私はよう協力致しません。おっさん、風が吹いても倒れぬ本堂、火事になっても焼けぬ本堂、死んでも死なぬ本堂を建てねば、あかーんどっせ」*注1
 この言葉に対する対応が、老大師の偉いところである。大恥をかかされて、それを真正面に受け取り、再び茶道を習い始めたのだ。
 貧乏坊主である。教授料など払えるはずがない。しかもこの坊主、朝といわず、夜といわず、何十年も毎日押しかけた。宗匠は厭な顔一つせずに、笑顔で老師を迎え入れた。
 奥義は皆、伝授を受けた老師であったが、「わしは禅坊主で茶坊主ではない」といって免状は一切貰わなかったそうである。
 宗匠は、老師のその態度を殊の外喜ばれたそうである。老師は茶の師匠が亡くなるまで従い、一周忌、三回忌と年忌も仏国寺で挙げられた。
 さて、皓慈老大師は風が吹いても倒れぬ本堂、火事になっても焼けぬ本堂、死んでも死なぬ本堂を建てることが出来たのだろうか? 

 老師の住職する仏国寺に、よく遊びに来る居士がいた。彼は某師匠につき長年参禅していたのだが、ある時この居士が「兜卒の三関」の則で苦しんでいるのを打ち明けた。
 止せばいいのに、老師は知ったかぶりをして、自分の見解で指導をしてしまった。その居士はそのまま、通参している某老師に参禅し、帰りに仏国寺に立ち寄った。
 山門を入るやいなや居士は、
「和尚居るか! こりゃ、糞坊主! 馬鹿坊主! お前それでも禅坊主か! よくも世間をだましおって! それでも和尚か! 俺に嘘を教えよった! にせ坊主! なまぐさ坊主! 恥を知れ恥を知れ」*注2
 あらん限りの悪口雑言、馬詈針罵倒しながら皓慈老師の前に仁王立ちになった。
 その時、老師はどうしたか? なんと両手を突いてひれ伏したまま泣き出したのだった。そして、再び玉田猊下のもとに通参を始めた。むろん接心中は寺をほったらかしにして雲水と起居を共にした。
 それから十数年、一日も欠かさず通参に勤め、遂に昭和19年、玉田猊下の心印を赦されるに至った。
 自分の罵倒で、老師が通参を熱心に始めた事を知った、くだんの居士は大いに喜んで皓慈老師に従うようになった。
 そして、心印が許される日が来たなら、仏国寺の庫裏は自分の一建立で、立て替えさせて頂くと、老師を励まされた。しかし、居士は昭和19年を待たず、他界してしまった。 心印を得た、老師は居士の霊前に印章をお供えし、泣き伏してしまったという。

 なぜ、このような逸話が多く残されているのだろうか? 数は少ないが、このような一見恥とも思える話しを語る人はいる。ただし酒の上でのことである。
 弟子に素面で話すと言うことは、教育的見地からではなく、皓慈老大師の含羞から発するのではあるまいか? では何に対する含羞であろうか? こればかりは本人に聞かねば解らないだろう。いや、御本人も自覚せれていないかも知れない。

 だったら、私がどのように評価してもいいだろう。批評はあくまで自由あるはずだ。
 含羞、これは極めて高度の精神的計算だと思うのだ。自尊心、プライド、さらに自らのアイデンテイテイを守ろうとする無意識の作用ではなかろうか。一見無防備の発言のようであるが、人をして自らの本質に立ち入ることを拒否する、自己防御本能とは言えまいか。 自らの、自我を客観視する行為に、それが読み取れる。
 しかし、それもまた皓慈老師の素晴らしさである。
 単なる素直ささだけで、黄檗宗本山師家という位置に上り詰めるほど世間は甘くはあるまい。ゆえに私はそう思うのである。

 私はこの文章を、ここまで書いてきて気が付いた。どうやら、私は鈴木皓慈老大師が大好きなのである。
文照老師を、心より尊敬していることは自覚していた。しかし、大好きなのは皓慈老大師だったのだ。


*注1、注2、及び鈴木老大師の逸話は、
林文照著「禅心の軌跡」による。


 

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