永久に未完の組曲
摩美ちゃん誘拐されるの巻(一)



 


「どこで俺の人生は狂ったのだろうか? どう考えてもおかしい・・・・・」 
 警視庁、本庁捜査四課、通称マル暴のクマこと、熊田一雄は、日比谷公園のベンチで所在なげに腰を下ろしていた。
 熊田はショックを受けていた。先ほど、本庁の留置所である人物と出会ったのだ。たまたま留置所に収容されている。組の構成員に用があったあったのだが、事件はこのとき起こった。
「熊田さん、熊田さんじゃありませんか?」
 留置所の檻の中から、通路を歩いている熊田に呼びかける者がいた。
「なんだ?」
 熊田は立ち止まった。
「やっぱり、熊田さんだ。僕ですよ、覚えていませんか」
 男は懐かしそうな顔をした。
「たしか・・・・・義男・・・・・」
「ありがとうございます。覚えていてくださって。ところで何をしでかしたんですか? どこの組ですか?」
「ばか言え、俺は刑事だしかも捜査四課だ」
「えッ、そッ、そんなバカな!」
 義男と呼ばれた男は、茫然として言葉を失ってしまった。 
「義男、お前は相変わらずドジだな。罪を償って堅気になるんだな」
 よく耳にする台詞を吐きながら、熊田はその場を離れた。歩いていく熊田の背後で、突然悲鳴に近い大声が揚がった。
「うそだーッ、絶対うそだーッ! なぜ俺が檻の中にいるんだ。逆じゃーないか! 『極悪』の熊田さんが、なぜ刑事なんだ!」
 後で、熊田が聞いたところでは、新宿を縄張りとする小さな組の構成員で、暴行、傷害の容疑で留置されていたのだ。
 高校時代は、熊田の手下でドジな男であった。「カツアゲ」をやらせても要領が悪く手を取って教えたものであった。
 警視庁から五分の所にある、日比谷公園のベンチに腰をかけた熊田は、珍しく物思いにふけっている。

「先輩、空手部主将の北御門。あやつ、締めていいですか」
 坊主頭に柔道着の熊田が、主将に囁いた。道着の背には墨痕鮮やかに「極悪」と書かれている。高校二年で百八十センチの上背と百二十キロの堂々たる体型だ。ことに、その闘争心は凄まじく、まさに極悪非道。オリンピック候補になっているにもかかわらず素行の点が問題になっていた。
「止めておけ、あの男には手を出すな」
「それは、主将が弱いからです。俺はやりますよ」
 熊田は、先輩の主将を問題にしていない。事実、実力においては主将の及ぶところではない。熊田は不敵にニタリと笑い踵を返した。あたかも「極悪」の文字を主将に見せびらかすように。
 熊田は、北御門という上流階級ぶった名前からして気に入らない。その上、両親は既に無く妹の面倒を見ている優等生。背が高く結構女の子に人気があり、ましてや、喧嘩に於いても皆が一目置いているらしい。はらわたが煮えくりかえる程の怒りを覚えていた。  熊田にとっては、強さこそ全ての価値の源泉であったのだ。
「先輩、ちょっと話があるんですがね」
 貴彦の帰りを待ち伏せていた熊田が声をかけた。闘志満々、剣呑な雰囲気を漂わせている。
「北御門君、相手にしないでいこう」
 連れだって帰り道を歩いていた。女の子が言った。
「うるせー、女は黙れ」
 熊田が女に子に暴力を振るう素振りを見せた。
「やめろ!」
 貴彦の眼が光った。
「おッ、王子様のお出ましか。じゃ行こうか」
 熊田に取っては、思うつぼである。
「だめよ、北御門君!」
「ちょっと、話をするだけだから、先に帰ってよ」
「絶対、暴力を振るっちゃだめよ」
「うん、わかったよ」
 熊田は貴彦と女の子の会話が、少し気になった。

 熊田はホームグランドの、近くの森に貴彦を連れ込んだ。ここで血反吐を吐かせた男は両手で余るほど居る。
 熊田は機をうかがい、振り向きざまにフックを相手のテンプルに叩き込んだ。得意の奇襲戦法だ。先手必勝、これが喧嘩道の極意である筈だった。しかし、熊田の体重を乗せたパンチは空をきった。
 最小限の動きで相手をかわし、微動だにしてない貴彦がそこにいた。切れ長の眼が、半眼になり、顔からは表情がきえている。
 熊田の背筋に未だかって感じたことのない恐怖が走った。相手の実力を感じてしまったのだ。しかし、熊田は気を奮い起こし貴彦に向かっていった。
 貴彦の制服の襟首と袖を、百二十キロがしっかり掴んだ。『しめた、これで勝ちだ!』と熊田が思ったのも無理はない。相手は身長こそ五センチは高いが、痩せて力はなさそうである。
 貴彦は、すっくと立ったまま身じろぎもしない。遠山を見つめるような半眼もそのままだ。
 熊田は、貴彦の右袖を引き腰を入れ、得意の体落としに入ろうと身体を密着した。その刹那であった。貴彦の掌底がポンと、軽く熊田の腰を打った。突然の出来事であった。熊田の全身から力が抜けてその場に崩れ落ちた。身体中の空気が抜けたようで、唸ることも出来ない。
 熊田の耳に遠くから近づく救急車のサイレンの音が聞こえてきた。先ほどの女の子が、事態を予想し、早手回しに電話をしたらしい。
 生活指導教師のガナリ声も聞こえる・・・・・。

 貴彦が、暴力沙汰を起こしたのは、高校生活を通じて二度だけだった。一度目は、新入生の時、女の子に不埒な振る舞いをしようとした。チンピラを病院送りにしている。
 二度目の今回も、熊田は骨盤骨折で三ヶ月の入院を余儀なくされた。
 貴彦の武術は、空手だけではない。六歳の時から、年に二ヶ月は、京都の伯父、北御門貴船のもとで、一子相伝、北御門流武術の伝授を受けていたのだ。
 北御門流は、新羅三郎源義光を開祖と仰ぎ、連綿と現代まて続いた、御留流である。源義光は、平安時代の後期、後三年の役に際し、兄、八幡太郎源義家を助け、武功をあげている。


 池袋駅の近く、西口公園の側にある昔ながらの喫茶店に五人の男女が集まっていた。麗子と院の仲間だ。専門は西洋哲学史であり、麗子は古代ギリシァ哲学のエピクロスを中心とした、いわゆる快楽学派を専攻している。
 立教大学からほど近い喫茶店は、麗子たちの溜まり場であった。
「松永先生すてきッ!」
 先ほどから、けんけん諤々、論を戦わせていたのだが松永名誉教授の話が出ると、突然麗子が叫んだのだ。
「おいおい、またかよ」
「麗子ったら、松永先生の話になると、何時もこうなんだから」
「寸鉄、人を刺すの麗子が感情的になるんだから」
「麗子、専任講師の山崎先生が、お前のこと首っ丈のようだぞ」
「男は嫌いよ」
 麗子がフンとばかりに言い放った。
「??? 松永先生男だったよな」
「確かそうだと思うぞ。実際この眼で見たこと無いけど・・・・・奥さんも、子供も、孫も、曾孫もいるからなあ・・・・・」
 松永直弘、古代ギリシャ哲学の泰斗である。今は亡き碩学、谷川徹三の一番弟子で、師の意志を継ぎ、アリストテレスの研究で確固した成果をあげている。飄々とした姿、枯れた人間性は、学会でも有名であり悪く言うものはいない。
 古代ギリシャ語の読解力においては、国内では他の追従を許さず、国際的にも定評がある。
さらに、七十四歳の今も、古代ギリシャ語の発音を再現し、会話をするための研究に打ち込んでいる。
「語学の天才、麗子として古代ギリシヤ語の発音についの意見は?」
「わたくし、会話は嫌いだもの」
「えッ、!」
「あら、ご存じなかったの。英語は何とか話すけど、ラテン語、ギリシャ語は読解するだけよ」
 するだけよと、軽く麗子は言うが、その理解力たるや、院生のレベルを遙かに超えて、それぞれの専門家の領域にある。
「しかし、どうやって古代ギリシャ語の発音を再現するのかしら? 麗子知らない?」
「わたくし、あまり興味ないからハッキリした事は分からないけど、たぶん、ラテン語と現代ギリシャ語を基礎に、比較言語学の方法論をもちいて類推するのではないかと思うわ。あッ、そうだ、松永先生に聞いてみよう。もしかしたらお手伝いできるかも・・・・・」
 麗子が話し終える前に、彼女のバックで携帯電話の着信音が鳴りだした。着メロはなんと『軍艦マーチ』である。

「麗子、まだその着信音つかってるのか?」
「いいでしょ、わたくしの好きにしても」
「悪かーないけど。なんでそう、やることなすこと容姿とのギャップが激しいんだ?」
 電話は由美からだった。驚くことのあまりない由美が、興奮して喋る。
「ねッ、姉ちゃん! 大変なの。摩美ちゃんが誘拐されたらしいの」
「なんですって! ちょっと待ってね場所を変わるから」
 麗子は店の外に出て、人影のない所に移動した。
「由美さん、落ち着いてゆっくり話してね」
「うん、姉ちゃんたった今電話があったの、『摩美は預かった。警察に連絡すると命はない。また連絡する』と、それだけ言うとすぐ切れたの」
 さすがに気の強い由美も、動転しているらしい。
「お兄様には?」
「兄ちゃんの会社に電話したら、出かけているって。携帯は通じないの」
「いい、由美さんしっかりしてね。家を出ちゃだめよ、わたくしすぐに帰りますから。心配しないで、きっと大丈夫よ、摩美さんのことだから、ねッ」
「うん、姉ちゃん早く帰ってきて」
「すぐに帰るわ、いま池袋だから三十分待って。それから、お兄様は多分、電車で移動中か地下鉄だと思うの、何度も電話してね。じゃあ切るわよ」
 麗子は電話を切ると、喫茶店にとって返し急用が出来たと言って店を出た。先ほどの場所に来ると、バックを開くと手帳を取り出し電話番号を探した。携帯に登録してないところに電話をするらしい。

「もしもし、熊田さん」
『警察に連絡すると命はない』ではなかったのか。麗子はまったく躊躇することなく警察に連絡した。しかも、くどくど説明する必要のない熊田に。
「あッ、麗子さんか! うれしいな初めて電話をくれたんだね、今日は夕方から非番だよ」
 熊田は、日比谷公園のベンチで携帯電話を取った。物思いは何処かへ吹っ飛んでいってしまった。
「何にだらしない声を出しているのよ! 摩美さんが誘拐されたらしいの」
「なッ、なんだと! 本当か!」
 麗子は、由美の話を正確に伝えた。
「・・・・・という訳けなの、兄とは未だ連絡がとれないわ」
「分かった。警察の方はおれにまかせろ」
「頼んだわよ、わたくしはすぐに帰りますからね」
 麗子は、池袋駅に急いだ。儚げな美貌をキリリと引き締め、スレットの入ったスカートの裾を颯爽と翻す姿は、何時にもまして人目を引いた。

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