「北御門君、ちょっと来たまえ」
堀田課長のお呼びである。
「はいッ」
返事は良いのだが、貴彦はすぐには立ちあがれない。
昨日の草刈りという超重労働のおかげで、腿の筋肉が痛くて仕方ないのだ。椅子から立ちあがるのさえ、両手で踏ん張らねばひっくり返ってしまいそうである。
JR代々木駅の西口を出ると、大きな交差点になっている。その交差点から線路沿いに原宿方面に三分ほど歩いた所に、昭和三十年代に建てられた四階建ての古い小さなビルがあった。且R尾食品の本社ビルである。
「何でしょうか?」
「今、受付から連絡があった。すぐに一階の応接室に行きたまえ。君の出番だ。用件は分かるだろ」
堀田課長の眼鏡の奥で、小心で狡そうな光が生じた。眼球が小刻みに動きながら、机の前に突っ立った、貴彦を見上げる。それにしても、四十二歳という歳にも関わらず、頭髪はほとんど無い。見事な禿っぷりである。
「またですか、勘弁してくれませんか」
課長の態度で、用件はわかった。総会屋か何か、その筋の人間に決まっている。
「総務係長としての君の仕事ではないか。念のために言っておくが、応接室で追い返してくれたまえ、くれぐれも私の手を煩わすことのないようにな」
「たまには、課長が対応して下さいよ」
「何を言う。これは総務マンとしての、君の教育の一環だ。君に期待する私の配慮が解らぬのか! 私の若い頃は・・・・・」
「課長、分かりましたよ」
貴彦は、課長の話を遮るように言った。黙っておれば何時まで話が続くか解ったものではない。課長が若い頃、一度その筋の人間と応対して、べそを掻いてしまい。その後、その手の対応は、一手に今の部長がすることになったのは、社内では有名な話である。
気が重い、身体も重い。筋肉痛の足には階段の一段ごとに、地獄のような負担がかかる。身の不幸を嘆いても始まらない。ともかく、総務課のある三階から、一階まで降りねばならないのだ。
「エレベーターぐらい付けてくれよ!」
思わず、泣き言が貴彦の口をついて出た。しかし、就職に当たっては、あえてこの且R尾食品という中小企業を選んだのは彼自身であった。
もうすぐ終わる。あと二〜三段だというところで、貴彦の気か緩んだ。気が緩むと、足の神経も緩む、あっと言うまであった。
足を踏み外したと思った瞬間、天地が逆さまになった。大げさにも貴彦は一回転してしまい、尾てい骨をいやというど打ち付け、息が出来ない。長い足が植木を引っかけてしまい、ゴムの大きな鉢が転がった。
「北御門さーん!」
受付の裕子ちゃんが、駆け寄ってくる。
「うッ・・・・・」
貴彦は返事どころか、息をつくことも出来ない。
「大変! 北御門さんが死んじゃう! 救急車・・・・・」
貴彦は、必死に裕子ちゃんのスカートの裾を引っ張り、首を横に振り続けた。堀田課長が同じ事をしたら、百パーセント間違いなく、セクシャルハラスメントで訴えられるところだ。
しかし、貴彦にほのかな思いを寄せている裕子ちゃんは、太ももがまくれ上がるのを気にしながらも、ポーと上気した顔をした。
一階と言っても狭いフロアーである。騒ぎは一階フロア全体を巻き込んだ。裕子ちゃんが、救急車を呼ぶのを諦めたらしく、バタバタと走っていった。救急箱でも取りに行ったらしい。もう一人の受付嬢が、ゴムの鉢を起こし、散らばった土の掃除を始めた。
三つ並んでいる簡易応接室のドアが開き、来客たちがそれぞれ不審そうに顔を出した。その中の一つのドアから、若い男が身をのりだした。黒っぽいスーツに、濃いグレーのワイシャツ、剣呑そうな顔をしている。何処から見てもその筋の人間であることは明らかだった。
「お待たせ致しました」
長身を折りながら、貴彦は丁寧に挨拶をし、金属製の安っぽいパーテーションで仕切られた簡易応接室に入った。足をひきずり。額には大きめのバンドエイドが貼られている。
何処から見ても普通ではない。先ほどの騒ぎを知らねば、ふざけていると思われても仕方のないところだ。
「おいおい、何なんだお前は」
目つきの険悪な若い男が、ドスのある声を貴彦に投げかけた。もう一人三十歳ぐらいのちょっと見では好い男が、木枠にビニールシートを貼った安っぽい椅子に座っていた。こちらは、ごく普通のサラリーマン風である。
「私は、山尾食品の北御門と申します。どういった御用件でしょうか」
そう言いながら、貴彦は名詞を差し出した。若い男が、ほらよっとばかりに名詞を返した。そこには、金色で飾られ、筆で書かれたような文字で、且R本総業とあった。何とも品のない名詞である。名前は高橋弘となっていた。
「申し訳ない。私は郷田と言います。今日は名詞を持ち合わせておりませんので」
貴彦が名詞を渡しても、そう言って年輩の男は名詞を出さない。
「おい、こちらをどなたと心得てるんだ。なんで係長が応対するんだ。幹部を呼んでこい」 貴彦は何処かで聞いた台詞だと思った。(そうか、水戸黄門だ!)
「申し訳ございません。社長、役員、部長、課長も全員不在でして、失礼ながら私がお話を伺わせて頂きます」
「何だとぉーッ! 課長以上が全員不在だぁーッ。バカにするのもほどほどにしろ!」
高橋という若い男が、貴彦の胸ぐらを掴まんばかりに詰め寄る。
貴彦は顔が青ざめ、今にも卒倒しそうに見える。
「まあまあ、そういきり立つんじゃない。取りあえず、用向きだけでも言いなさい」
年輩の男、郷田がたしなめるように言った。
「はッ、解りました」
高橋は最敬礼するかのごとくに返事をした。
「おい、優しく、そう仰っておられるんだ。良い返事をしないとどうなるか、分かっているんだろうな・・・・・」
「はッ、はい」
貴彦の声は、怖くて上擦っているかにみえる。彼は、場合によっては、心身ともに超人的な強さを発揮するのだが、ごく限られた場面に限定される。すなわち、妹たちに危険が及びそうになった場合と、自分に暴力が加えられそうな刹那だけである。その事を、身にしみて知っているのは、熊田と近藤先生である。
それ以外の場合は、実に何とも情けないことになってしまうのだ。
「この会社も、なかなか景気が良さそうじゃないか。分かってると思うが、今や世の中、知識と情報を制する物が、勝ち残る。業績が良いからと言って油断していると、すぐに倒産だ。おいッ、分かるだろ」
知性の欠片もない高橋が言うのは、極めて不自然である。だが言ってること自体は間違いとは言えない。
「はい、分かります」
貴彦は、大きな身体を小さくしながら返事をする。
「おッ、分かると言ったな。そこでだ、『食品月報』という素晴らしい機関誌がある。毎月十万円の購読料だ。安いもんだろうが。ほれ、購読契約だ、判子を押してこい!」
「いえ、あの、その・・・・・社印は、私には押すことが出来ませんので」
「だから、社長を呼んで来いと言っとるだろうが!」
「先ほど申したように、社長は不在でして・・・・・」
「総務部長が印鑑をあずかっとるだろうが」
「部長も不在・・・・・」
「嘗めとんのか! おいこら!」
高橋は立ち上がりざまに、テーブルを両手で叩いた。バン! という大きな音が一階のフロアに響き渡った。
貴彦の身体が二分の一に縮み、のけぞった。つられて魂魄も縮あがった。
高橋は、貴彦の様子を伺うとたたみ込んできた。
「大人しくしておりゃ、つけ上がりやがって。覚悟はできてんだろうな」
「かッ、覚悟と申しますと?」
「何だと、俺の言うことにアヤを付けるつもりか」
「アヤ、と申しますと・・・・・」
高橋が、ガラス製の灰皿を掴んで立ちあがった。貴彦の眼が半眼になった。そのまま、灰皿を貴彦の額にでも叩きつければ、一瞬にして勝負が決し、若い男が血の海に沈んでいたところだが、残念ながらそうはならい。
その時だった。大きな音に、貴彦の身を案じたらしい裕子ちゃんが、茶を盆に乗せそーとドアを開けた。
「キャー!」
一瞬の出来事だった。灰皿を掴んだ高橋を見た瞬間、大声を喉から絞り出すとともに、盆を放り投げてしまったのだ。
「あちーッ!」
まさに狙ったように、湯飲みは高橋の額にあたった。高橋は、灰皿を放り出し顔を覆った。灰皿はテーブルに落ち大きな音をたてる。フロアー全体が大混乱の陥った。
郷田が廻りの状況を見回すと、高橋を肘で突き、なにか小言で囁いた。
「今日はどうも失礼致しました。また改めて伺います」
郷田は貴彦の眼をみて穏やかに言った。
「おい、覚えてやがれよ」
高橋が、お決まりのありふれた捨てぜりふを吐いた。
「北御門さん、お名前は覚えておきます」
こちらの方が、遙かに凄みがあった。
「北御門さーん、大丈夫だった!」
「ありがとう、裕子ちゃんのおかげで無事だったよ」
貴彦は、裕子の膝の上で意識をうしなった。両手で頬を押さえた彼女は、ポーと上気して夢見る乙女になっていった。
「課長、お先に失礼します」
「仕事は終わったのか?」
眼鏡に手をやりながら、堀田課長が意地悪そうな声を掛けた。
「はい、今日の仕事は終わりました」
「明日の仕事は終わってないのか」
「えッ!」
この課長、明らかにバカである。明日の仕事は明日だろうが。もし麗子がこの場にいたら、人間扱いされないのは間違いない。
「今日は、月曜日で仕事は六時で終わりか? 君は仕事を嘗めてないか?」
「月、水、金は午後六時で仕事を終わるのが条件で、入社しましたから・・・・・」
またか、と言う顔で貴彦は返事をした。何十回と繰り返された言葉だ。
「俺は、許可していない!」
「社長と部長の許可は頂いています」
ふん、という素振りで堀田課長は顔をそむけた。
軽く会釈をし、いささか使い古しの鞄を持って、腰に手をあて、貴彦は出口に向かった。その時、彼の側にそっと近づき囁いた女性がいた。高校卒業以来、勤続二十数年の総務課、いや会社の主とも言える美智子さんだ。
「北御門君、気にしちゃだめよ。あの、バカ課長こんど私が懲らしめてやるから」
「ありがとうございます。大丈夫ですよ、慣れていますから」
「しかし、何とも痛い眼にあったわね。北御門君、それなりに格好いいんだからシャンとして歩きなさいよ」
美智子さんは、入社以来、気が弱そうで少し頼りなげな、貴彦の面倒を何かと見てくれる。背の高い整った顔立ちの、どちらかと言えば美人の系譜に入るのだが、浮いた噂一つ無い。興味の対象が男ではないことは間違いなかろう。
貴彦は、必死の思いで階段を下り、会社を後に代々木駅に向かった。七時から、予備校の講師のアルバイトが始まるのだ。週三回、合計六時間、時給は五千円、一週間三万円、月に十二万円の収入は貴彦にとって大切な稼ぎである。
貴彦が、院への進学、教職への希望を断念したのは、妹三人を養う家長としての思い込みからであった。その為に予備校の集中する代々木に就職を探し、そのことを条件に入社を望んだ。面接の時、昔気質の山尾社長が、「家長としての責任」という言葉にいたく感激しアルバイト御免となった経緯がある。
六年間、まじめに予備校講師として勤めた結果、時給も三千円から五千円に上がった。貴彦は教えるのは好きで、一所懸命、講義するのだがいまいち受講生の評判は良くない。 実は、長女の麗子も予備校の講師をしている。院生で時間的に余裕があるため、週に十時間は教壇に立つ。時給は四千円と言うことになっている。しかし、実際は極めて評判が良いらしく、兄妹には内緒だが時給は一万円だ。かなり家計を助けているのだが、貴彦を傷つけないため、麗子が口に出すことは決してない。
予備校の入り口のところで、可愛い女性が手持ちぶさたに佇んでいた。入っていく予備校生が振り返る。授業が始まっても、暫くは彼女の面影がちらつくはずだ。勉強の妨げになることは間違いなかろう。
彼女の眼が輝いた。待ち人来たるか。
「お兄ちゃーん!」
手を振りながら、貴彦の方へ掛けてくる。摩美だった。
貴彦には用件の想像がつく。
「またか?」
「またかは、ないでしょ! 可愛い妹の将来が掛かっているのよ。お小遣いちょーだい」 舌っ足らずの甘い声である。
「また、合コンかよ。麗子とは違った意味でお前も困ったもんだ・・・・・」
「お姉ーちゃんの、何処がこまるの?」
「こッ、困ることなどない、絶対ない。頼むから、聞かなかったことにしてくれ!」
貴彦は、拝むように手を合わせた。
「二万円でいいから」
「にッ、二万円だと!」
「そのぐらい要るわよ。いい男を捕まえるためにはね」
少しは、アルバイトでもしてくれないかと、貴彦は思うのだが、そんなことは百年待っても無理に決まっている。
「あッ、そうだ! お兄ちゃん、由美ちゃんが、今度ニューヨークにミュージカルを見に行きたいと言っていたよ」
貴彦の眼の前の景色がゆがんできた。彼は、その場に倒れる自分を自覚した。
(僕は、絶望という名の電車に乗った乗客なのか?)
倒れそうになった身体を、摩美が支えてくれる。しっかり財布の位置を確認しながら。
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