ルッルルルー、ルッルルルー。
電話機が鳴った。待っていた瞬間だ。北御門家の居間には緊張がはしった。
麗子が、受話器を取ろうとするのを、刑事が制した。彼は機械にスイッチを入れると麗子に向かって頷いた。
麗子は映画の中の貴婦人のように、エレガントに受話器に手を延ばした。まるで、夜会服のような、光沢のあるサテンの生地で作られた、ロングドレスを身にまとい、憂いを秘めた美貌で受話器を取った。
「はい、北御門でございます」
「簡単に言う。よく聞いておけ」
麗子が片手をそっと挙げた。犯人からだという合図だ。まなじりを決して見守る由美は、鉢巻きを締め、レオタードにプロテクターの姿のままである。
『摩美! 摩美、摩美は無事なの』
と、普通は答えるはずになっている。あらゆるテレビドラマがそうである。電話の相手、すなわちゲンもそれを期待しているはずだ。しかし、期待は完全に裏切られた。麗子はなにも答えないのだ。刑事が答えろと手で合図する。
「きッ、聞こえてるのか! なんとか言え」
「どういう、躾を受けられたのかしら。他人の家に電話を入れるときはまず名乗るのが礼儀でしょ」
一座の皆は、腰を抜かさんばかりに驚いた。いっけん乱暴この上もない麗子の対応は、実は十分に計算し尽くされたものであった。集中した麗子の頭脳は、最初の言葉を聞いただけで、相手の年齢、性格、事件に対する覚悟の程を、心理学者そこのけの感性で掴んでしまったのだ。
「どうなさったの、わたくしは、摩美さんの姉、麗子ですわ」
「・・・・・げッ、ゲンだ・・・・・」
「ゲンさんね、おっしゃりたいことがおありでしょ。どうぞ、おっしゃって」
「かッ、金を用意しろ。受け取る方法はまた後で連絡する」
「ゲンさん、落ち着いてね。金を用意しろでは分からないわ、いくら用意すればいいの」 ゴソゴソと、電話の向こうでメモでも拡げるような音がする。
「いッ、一億だ!」
「ございません。お金は銀行預金も総ざらえして百万ほどしかないわ」
「ひッ、百万。そんな金どこにあるんだ!」
百万と言う言葉に驚愕したらしく、貴彦が場の状況もふまえず、我を忘れて叫んだ。
「ゲンさん、聞こえたでしょ。今叫んだのは、この家の家長、兄の貴彦なの。でも心配しないでね、わたくし、云ったことには責任もちますから」
「うッ、嘘だ! 青葉台のあんな良い場所に、広い土地があるじゃないか」
「あら! ちゃんと下調べはしたのね、偉いわ」
「ばッ、バカにすんな。兄貴は頭が切れるんだぞ。あッ、やべえ、早く電話を切らないと逆探知されるんだった」
「兄貴と仰るかたもバカね。警察と同じ程度だわ」
渋谷署の四人の刑事は色めき立った。声を出すわけにはいかないが、真っ赤な顔で怒りをあらわにする。
「どうせ何処かで手に入れた、使い捨ての携帯電話でしょ。話し終えれば壊せば良いじゃない。警察は手の打ちようがないわよ」
「そッ、そうだな」
「いい、ゲンさんよく聞いてね。まず、北御門家の土地建物の登記簿謄本を取るのよ。所有権者がのっているわ、抵当権が設定されていたらそれも乗っているから確認してね、次は路線価格を調べるの」
「いっていることがよく分からん」
「だったら、もう一度云うから、よく聞いてメモするのよ」
「ちッ、ちょっと待って・・・・・参ったなまったく、あとで高橋の兄貴に聞かなくっちゃ解りゃしない・・・・・よしいいぞ」
渋谷署の刑事連中は心底あきれている。警察の交渉役のプロでもなかなかこううまくいくもんじゃない。なんのことはない、電話の相手と、兄貴という人物の名前をまんまと聞き出したのだ。
「いい、ちゃんと書いたの。そうしたら、いくら搾り取れるか、それには、どのくらい時間が掛かるかが解るから」
「営利誘拐も結構たいへんなんだな?」
「営利誘拐、その言葉間違いじゃないけど、マスコミの影響大ね。今度の場合は正確に言うと、身の代金目的略取誘拐になるのよ、ついでに云うと、刑期は三年以上の懲役になっているわ」
「そッ、そんなに重いのか?」
「人質に危害を加えれば、まず無期懲役でしょうね」
「ちッ、ちょっと待ってくれ。兄貴はそんなこと云わなかったぞ」
「私が、嘘をいっていると思う。嘘だと思うなら図書館でしらべたら」
「何処にあるんだ」
「今、どこにいるの?」
「神田駅の近くだ」
「そこだったら、日比谷の都立図書館が近いわの、行き方はね・・・・・だけど、今まで話していて、わたくしが嘘を言ってないことは解るわよね。だったらわざわざ行くこともないわ。あなた、若いんでしょ将来の事も考えなくっちゃね」
「うん・・・・・」
「摩美さん、あの子我が儘でしょ?」
「そッ、そうなんだよ。参ってしまうよ」
「弱音を吐いちゃ駄目! しっかりしないと無期懲役になってしまうわよ」
「どッ、どうすりゃいいんだ?」
「よく考えて、また電話してね。相談にのってあげるから」
「わッ、解った。いま、摩美に頼まれた買い物の途中なんだ。よく考えてまた後で電話するよ」
「買い物の途中なの、早く行かなくっちゃあの子に叱られるわよ。わたくしは、あなたが後で電話してくるのを待っていてあげるから。しっかりなさい、ゲンさん!」
「うん・・・・・必ず、電話するから待っててくれよ!」
電話が切れた。渋谷署の四人の刑事はポカンと口を開けたままだ。
電話の相手と、背後の人物の名前だけでなく、電話を掛けた場所の特定、そこから、気軽に買い物に行ける場所に人質が監禁されており、無事であることを確認し、このままだと自首させかねない勢いである。
「おい、熊田。思い出したぞ、神田にある山本総業に心当たりはないか」
やばい! 貴彦の眼が半眼になり掛かっている。
「先輩、暴力団の息のかかった、いわゆる企業舎弟と言うやつですよ。何か心当たりでもあるんですか」
貴彦は名刺入れから、黙って名刺を取り出し熊田に見せた。そこには且R本総業、高橋将人となっていた。
「なんです、ああ、あのチンピラの高橋か」
「熊田、その関係で郷田という男に心当たりはないか?」
「石田組という、そこそこの組織が淺草にあります。そこの構成員に郷田というなかなかやり手の男がいる。そして、山本総業はその配下です」
「奴らだ!」
貴彦は確信を持ったらしい。熊田の話を聞くやいなや、スーツにネクタイのビジネススタイルのままの貴彦が家を飛び出し、ガレージに向かった。
すぐ後を、由美が追いかけようとしたとき、刑事から慌てた声が掛かった。
「そのスタイルでは・・・・・」
「何かまずいの!」
「股の、切れ込みが・・・・・猥褻物陳列罪・・・・・」
刑事が言い終わらぬうちに、由美のトンファーが手を離れ、刑事の眉間に命中した。
「スケベー!」
倒れた刑事に向かってそう言い放つと、由美は貴彦の後を追った。ちょうどエンジンをかけ、まさに発信しようとしたポンコツ間近のカローラの助手席に、由美は飛び込んだ。 貴彦は、何も言わずに、カローラを分解しそうな音をたてて発信させた。貴彦の半眼を確認すると、由美はシートベルトをしっかり締めた。通常の貴彦はいささか度をこした、安全運転この上もない模範ドライバーである。制限速度をオーバーすることはまずない。しかし、ひとたび半眼になるや、運転は豹変する。アクセルは踏みっぱなし、信号は守らない。それでいて、事故を起こさない超人に変身するのだ。
「ただいまー」
「あッ、おかえんなさーい!」
摩美は、新妻のような甘い声で、ゲンを迎えた。
「下着と、食べ物を買ってきたぞ」
「なに? なに?」
「シュークリームとプリンだ」
「わーッ、ゲン、大好き! 気が利くのね」
「うん、まーな」
食い物には、目のないというか、それのみが生き甲斐にも見える摩美であった。
「えーと、プリンが二つと、シュークリームが四つでしょ・・・・・あッ、駄目。それは、摩美のものよ」
「二つづつ、でいいじゃないか」
「駄目、大きさが微妙に違うの」
「もーッ、いいよ、俺は一つで」
「えッ、本当! ゲン大好き!」
誘拐され、手錠で拘束されたまま、摩美はままごと遊びをやっている。これが演技ならば、それなりに理解出来るのであるが、本心だから恐ろしい。
楽しそうで、幸せの絶頂にあったかに見えた摩美の笑顔が突然、凍り付いた。
「こッ、これは何よ!」
「しッ、ショーツだろ」
「あなた、私のことバカにしてない。こんなショーツ、五十過ぎのおばさんが穿くものよ。このブラも・・・・・絶望」
摩美の眼は怒りに震えている。
「そんなこと言ったて。スーパーの店員にじろじろ見られるし、恥ずかしいんだぞ」
「恥ずかしい? あなたが恥ずかしいのと、私がこんなものを身につけるのと、どちらが無惨? 私にとっては地獄の責め苦に等しいのよ」
地獄の責め苦を味わっているのは、どう見てもゲンの方である。摩美の剣幕にたじろぐばかりだ。
「だめ! もう一度買ってらっしゃい。最寄りのスーパーなんて駄目。デパートの綺麗な下着売り場にいくの」
「でも、デパートの下着売り場は、高いんだろ。そんな金ないよ」
「ゲンちゃん、あなたサラ金のカード持っているわよね」
「六枚ほどもっているよ」
「その中の、貸し出し限度額に余裕の有るのから、そーね三万円もあれば、足りるかしら。それをひきだすのよ」
「さッ、三万円もするのか?」
「あたりまえじゃない。ゲンちゃん、この私が身につけるのよ」
深刻な多重債務者がここにいる。もうこれでサラ金から借りることは出来なくなりそうだ。あとは闇金融に行くしか道は残されていない。
「ゲンちゃんに、いっとくけど、こういう諺があるの知っている? 『女は抱くもの、金は借りるもの』いい諺でしょ」
「あッ、ちょっと待って。何を買うのか分かっているの?」
お使いに出ようとした、ゲンに摩美が声を掛けた。
「店員に聞けば、いいんだろ。サイズを言って、綺麗で魅力的な若い女性が着るんだと言えば選んでくれるさ」
ゲンはかなり気を遣い、うまく言えたと思っている。
「それなら、まあいいけど。ブラはヌーブラにしてね」
「ぬッ、ヌーブラってなんだい?」
「えッ、あなた知らないの? 今までどんな女性とお付き合いしたの? 紐の無いブラジャーのことよ」
紐の無いブラジャー? ゲンは首をかしげている。どう考えても想像できないらしい。「じれったいわね。待ちなさいね、見せてあげるから」
そう言うと、摩美は薄手のニットの裾を、不自由な両手で持ちあげ脱ぎ始めた。
「やッ、やめてくれ! 店員に聞くから」
ゲンの脳裏に、麗子の言った言葉がこだまする。『無期懲役、無期懲役・・・・・』自分を制御できなくなりそうで、身の破滅が大きく口を開けたようで、恐怖とともに彼は、マンションを出て行こうとした。
「鍵は、忘れずにしっかり掛けといてね。暴漢が入ってきて、私の操が奪われるかもしれないから」
監禁されているのはいったい誰なんだ。ゲンがその言葉に従うように、しっかり鍵を掛けたのは間違いないはずだった。
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