師とその周辺







一途な人(その九)





 毎朝の粥から一日が始まり、仕事が終わった後に、あるいは空手道、杖道、居合道の稽古の後などに何とか時間を見付けて、私は自宅で毎日線香一本分の坐禅(約35分間)を続けていた。そして、月に一度の禅会では、三時間は坐った。女房には呆れられていたが、私は、博打や女道楽をするよりは、ましだろうとうそぶいていた。

 季節は移り変わり、五、六年も経つと禅会でも私は若輩ながらも、けっこう中堅になっていた。武道ほど煩雑に人が入れ替わることはないが、それでもやはり世の常のように、辞めるものも居り、新しく始める人も居た。四十代半ばの私は、相も変わらず、夏はTシャツ、冬は真っ赤なスタジアムジャンパーで坐禅をした。(実はわたくし、何を隠そう、所ジョージのファンなのです)
 御住職に何度も、文照老師に参禅し公案を戴く様に促されたが、私は鄭重にお断りして数息観だけを続けていた。
「谷さん、数息観だけで大悟された老師もおられますよ!」
 とポンタル君に励まされながら坐禅に励んでいた。ひたすら自らの呼吸を数えていた。
恥ずかしながら、空手道の三戦、転掌、セイエンチンなどの、那覇手系の呼吸型を稽古するときなど、禅の呼吸法を応用して、一人悦に入っていたこともあった。
 これは案外見当違いというわけではなく、古武道、空手道、中国拳法、ヨガで言う呼吸法と、禅の呼吸法は通ずるところがあるかも知れない。だが、効能ということになると、全く判らない。呼吸しなければ死んでしまうわけだから、身体に悪いわけは無かろう。
 しかし、少なくとも十年間は呼吸法を続けてきた私だが、悲しいかな効能は全く感ずることが出来なかったと言い切ることが出来る。

 ところが世の中、不思議なもので、三、四年、○×式呼吸法をやったと言って、いろいろな理論を述べられる御仁がおられる。さらにひどいのは書籍による知識だけだったりする。しかし、話を聞いてみると、それなりに見当違いとは言えないような理屈がある。少なくともまんざら嘘ではなく、結構感心もする。
 でも私は、自分が納得できないと駄目である。勧めて頂いた○×式呼吸法の指導者の方、ごめんなさい。もう少し言いたいことは有るのだが、差し障りがありますので此処までとします。呼吸法だけではない。今の世の中、そう言うたぐいの理論が満ち溢れている。それらが、すべて出鱈目ではないだけに困るのだ。まあ、流行、ファッションで有ろうと私は思っている。
 念のために申しておきます。呼吸法で効能が感じられないから私は坐禅を辞めたわけではありません。辞めた理由は後に述べるつもりです。

「数息観だけで大悟する……」ポンタル君ではないが、坐禅で悟りを開くとは何だろう? 大悟するとは?
 十年で坐禅を辞めた半端者の私であるが、何となく感じていることはある。悟りを開くとは、世間で思われているような精神的高みに達すると言うのとは、少し違うような気がする。ある種の状態ではあると思うが……。

 恐れ多くも私の独断を言ってしまえば、悟るとは、感激、感動の様な気がするのである。数十年間、提示された設問(公案)にこだわり、集中してそのことだけを考える。あるいは呼吸を数えることに集中する。
 そしてある刹那、その溜めに溜め込んだエネルギーが一挙に爆発する。その時の歓喜を大悟というのでは有るまいか? 
 古代ギリシャに於いて、アルキメデスは長い間考えていた真理を、風呂に入っていたとき発見した。驚喜のあまり彼は風呂を飛び出し、全裸で街を走った。この心理状態を定義する用語が心理学にはあるが、まさにそれの様な気がする。(その概念を表す言葉を忘れてしまった)
 世間で流布されているような、何ものにも拘らない悟り澄ますした状態になることとは違う。そんなもの、単なる無感動で消耗した精神の顕れだと言うのは、言い過ぎだろうか。
ものに動じない泰然とした精神などというものは、感性の喪失である場合が多いと思う。
 むるん、大悟の歓喜を経験する前と、後では人間が変わるとも言えるだろう。大悟の経験をした人に免許皆伝が許される。つまり印可をうけ老師として敬われることになるのだから、何らかのものが有るはずだ。

 何となく私が感じるのは、大悟した人は物事に対して、素直に対応なさるように見受けられる。
 嬉しいときは本当に喜び、悲しいときは身も世もなく泣き崩れる。そして、白黒をはっきり付けて判断される。灰色の部分が少なくなる。ようは、極めて精神状態が単純になられる様な気がしてしまう。
 物事に動じないというのは、一見そう見えるだけで実は、刺激にたいして素早く反応できる状態なのである。
 武道に於いても言うではないか、脱力せよと。心身ともに力を抜く意味は、刺激に対して素早く対応するためである。心を空にせよとは、あらゆる刺激に対応するためである。
 身体に力が入ったり、心に拘りがあると反応の妨げになる。禅や武道だけではない、所詮人間のやることだ、仕事にせよ趣味にせよ、全てに通ずる真理のような気がしている。

 大悟の実例として、文照老師の場合を挙げてみよう。出典は「禅心の軌跡」。相手は澤木興道老師であった。
「老師! 道元禅師も正法眼蔵中に『有時の巻』を書き残されています。人間所詮、時間から、どうしても抜け出すことは出来ないものですね……」とやったら
 老師曰く「お前は未だ、時間の無い世界を識らんな!」と。
 この一言は、私にとって驚天動地、飛び上がるほどの驚きの一言であった。
「老師! 時間の無い世界、判りました」
「そりゃ良かった。良かった」
 横で聞いていたA居士曰く
「老師、そりゃ、何のことですか?」
 老師曰く
「居士には、未だ判らんとこやのう……」
 この「お前、未だ時間の無い世界を識らんな!」の一言は、私にとって、今まで胸につかえていた公案が、一度に氷解した言葉だった。「成程、成程!」と三日三晩嬉しくてしかたなかった。
 早速上京、鈴木皓慈老大師の室内に入った処、許された。その感激は、現在の私にとっても深くなりはしても浅くはならない。忘れ去ることの出来ない一言句であった。
  
こうして昭和44年、文照老師は、皓慈老師より印可を受けた。通参すること22年の時が経過していた。

 大悟とは、感動、歓喜の瞬間を指すことが当を得ていると仮定しようか。それはそれで私には納得できるのであるが、さてここで新たな問題が発生する。
 参禅して自己究明に努め、長い修行を積んで疑団をはらし大悟に至り、歓喜の喜びを得る。これが坐禅の真髄であろうか? 坐禅は悟るための手段だろうか?
 そうとは単純に言えないから困ってしまう。道元禅師は「只管打坐」を打ち出された。何かの為に坐禅をするのではない。ひたすら坐ることが禅の真髄だというわけである。
 文照老師も禅会の会員、つまり私達に申された。
「……正しい坐禅は、骨折り損のくたびれもうけだ! 仏が坐っているのだ!」
 老師の言わんとすることは、理解できる。だが本質的な私の疑団は晴れない。
 訳が分からなくなると言った方が正解だろう。臨済禅、曹洞禅の違い。看話禅、黙照禅の問題が生じてくるのかもしれない。さらに、文照老師も、師匠である鈴木皓慈老大師も伴に臨済禅であり、澤木興道老大師は曹洞禅に分類されてしまうから困ってしまうのだ。

 この問題を武道に当てはめればどうなるであろう。空手に例を取るならば、強くなりたいために空手をする。あるいは健康維持のために空手の稽古をする。空手という武術の技を身につける為に空手をする。精神を鍛えるために空手をする等々、様々な理由があろう。そして、達成感を満たすために段位制度がある。その極め付きが師範免状。同じようなものに、杖道、居合道においては免許皆伝がある。
 しかし、一方、何らかの目的を達成する為の手段、道具として空手を捉えるのは不遜である。空手という武道に対して失礼であるという考え方もある。空手をしたければ、ひたすらすれば良いという考え方である。私が武道を定義して「死ぬまで、ひたすら続ける行である」と言った考え方である。
 禅で言えば、前者が見性成仏であり臨済禅。後者が只管打坐であり曹洞禅、かも知れない。千数百年以前の中国は唐の時代から、両者は思想を異にして来た。どちらが良いとも結論は出ていないようだ。千数百年かかって結論が出ていないということは、どちらでも良いのだと私は思う。

 では、どちらを選ぶかは何で決まるのだろうか? 塩川寶祥伝を読んで戴ければ判るように、塩川先生は明らかに極端な前者であり、武道は命の遣り取りの場に於ける道具に過ぎないと思っている。しかも、とても常人には達することの出来ない位置まで極めているのだ。一方、岩目地光之先生は、武道は死ぬまで続ける“行”だと思っているようだ。つまり、後者であり、これまたとんでもない境地にまで達している。
 この違いを私は、人間類型の相違として捉えている。持って生まれた“性質”の違いだと思っている。遺伝子レベルの問題である。環境により後天的に身に着けた“性格”ではないはずだ。ちなみに私は、岩目地先生派であるが、お粗末極まりないことは事実が証明している。


 此処まで勝手なことを書いてきたのである、私の独断をもっと敷衍してみるか。批評は自由であると言う言葉を免罪符に。
 大悟は、禅坊主にだけ許された特権であるはずがない。我々は日常生活で日々それを眼にしている。例を挙げてみよう。

 高校野球の決勝戦である。九回裏ツーアウト満塁、スコアは1対0。カウントは2ストライク3ボールである。
 甲子園球場のスタンドを埋め尽くした7万の観衆は、固唾を呑んで次の投球を見守っている。マウンド上で凄まじいプレッシャーを背負い、ピッチャーは振りかぶって球を投げた! 入魂の一球は、キヤッチーのミットめがけて走る。
 その刹那、ピッチャーの脳髄を映像が早送りで巡った。小学校の低学年の頃から、ひたすら野球に打ち込んできた。朝早くからランニング、放課後は球が見えなくなるまで白球を追った。中学、高校と野球漬けの毎日であった。甲子園のグランドを目指して脇目もふらず走ってきた。
 いまその結果が出るのだ。手応えがあった! 不思議にも、球がキャッチャーミットに収まる感触をこの手に確かに感じた! 遠くで歓声が沸き起こる。目の前が真っ白になった。

 これは大悟の瞬間とは言えないだろうか? 甲子園に限らない。地区大会、県大会でドラマは用意されている。そこには、身を震わす感動がある。
 野球に限ることではない。陸上、水泳、ラグビー、サッカー……目標の有るところには達成感がある。感動がある。 
 ここで冷や水を浴びせよう。野球は感動を得るための手段なのだろうか? 野球はプロとして金を稼ぐ手段なのか? 人々に賞賛される為にやっているのか?  
 一方、何かの目的を達成するための手段として野球をやっているのではない。と言う考え方もある。ただ好きで堪らなくてやっているのだ! 単に野球の技術を身に着けたいのだ! 野球が好きだ、そして縁を結んだのである。死ぬまで“行”として野球を続けるというのである。分かりやすく言えば、格闘技(スポーツ)と武道の違いを此処にあるとはいえないだろうか。こうなってくると私は、心底自分の好きにしたらと思うのである。
 だって、人間の性質によって分岐してしまうのだから。


 坐禅を続けながら、私はこのような埒のないことを考えていた。日常生活に於いては全く役にたたないことだ。そんな暇があったら、部屋の掃除をするか、洗濯をするほうが遙かに人の役に立つと言うか、人に迷惑を掛けないと言って間違いない。 
 今回の章は、寝言、酔っぱらいの戯言と思って下さい。(ああっ、今夜も飲み過ぎだ!) 読み返してみて恥ずかしい限りであります。自分の頭が整理されていないと、書く文章が支離滅裂になるという見本です。次回はもう少しましなものを書こうと思います。
 なお、前章の冒頭に申しましたように、“一途な人”に関しましては、いつ何時削除するかも知れません。その時はどうかお許し下さい。



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