一途な人(その八)
何故だかここの所、鈴木皓慈老大師のことばかり書いている。故人であるから書き安いという事も確かである。何と言っても林文照老師は健在なのだ、いかにHPと言えども、本人の許可も得ず書いてよいものだろうか? 非常識のそしりは免れまい。この辺の反省については後に述べるつもりである。
なお、今までこのHPに綴った文章を削除したことは無いが、「一途な人」だけは特別である。場合によれば即座に削除しますので、その時は、どうかお許し頂きたい。
文照老師が通参していた、五十代の皓慈老大師の坐禅指導に対する熱意は凄まじいものであったそうだ。参禅するものは誰でも受け入れ、親切であったという。
禅僧の親切は、世間一般で言う親切とは少し様子が異なる。問答中に皓慈老大師の鉄拳が飛び、文照老師はその場で失神。気が付いた時は、布団に寝かされていたこともあったらしい。
また、文照老師が老大師の気持ちを理解した時ときなどは、ところ構わずぼろぼろ涙を流した。
日頃の行動は、ハチャメチャながら、坐禅一筋に打ち込み、勢力旺盛であられた老大師も七十歳の声を聞くと、さすがに身体が弱られた。腎臓を悪くされ、ふらつかれることも度々あった。
皓慈老大師は本山師家在職中の八年の間に、朝課は只の一度も欠かさなかった。特に雲水と同じように足袋をはかず、厳冬でも本山の瓦敷きの上に毎朝約一時間立って経を挙げた。弟子達は、
「老師、念経には出頭しないで下さい。私共で勤めます」とお願いしたが決して聞き入れろことはなかった。
その日の京都は、底冷えのする厳冬であった。いかに何でもこの日はと弟子は思い、老大師の出頭用の履き物を隠してしまった。
案の定、念経が始まっても老大師は出てこない。弟子は胸をなで下ろした。
「やれやれ良かった。この厳寒に身体の不自由な七十の老僧を、瓦敷の上に立たせずにすんだ」
ところが、念経の途中に老大師が顔を出したのだ。弟子達は驚いて足下を見た。すると驚いた事に老大師が履いているのは、便所の草履ではないか!
黄檗山開山以来三百余年、便所草履で本堂に出頭したのは、ただ一人であろうし今後も出るはずがない。
念経が終わると、老大師は極めて機嫌が悪い。
「人の事は心配せんで、自分のことを心配しろ! 俺の念経は俺の念経! お前の念経はお前の念経じゃ! 馬鹿者!」
この逸話から「男はつらいよ」のフーテンの寅さんを思い出す私は不謹慎であろうか? 寅さんは言った。
「早い話が、俺が芋を食うと、お前の尻から屁が出るとでも言うのか!」
言われてみれば当たり前のことのようであるが、なかなかそうは行かない。老齢の人に辛い思いをさせたくないというのも人情であろう。しかし、老大師にとっては全く迷惑な話なのだ。
念経は、あくまで老大師自身の修行なのだ、弟子どころか、念ずる対象の仏すら口を出すなと言うことだろう。
同じようであまりに有名な話しがある。中国の唐の時代のことである。禅院の清規(生活規範)を制定した、百丈懷海禅師が老年の時の話しである。
これから書くことは、出典に当たったわけでは無く、私の記憶で書いて行く。よって、多少の間違いがあるかも知れぬが、どうかお許し願いたい。
老齢に拘わらず、辛そうに毎日の農作業を続けた百杖禅師の姿を見るに見かねた弟子達は、ある日、禅師の農機具を隠してしまった。
その日は、禅師は農作業をすることなく、部屋に籠もって坐禅を続けた。弟子達はしたりと手を叩いたに違いない。しかし、百丈禅師は食事時間になっても部屋を出てこない。 いくらお願いしても、食事を取ろうとはされないのだ。弟子達は雁首をそろえてお願いに出向いた。そこで、禅師は有名な一句を吐かれた。
「一日作さざれば、一日くらわず」
どうです。実によく似た話ではあるまいか。老齢な師をいたわる弟子の気持ちは同じだろう。しかし、師の返答は僅かに異なる。百丈禅師の場合は、弟子を教育する気持ちが前面に出ている。私には作為が見て取れる。
一方、皓慈老大師の場合は、教育的配慮よりも、まず自分が怒っているのである。修行の邪魔をしやがって! である。
私は、皓慈老大師の逸話の方が好きだ。恐らく老大師が農機具を隠されたなら、とにかく畑に行き棒切れか何かで耕したのではあるまいか。
「お前らが作物を作り喰ったところで、俺の腹からは糞は出ん!」
とでも一喝したと私は想像する。
しかし、「一日作さざれば、一日くらわず」は良い言葉だと思う。
よく似た言葉に、「働かざる者、喰うべからず」というのがある。これはいけません。実に品のない言葉だ。糞とか屁とかの言葉を使うから品が無いとは思わない。その言葉を発した精神が低俗かどうかの問題である。
老大師は本山師家を退かれて、文照老師の案内で山陰から九州にかけて旅行をした。あまり旅行の好きではない老大師が、このときは誘いには快く乗られたそうである。
出雲、温泉津と宿泊し、山陰本線で九州に向かう途中のことであった。以下は文照老師の言葉である。
“秋の日は早くも落ちて車窓は暗くなっていました。その時老師は、さも言いにくそうに「覚苑寺に寄れないだろうか?」と申されるのです。「ああ、そうでしたね。この儘お寄りしましょう。お師匠様のお墓参りもせず、素通りでは申し訳ありませんからね」位、申し上げたような気がします。
しばらくして老師を見ますと、車窓の方に顔をそむけた儘なのです。左手はその儘だが窓側の右手をつかってさかんに涙を拭いているご様子、私に判らぬ様、気づかいながら、然し、外が暗くなってしまっているので窓ガラスは鏡の役をしてはっきり老師のお顔が見えるのです。泣いておられるのです。
おそらく十四歳の時、お師匠様に連れられて玄界灘を渡り、下関覚苑寺に来られた当時のことが老師の脳裏を走馬燈の如く駆け巡り、此の涙となられたものと、拝察しました”
さて、最晩年のエピソードを最後に、長々と書いてきた鈴木皓慈老大師の話しは終わろうと思います。
老大師が遷化される四年前の昭和四十三年のことです。日本に渡られた老大師は初めての帰郷をなされた。二週間の旅であった。若い頃からそうであったが、晩年の老大師は自己を飾ったり、偉そうにすることは極度に嫌っておられた。
よって、同行の者達は歓迎のスケジュール等は一切知らせず、お連れ申し上げたそうであった。ところが、韓国の釜山空港では大変な事態が生じた。
「吾が国の生んだ禅の大巨星帰る」と全国紙、一流新聞で報じられたから堪らない。釜山空港は黒山の人だかりであった。さしずめ、今日のヨン様来日時における空港の騒ぎのようだったのだろう。
しかも、政界、財界、教育界の大御所達が前面に陣取り、老大師がタラップを降りると「万歳、万歳(マンセイ、マンセイ)」の歓声と拍手がわき起こったのだ。
同行者の言によると、他人事だと思っていた老大師は、自分が歓迎されているのだと知り、狐か狸に化されたように、キョトンとされて居られたと言う。
さらに、美女から、大きな生花のレイが、墨染めの法衣の首からかけられるに及び、困惑と羞恥から身も世もなく、恥じらわれたそうである。
六十年前、十四歳の少年僧が一人寂しく後にした釜山港。(そういえば、かつて「釜山港に帰れ」という流行歌がありました。全く余計なことでした)
あらゆる苦難、勉励修行の末、道を究めた老大師。そして、聖者としてお迎えする韓国の同胞。昔を思い、今を見るとき、老大師の胸に去来するものは、何であったのだろう。
「私は、再び韓国の地を踏むことは無いであろう。再び訪ね様とも思わない。仏国寺に葬ってくれれば有難いし、もったいないことだ。津送(葬式)の必要もない」
鈴木皓慈老大師の墓は、仏国寺の境内にある。先に亡くなった母親の墓の側に建てられている。安らかにお休みになっているに違いない。
鈴木皓慈老大師の事跡は埋もれてしまっている。いや、この言い方は正しくない。林文照老師を筆頭に、多くの禅僧を育てられた貢献は偉大なものである。また、身近に接した一般庶民、檀家の人々にとっては神の如き人でもあり、黄檗宗門においても、その功績は燦然と光を放っている。
しかし、一般の禅に関する書籍で、皓慈老大師の名を見ることはない。ちなみに、ネットで検索をしてみて下さい。多分出てきません。身近に接した人以外には知られていないのです。それらの方々が亡くなれば、本当に埋もれてしまうかも知れません。
不遜な孫弟子の私は、どなたか、皓慈大老師の足跡を訪ねられ、一代記を書かれる人が出現することを希うものであります。
お願いです、急いで下さい! インタビユーしようにも、関係者は程なく鬼門に入ってしまわれます。
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