「麗子、最近予備校の方はどうだ」
北御門家の居間である。午後十一時近くになろうとしていた。普段は部屋に閉じこもり、めったに居間に顔を出さない麗子が紅茶をいれて、貴彦にも出してくれたのだ。
「まあまあよ」
あまり気のない返事だ。
「お前が、頑張ってくれるので家計は大助かりだ。摩美の奴なんか、どう考えても金を使うことが生き甲斐としか思えない」
「でも、それはそれで可愛いじゃない」
「まー、そうだけど・・・・・ところで、予備校の時給いくらだ」
「まだ、四千円のままよ」
「そーか、がんばれよ。そのうち俺のように五千円になるかもしれないから」
「そーね・・・・・」
麗子は結構気を遣っている。
「お兄様も、良い年頃なんだし結婚のことでもかんがえているの? なんなら、紹介しましょうか?」
「バカ言え。俺は三人を嫁に出してから考えることにしている」
「そうよね、小姑が三人もいる家に、来る人なんかいないものね」
「そう言う、お前はどうなんだ。好きな男でもいるんじゃないのか?」
貴彦の眼の奧が光った。
「いるわよ」
麗子が、しれーと言った。
「なッ、なんだと! そいつは何処の誰だ!」
敵愾心剥き出しの勢いで、貴彦が詰め寄る。麗子はしらーん顔だ。
「いても、不思議じゃないでしょ。出来れば一緒に住みたいと考えているの」
「・・・・・」
貴彦は、すぐには言葉がでない。麗子の手を掴むと握りしめた。
「でも、無理よね、相手は奥さんがいるんだもの。あッ、お兄様どうなさったの・・・・・」
貴彦は椅子からずり落ち、しこたま尾てい骨を打った。
「・・・・・うーむッ。何やつだ、こッ、殺してやる」
貴彦は臀部をさすりながらたちあがり、今にも駆け出しそうな勢いだ。
「お兄様も、どうしようもないひとね。私の好きな人は、院の名誉教授の松永先生よ、歳も七十過ぎなんだから。落ち着いてよ」
「七十過ぎでも男は男だ! 女であるはずがない」
いっけん論理的だが、まったく無意味なことを貴彦が口にする。しかし、彼の顔色は落ち着きを取り戻し、幾分ホッとしたようだ。
「お兄様は、私が結婚するのに反対なの?」
「反対じゃない。相手が問題だ」
この発言は無意味とはいえない。
「そーだなーッ、少なくとも。喧嘩して俺に勝つことが、最低条件だ」
「えッ、それって、かなり高いハードルね。熊田刑事でも無理そうだし・・・・・」
「くまだーッ、あんな奴とんでもない。十万年早い!」
十万年の根拠がいまいち分からない。
「しかし、私がお嫁に行かないと、摩美ちゃんが行きずらいんじゃない? 順番というものがあるでしょ」
「それは、両親のそろった普通の家庭でのことだ。我が家のような兄妹だけの家族は、そうではない。二女が行き、三女が行ったあとに、長女が行くことになっている。そして、最後が家長だ」
「そんなの、聞いたこともないわ。じゃあ、私は由美さんの嫁いだあと、旨くいって十年後になるというわけ? おばあさんになってしまうわ」
他人事のように麗子は言う。
「それが、長女の宿命だ諦めなさい」
「あら、お兄様、今日はどうなさったの。珍しく断定的におっしゃるのね?」
「お前に、こんな事を言うのは辛いんだがしかたない。世間の常識というものは、そういうものだ」
貴彦は無理に難しい顔をした。この男から世間の常識なんぞという言葉が出るのは驚きである。
「お兄様、ちょっとお聞きして宜しいかしら」
貴彦の身体がブルッと震えた。麗子がこのような言い方をするときは、後が怖いのを彼は知っている。
「なッ、何だよ」
「お兄様は、結婚について、どのようなお考えをお持ちなの? わたくし、世間の常識と結婚する気はありませんことよ。わたくしは、わたくしのしたいときに、したいお方と結婚いたします。これはわたくしの生得の権利です。基本的人権の問題だと言っても過言ではありません。異論がおありですか」
「いッ、異論はない」
消え入りそうな声で貴彦が返事をした。
「えッ、良く聞こえないことよ、もう少し大きな声で言ってね。だけど、黙り込まないだけましかもね。お兄様、これは結婚だけのことではありませんわ」
麗子の口調はきわめて冷静である。しかし、話の内容はかなり辛辣である
「どッ、どういうことだ?」
貴彦は狼狽え気味だ。
「わたくし、お兄様と同棲してるわよね」
「えーッ! どッ、同棲・・・・・」
「違わないでしょう。客観的事実としてそうでしょう」
「・・・・・うん」
「いい、わたくしは、わたくしの意志で、お兄様をはじめ、摩美さん、由美さんと同棲しているの。世間からどうのこうのと、言われる筋合いはまったくないわ。わたくし、お兄様もご存じのように、二十三歳になります。大学を卒業するまでは、お兄様の経済的援助も受けました。そのことは感謝しています」
「感謝だなんて、家長として当然の義務を果たしただけだと思うんだが・・・・・」
貴彦は少しホッとしたようだ。
「でも、わたくしは、独り立ちした成人です。違いますか?」
「その通りだ」
「どのような人生を歩もうと、わたくしの責任において自由なはずです。家長がお兄様でなく両親であってもまったく同じです。結婚問題もこれと、根を同じくします」
「でも、家長として、妹のことが心配で、心配で・・・・・」
貴彦は、しかめ面の泣き出しそうな顔をした。
「ご心配なさるのは、あくまでもお兄様個人の問題です。わたくしの関わることではございません。しかし、ご心配なさらないで、わたくしこの家も兄妹もみんな好きですから。摩美さん、由美さんが成人するまでは、お兄様に協力いたしますわ。世間の常識ではなく自分の意志で」
貴彦の頭はパニックになりそうだ。嘆くべきか、あるいは安心するべきか、ハムレットでもあるまいに、頭を抱え込んだ。
「ただいまー」
摩美だ、居間のドアが勢いよく開けられ、紙包みを抱えて入ってきた。
「あッ、お帰り。合コンどうだった?」
貴彦が明るく返事をした。もう立ち直ったのだろうか。
「いまいち、ぱッとしないのよね。医者や弁護士って、何故あんなに不細工なのかしら?」
「摩美さん、医者や弁護士で素敵な人が、物欲しそうに彼女を求めて、合コンなんかに行くと思う?」
「あッ、お姉ちゃんキツーい。でもそうかな? 方法を考えなくっちゃね」
「摩美さん、それはいいけど、その紙包みはケーキじゃない?」
「そうよ、新宿で美味しいって評判のケーキを買ってきたの」
テーブルに箱を置き、摩美が蓋を開けた。一見、立派で高価そうなケーキが十個ほど入っていた。
「摩美、これ高いんじゃないのか。我が家は四人だぞ、こんなに買ってどうするんだ!」
貴彦の貧乏性が顔をだした。
「一個、七百円よ。私が四つは食べるから、お兄ちゃん心配しないでね」
違う! 心配の方向性が絶対違う!
「由美ちゃんは? ひょとして夜遊び?」
遅まきながら、由美が居ないことのに気づいた摩美であった。
「ばか、お前とは違うんだ。今、何時と思っているんだ、十一時半だぞ、由美は稽古疲れで眠っている。摩美、お前はまだ未成年なんだから、もう少し早く帰ってこい」
先ほどからのストレスのせいか、八つ当たり気味に貴彦は、がらにもなく説教をしたが、摩美はまったく気にするふうがない。
「わたし、起こしてくる。お姉ちゃん、紅茶お願いね」
「まてッ、眠っているだぞ、起こすことはない・・・・・」
摩美は貴彦の言葉を無視して、廊下を走る。
「由美ちゃーん。おいしいケーキがあるよー」
もう一人、夜更かしの未成年がいた。
「何時だと思ってるんだ。今頃帰ってきやがって、夜道は危ないんだぞ」
そう言うこの男、かなり危なそうである。
「しかし、たいした家だな。こんなに広い家が、渋谷のすぐ近くにあるなんて。しかも、代官山と恵比寿にも歩いてそう遠くない」
ブツブツ独り言をいっているのは、通称ゲンと呼ばれている暴走族だ。頭を金髪に染め、ずり落ちそうなズボンを腰に引っかけている。
夕刻から、北御門という表札を確認したあと、中の様子をさかんに伺っていた。
「それにしても、車庫のあの車はなんだ、ありゃ十年前のカローラじゃないか。ベンツぐらい買えよ、まったく」
さすがに、暴走族らしく車に眼がいく。
「兄と妹三人、四人家族か? これだけ調べれば、兄貴も文句は言うまい。五時から今まで・・・・・腹減ったよ」
邸内の様子を探ること、そして、四人の面を確認することを命令されていたのだ。ゲンは、夜遊び女に怒りを覚えながら、北御門家の門扉を後にすると、路上に止めてあるバイクまで歩いていった。
そのうちに、静かな住宅街に、消音装置を外したバイクのエンジンの音が、けたたましく鳴り響いた。
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