永久に未完の組曲
男はつらいよの巻(四)



 
 午後五時、若く華やいだ声が行き交う渋谷東一丁目の路上である。吹奏楽クラブの練習も終わった由美は、姿勢を正し颯爽と校門を出た。
 ショートカットの髪に、制服のリボンがよく似合う。由美の通う高校は、セーラー服に筒リボン(通称、海苔巻きリボン)、スカートは膝が隠れる程度と校則で決まっている。 由美の身長は百六十五センチ近くあり、スカートとから外に出た足は、カモシカのように躍動感にあふれている。化粧気のない涼やかな顔立ちは、その道のプロの目を引くらしく、モデルのスカウトに声を掛けられることがしばしばあるが、彼女は、まったく相手にしない。
 本当のところは、かなり興味があるのだが、兄の言いつけで返事をしてはいけないことになっている。
『道で女性に声をかける男はクズだ』と兄は言い張るのだった。 
「由美さん、今日も稽古なの」 
 同じクラブの知子が話しかけてきた。
「そうよ、帰ってすぐに稽古に出かけるの」
「たまには、私たちと遊びません」
 同じく聡美が誘いをかける。
「ごめんなさいね。また今度・・・・・」
 これまた、いつもの光景だ。由美は実に人気がある。
「由美さん、渋谷駅までお話いいでしょ」
「いいわよ」
「えッ、うれしいー!」
 知子と聡美が手を取り合って喜ぶ。一見して育ちの良いお嬢さん風の二人は、由美を挟み込むように左右から、腕を組んで歩き出した。
「先日、保護者会のとき見かけたけれど、由美さんのお兄さんステキね」
「うーん、まあまあかもね。しかし、少し時代おくれだと思うよ」
「そんなことないよ、背が高くてカッコいいよ。そうそう、噂で聞いたんだけど、英語のコンドームが、由美さんのお兄さんの後輩と聞いたんだけど、本当?」
「ええ、本当よ。兄が大学の空手部の主将をしていたときの、新入部員なの、歳でいくと三歳下になるかな」
「あんな頼りないのが、空手部なの?」
「一見そうだけどね、あれでも関東大学選手権で六位入賞したこともあるのよ」
「うっそだー!」
「信じられないでしょうけど本当よ」
「お兄さんの成績はどうなの」
「試合に出たことないの。人と戦うのは厭なんだって」
「そんなの、おかしい。じゃ何故、空手なんて野蛮なスポーツをするの」
「それが、いまいち兄貴の分からないところなんだけど、事実よ。大学では一年の時から一番強かったらしいわ、でも決して試合はしないんだって。高校でもそうだったらしいわよ。熊田という体重百二十sもある刑事が、よく家に来るけど、高校時代、兄に全然かなわなかったらしいわ」
「わーッ、ミステリアス!」
「何かトラウマがあるみたいで、知りたーい!」
 知子と聡美は、貴彦に興味を持ったみたいだ。
 金王神社の前まで歩いてきたとき、知子が、おもねるような口調でいった。
「ねー、由美さん。お願いほんの少しだけでいいの、お話しできない?」
「そーね、三十分ぐらいならいいわよ」
「やったー。聡美、神社の杜のベンチで待っていて。いつものところよ、わたし飲み物を買ってくるから」
「分かったわ。私つかまえて離さないから」
「抜け駆けはだめよ」
 知子と聡美のあいだでは、由美を巡る申し合わせがあるようだが、由美には見当も付かない。

 金王神社の境内は、渋谷駅近辺では最も静かで、緑も多い場所であるがあまり知られていない。金王神社という名は、少し危ういところがある。道を尋ねる人が間違って、金玉神社ということがある。由美も何回か経験していた。
 なかには不埒な若者が、学園の制服を見てわざと、
「金玉神社はどこですか?」
 と尋ねることがある。女の子は真っ赤な顔で逃げ出し、若者は笑って見送るという、ある意味ではほほえましい光景が現出するのだが、由美が相手の場合はそうはいかない。
「金玉神社はどこですか?」
 その瞬間、由美は相手の意図を読み取る。ひやかしの意図を嗅ぎつけた瞬間、遠慮のない平手打ちが男の頬を襲う。単なるビンタというより、空手の掌底打ちに近い。貴彦に習ったに違いない。
 並の男はふらつき、中にはその場に倒れる者もいる。普通はそれで終わるのだが、血相を変えて向かってくる者が出現すると悲劇がおこる。
 向かって来る男の、股間に向かって必殺の蹴りが炸裂するのだ。
「金玉神社はそこだよ」
 と捨てぜりふを吐いて、由美は颯爽とその場を離れる。あとには、うめき声を上げて転げ回る男が残されると言うすんぽうだ。 
 そう言う場面を、目撃されれば女子校において、ヒーローになることも、無理からぬところではある。

「買ってきたよ!」
知子が大きな紙袋を差し出した。
 社の木陰には、心地よいかせが渡り木の葉がサワサワと音をたてる。木製のベンチに、乙女が三人、座っている風景は確かに絵になる。ただし黙っていればのことで、この乙女達は結構、かまびすしい。
「コーラに、ハンバーガーにフライドポテト。ありがとう、これ知子の奢りよね」
「違うよ、聡美。貴方と二人で割り勘よ」
「えーッ、そうなの」
「もちろん。それとも由美にも払わせるつもり」
「ちがう! わたしそんなつもりじゃない」
「いいわよ、当然私も払うわよ」
 由美はおかしそうに口を押さえて言った。
「聡美、あなたが変なことをいうから、由美が払うって、言い出したじゃないの」
 知子が口をとがらせて聡美に詰め寄った。
「ごめんなさい」
「聡美さん、謝ることはないわ。わたしが、あなたたちに奢ってもらう、ゆわれはないわ。割り勘にしなけりゃ、わたし食べない。あッ、気にしないでね。怒ってなんかいないから、仲良く食べましょうよ」
 結局、由美の意見で落ち着いた。ハンバーガーを食べるのにも、若い女性はこれほどの時間を費やす必要があるのだ。まだまだ、世の中捨てたものではない。幸福な学園生活が東京の都心にも息づいているのだ。
「フライドポテト、絶対この袋の方が多い。多いのは由美さんのぶん」
 知子は分配するに当たっても細心の注意を払う。
「どれでも、同じでしょ」
「由美さん、ポテトはきちんと計って袋に入れるわけではなく、手で適当に入れるのよ、当然差が出てくるでしょ」
 フアーストフードを話題に、話が何処まで続くか見当もつかない。

「ねえ、ちょっと。向こうから歩いてくるのコンドームじゃない?」
「そうよ、あの格好は、絶対そうよ!」
 近藤努が、新書本を読みながら、スーツ姿にリュックを背負った、なんとも様にならない風采で歩いてきた。彼は、美的感覚に明らかな欠落があるとしか思えない。 
「近藤せんせーッ」
 聡美が立ち上がり、声を掛けた。 
 うつむき加減だった、近藤の身体がビクンとのけぞった。不意をつかれたらしく落ち着かない様子だ。
「ああッ、君たち・・・・・なッ、何をしているんだ」
「ごらんの通りよ。お話しているの」
「クラブ活動が終わったら、真っ直ぐ帰ることになっているだろ。こんな、人影もないところで、暗くなると危ないからな」
「先生、どういう風に危ないの。痴漢がでるの? それとも、拐かされるの?」
「まあ、そッ、そうだ」
「先生、分かりました。もうすぐ帰ります。ところで、先生こんなところに一人でなにしに来たんですか?」
 由美がみんなを代表して質問した。
「僕は、一人で考え事をするときは、良く此処に来るんだ」
 近藤はそう答えながら、手に持った新書本をさり気なく、後ろに隠した。
「先生、どんなご本を読んでいるのですか?」
「えッ、本? ああこれか、たいした物ではないよ」
「たいした物でないなら、見せてください」
 由美の追求の手は止まない。近藤の弱みの匂いを感じたらしい。由美は立ち上がると、近藤の前に立った。背丈は十センチは違うはずだが、背筋を伸ばした由美と、猫背でうつむき加減の近藤とでは同じぐらいに映る。
「ホントにたいしたことないって!」
 近藤は、半分べそをかきそうな顔になった。 
「いいから見せなさい!」
 由美の言葉が命令口調になった。
「ぷッ、プライバシーの侵害だ!」
「高校教師にプライバシーはないの」
 そう言うと、由美は一瞬のうちに、背後に回り込み本を引ったくった。知子と聡美も協力して、近藤をつかまえた。
「やッ、やめてくれ!」
「えーッ、少女マンガじゃん!」
「ゆッ、由美ちゃん。なんていうマンガ?」
 知子と聡美が声を揃えていった。
 由美は木製のベンチに飛び乗ると。大声をだした。
「『天まであがれ』木原敏江先生のマンガよ」
「えーッ、信じらんない!」
 近藤の身体から力が抜け、心身ともに虚脱状態になってしまったようだ。男性向けのエロ本の方がまだしも救いがあろう。
 近藤の頬を、涙が一筋つたわっていった。

次ページへ小説の目次へトップページへ