これは確かに誘拐であった。しかも、単なる思い付きや、発作ではなく周到な準備の元に実行された、計画的犯罪だった。
身代金目的誘拐事件は、年間約七件起きている。昭和二十年〜四十年は、単独犯が未成年者を誘拐し、近親者に金銭を要求するのがほとんどであったが、六十年以降は、複数犯や、成人を誘拐する形態が増加し、現在では半数以上をしめている。
年間約七件の数字は、警察の統計に表れた数字であって、実際はその十倍と推定される。身代金目的誘拐を生業とする、闇社会の存在も喧伝される今日この頃である。
摩美を誘拐した犯人は決定的なミスを犯していた。まず第一に、北御門家には金がないことである。莫大な資産はあるが、自由になる金は、麗子のへそくり以外ほとんどないのだ。第二に、北御門家の四人兄妹は並みの人間ではないことであった。犯人グループは後に、痛いほど思い知ることになる。
摩美が目を開けた。廻りの景色がぼんやりかすんでいる。二日酔いの朝のように目覚めたのだが、頭の芯が疼いている。身体はベットの上に横になっている。両手には手錠が嵌められていた。
(ひょっとして、私、拐かされたのかしら。でも、未だ眠い、考えるのはもう少し後にしようっと!)
場所は何処か分からない。マンションの一室であることは、確かだ。ベットの横の床に男が一人座って、寝息をたてながら眠っていた。頭を似合いもしない金髪に染めている。いつぞや、北御門邸を探っていたゲンだ。
「あー、もういや! 眠れやしない!」
大きな声だった。眠っていた見張り番のゲンが飛び起きた。本当にビックリしたらしい。
「なッ、なんだ、なんだ」
「眠れないのよ、あなた、眠いのに眠れないこの不愉快さわかる?」
「おッ、俺に怒ってもしかたないだろ」
「あなたのせいよ。私に薬を嗅がせたでしょ」
寝起きのゲンは、完全に摩美のペースに嵌ってしまったようだ。喧嘩と同じように初が大切だ、この上下の位取りを覆すのは不可能に近い。もっとも摩美は、計算してそうしたわけではない。天然居士、摩美のなせる技である。いや女性だから、天然大師と言うべきだろう。
「おッ、俺じゃないよ。高橋の兄貴・・・・・」
ゲンがあわてて口を押さえたがもう遅い、口から出てしまったのだ。
「きッ、聞こえたか?」
「高橋さんのこと? 聞いてないよ」
「あーッ!」
ゲンは絶望の呻きを漏らした。
「なに、ため息ついてるの? 聞かなかったと言ってるでしょ。そんなことより喉が渇いたわ。お願いだから冷たいお茶くださる?」
後半の言葉は、例の舌っ足らずの言い方になった。ゲンはすごすごと隣の部屋の冷蔵庫に行ったらしい。
今朝方のことだった。学校も自主的に休校にしてしまった摩美は、三人が出た後、最後に家を出た。
「おはよう、摩美ちゃん、今から学校?」
近所のおばさんが声を掛けた。
「いいえ、休校なの。天気がいいから、多摩川の河原にでも行こうかなって思ってるの」
「健康的でいいわねー」
その言葉を小耳に挟んだ男がいたことに、摩美は気づかなかった。実はこの一週間、毎日見張りを続けて、いささかゲンなりしていた男はゲンだった。今日はいける。確信をもったらしくゲンが、携帯で何処かに連絡をしているのを、摩美は視線の隅にとらえたが、彼女の脳細胞の意識の領域に入り込むことはなかった。
摩美は渋谷に出ると、東急新玉川線に乗った。目指すは二子多玉川園である。高島屋とショッピングセンターが目当てであるが、多摩川の河原も歩いてみたいと思っていた。
襲われたのは、河原でだった。金髪の男に声を掛けられた。ナンパかな? と摩美が思っていたとき背後から、布で口と鼻を押さえられた。薬品がしみ込ませてあったらしく、そのまま意識を失ったのだ。
「はい」
ゲンがコップを差し出した。手錠で結わえられた両手で、摩美がコップを受け取るとペットボトルから注いでくれる。
摩美は、コップ一杯の冷茶を一気に飲み干した。
「ふーッ、ありがとう。おいしいわ」
摩美がニッコリ微笑みかけた。魅惑的な瞳に柔らかくカールした髪、胸を強調するニットのセーター、そして何よりも、短いスカートがベットに腰を掛けた摩美の太ももまで、めくれている。
ゲンがゴクリと喉を鳴らした。
「私、摩美っていうの。あなたのお名前は?」
「名前なんて、どうでもいいだろーが!」
「なぜ、そんなに怒るの?」
「怒っちゃーいねえよ」
「じゃー、お名前は?」
「ゲン、ゲンだよ」
「どういう字をかくの?」
またもや、完全に摩美のペースである。
「元気の、元の字だよ」
「ゲンちゃん、私これからどうなるの?」
「おとなしくしてりゃ、家に帰れるよ」
「嘘でしょ。ゲンちゃん、いやらしい眼で私のこと見てるんだもの。手錠をして抵抗できないようにした私を、犯すんだわ」
摩美の表情からは、全然、怯えの色がうかがえない。むしろ、色っぽく科を作ったりなんぞしている。怯えが見えるのはむしろゲンのほうだ。
「とんでもない! 俺らはプロだ、頭の悪い素人と一緒にしないでくれ。兄貴からも言われてるんだ、商品に手を出すなと・・・・・」
「商品? やっぱり私、売られるんだ。さんざんオモチャにされたあげく・・・・・マカオ、香港、それとも上海? かわいそうな摩美! なんにも悪いことしてないのに。美しいって罪なのね?」
ゲンは頭を抱えて、狼狽えた。『なんなんだ、この女はいったい!』とでも思っているらしい。
北御門家は上を下への大騒ぎ。熊田の通報を受けた渋谷署員が四人、居間を対策本部として陣取った。電話に録音機をつけたり、パソコンを持ち込んでコードを引っ張ったりしている。熊田もネクタイを緩めて、大きな身体を椅子に預けていた。
その時、貴彦が押っ取り刀で帰ってきた。靴も脱がずに居間に入り込む。
「誘拐されただと!」
裂帛の気合いとともに、貴彦が吼えた。眼は半眼になっている。やばいと思ったらしく、熊田が麗子の顔をみた。こういう時の、貴彦を抑えることが出来るのは、麗子以外いないことを経験上、熊田は知っているらしい。
「お兄様、落ち着いて。諸般の事情を鑑みるに、誘拐であることは、ほぼ間違いはないと思います。取りあえず今できることは、相手の出方を待つことですわ」
「そッ、そうは言っても」
「では、何をなさるとおっしゃるの? 犯人はまだ何の要求もしていません。また連絡をすると言ってます。待ちましょう。いいですね、お兄様」
貴彦の半眼がゆるんできた、通常に戻ってくるようすだ。
「お兄様、お分かりになったら、靴を脱がれたらどう?」
「えッ、なに」
貴彦が、足下を見て、我にかえったように、慌てて靴を脱いだ。
「では、麗子さん御願いしますね」
渋谷署の刑事が言った。犯人からの電話には麗子が出ることになっているのだ。
「録音も逆探知も、すべてセットしております。電話が掛かってきたら、なるべく話を長引かせてください」
「分かったわ。でもテレビドラマと同じで、あまり能がないみたい 」
「えッ、何でですか?」
渋谷署の刑事は多少ムッとした顔で尋ねた。
「今時、犯罪者が公衆電話を使うとおもいます? 使うところが想像できますか? 他人から取り上げた携帯電話を使うでしょう。でもまあ、警察には警察のマニュアルがあるのでしょうから、どうのこうの云う気はありませんけど」
気があるのどうのの問題ではない。言い過ぎだろうが。
渋谷署の刑事が、色をなしているのを見て、熊田は我が意を得たとばかりに満足げに微笑んだ。
「兄ちゃん、準備は出来たよ!」
由美がドアをあけはいってきた。その姿たるや、ハイレグの黒いレオタードを身にまとい、腕と臑にプロテクターを着けている。左右の手には、トンファーとヌンチャクを持ち、背には佐々木小次郎をまねて、木刀を斜めにさしていた。
あまつさえ、キリリとしめられた白い鉢巻きには、七生報国と墨痕鮮やかに染め抜かれている。
北御門家の武闘派は家長と自分だと、思いこんでいる由美ではあったが、これはあまりに破天荒であった。
その場にいた、全員が一瞬口を開いたまま凍り付いてしまった。現出した事態が大脳前頭葉の理解力を凌ぎ、茫然とするばかりだった。
「ゲンちゃん、私、汗をかいたの。シャワーを浴びたいわ」
「シャワー・・・・・我慢しろよ」
摩美の監禁されているマンションの一室で、女上位の会話がかわされている。
「いや! 我慢できない」
「なんでそんなに、我が儘なんだ。いったいどういう躾を受けたんだ」
客観的には、ゲンの受けた躾の方が問題だと思えるのだが。
「ゲンちゃんお願いよ」
身体に密着したニットをくねらせる様にして、色っぽく摩美は話しかける。
「わッ、分かったよ。もう逃げ出すことは無いだろうから手錠は外すよ・・・・・風呂は出て左手にある」
そう言うと、ゲンは手錠を外しに掛かった。
「着替えは?」
「着替え?」
「下着の着替えは、どこにあるの?」
「そんなもの、あるわけないじゃないか。下着・・・・・替えなくていいだろ」
ゲンの言葉は哀願をおびてきた。
「だめ! 絶対だめ! お湯を浴びたら着替えるの。ゲンちゃん、どういう躾を受けてきたの」
「パンツが汚れたら、裏返しにして・・・・・わッ、分かったよ。用意すればいいんだろ、用意すれば・・・・・」
「そうよ、ありがとう」
ゲンは改めて摩美に手錠を掛け直し、部屋をでようとした。
「ゲンちゃん何処へいくの?」
「女の下着なんかここにあるわけ無いだろ。買いにいくんだよ」
「ちょっと聞いていい?」
「なんだよ」
「ゲンちゃん、私のサイズ知ってるの?」
「・・・・・」
ゲンが打ちひしがれたように、うつむいてマンションをでた。頭を振りながらスーパーに向かって歩いて行く。摩美のことを、生まれて初めて出会った種類の人類だとでも思っているのだろうか。しかし、ゲンが振り回されるのはまだまだ序の口であった。
|