国道246を、半蔵門方面に向かって、疾走する車があった。通称、青山通りという。
塗料は剥げ落ち、バンパーの取れ掛かった、ポンコツ寸前のカローラが、けたたましいエンジン音と車体の悲鳴に似た軋み音をあげながら、外見に似合わず、飛ぶように走っていく。
助手席の由美も、さすがに手に汗を握っていた。家の門を出て以来、貴彦はアクセルを踏みっぱなしの速度違反、信号無視のあげくに、反対車線もお構いなしで走る。激突寸前の対向車をミリ単位で交わしていく。縫うように走る、いや、飛ぶとはこのことだろう。
交番の巡査が口をあんぐりと開け、呆然と見送る。
貴彦の動体視力と反射神経は、常人の域を遙かに超えた、超人の域に達している。
由美も、手に汗を握っているものの、まなじりをけっして、横転する車、歩道に乗り上げる車に注視する。怯えはみじんも感じられない。戦闘態勢のモチベーションに入っているのだろう。彼女の胆力もまた、常人の域を遙かに超えている。
青山一丁目の交差点の近く。コンビニの駐車場に、金髪、鼻ピアスの若い男女が五〜六人たむろしていた。何か刺激を求めている、どこにでもいる若者だ。
「あッ、ありゃなんだ!」
「あぶねー! ぶつかる」
「ふーッ、何とか交わしたぞ」
「こッ、今度はこっちに突っ込んでくるぞ」
「えッ、ひえー!」
若者達は慌てて、コンビニの店内に逃げ込んだ。怯える若者達の目の前で、カローラが急旋回すると、ケツを振りながら、けたたましい爆音を残して走り去った。
「ありゃなんだ、暴走なんて生やさしいものじゃないぞ」
「死にたいのよ。絶対、狂ってる・・・・・」
「助手席の女の顔をみた?」
「おお、見たとも。綺麗で色っぺー身なりだったが、あの鉢巻きはなんだ? 眼も血走ってたぞ」
「頭がおかしいのよ!」
一方、北御門家には、眼を血走れせた熊がいた。
「おい、急げ! 二人は俺に付いてこい。後の二人はここにいろ」
熊田が短い髪を逆立て、吠えまくる。
「どこに行くんですか?」
「山本総業は、今からじゃ間に合わん。行く先は、淺草の石田組の事務所だ」
「最寄りの警察に向かわせれば、いいんじゃないですか?」
そう言った刑事の頬に、熊田の張り手が飛んだ。ビンタなどという生やさしいものではない。刑事の身体は二メートルも吹っ飛び、壁に激突した。
「おまえたちは事態の深刻さが、わかっとらん。ヤクザも人間だ、やたらと、殺していい訳じゃない。その場に警官でも居てみろ、何人殉職者が出るか分かったものじゃない。俺が身体を張って止めてみる。自信は無いが他に方法があるか?」
四人の刑事は、右往左往するだけだ。本庁のマル暴のクマの苛立ちがいまいち分からない。かといって、下手に聞きでもしようものなら、殴り倒されるのだ。
その時、場の空気に超然として、紅茶を味わっていた麗子の小さな唇がひらいた。
「わたくしが、参りましょうか?」
穏やかで上品な声が、熊田の胸に突き刺さった。
「止めて下さい。もし、麗子さんに流れ弾でも当たったら。それこそ、先輩と警視庁の血で血を争う闘争になってしまいます」
「あら、おもしろいじゃないの。わたくし、撃たれて死ぬのも興味があるわ」
麗子が身を乗り出そうとする。
「やめてくれ!・・・・・そうだ、れッ、麗子さんさっき、誘拐犯に約束したじゃないですか。相談に乗るから後で電話をくれって!」
「あら、そうだったわね。ゲンちゃんから電話が掛かってくるんだったわ。熊田さん行ってらっしゃい」
そう言うと、何もなかったかのように麗子は、ティーポットに手を延ばした。
一時も早くと、逃げ出すように熊田は部屋を後にした。『まったく、この家の兄妹ときたら・・・・・』彼は、走りながら呟いた。二人の刑事があとをついて行く。
青山一丁目のコンビニの駐車場である。五〜六人の若者がたむろしている。金髪、鼻ピアスのよくいる若者だ。
「おい、またなんかぶっ飛ばしてくるぞ」
「やべー、ぶつかる!」
「何とか交わしたぞ、あッ、ありゃパトカーじゃないか!」
「サイレン鳴らしてるからって、無謀運転はいけないんじゃないの?」
「無謀なんて、ものじゃない。狂ってる・・・・・逃げろ」
若者はコンビニの中に非難した。
「車の中、見た?」
「ああ、後ろに座った熊みたいなのが、運転手の頭をどついて叫んでいたわ」
「おい、帰ろうぜ、今日はなんかやばい気がする」
「うん、そうした方がよさそうね」
JRのガードを抜け、靖国通りを岩本町の交差点を過ぎて暫く行くと、暴走カローラは右折した。さすがの貴彦もスピードを落とした。目的地は近い。
住所を頼りにビルを探す。ナビゲーターは由美がかって出た。彼女には内なる使命感があった。兄より先に山本総業の入居するビルを探し出し、始末を付けねばならない。
由美の眼がとある小さなビルを捉えた。窓ガラスに、且R本総業と直接書かれていた。しかし、由美は知らん顔をしている。少し行ったところで、貴彦に声をかけた。
「兄ちゃん、止めて。ちょと待っててくれる」
そう言うが早いか、由美は車が止まるのも待たずに、歩道に飛び出すと、脇目もふらず駈け出した。黒い魅惑的なレオタードに、ヌンチャクを持ち、背には木刀を差している。街ゆく人々は、何が起こったか分からず唖然としている。
「あッ、そうか。映画のロケだ」
「カメラは望遠で撮っているに違いない。どのビルかな」
勘違いも甚だしいが、由美に取っては好都合だ。今から起こる出来事もそう思ってくれれば言うことはない。
由美は、ビルの入り口に身を躍らせると。暗く細い階段を一気に駆け上がった。山本総業と書かれたドアの前で、呼吸を整えると静かにノブを回した。
部屋の中には、小さなカウンターテーブルがあった。その後ろに、二人の女子事務員と、六人の人相のよくない男が、机の上に足を投げ出す、行儀のよくない格好でたむろしていた。
「高橋さんいらっしゃいます」
ニッコリ笑いながら、由美が声を掛けた。
「ああ、おれが高橋だが、なんだお前は」
「由美でーす」
そう言うなり、由美はカウンターテーブルに飛び乗った。足を拡げ突っ立った由美の姿態に、一同は呆然とした。
ハイレグの黒いレオタードから、すんなり形のよい足が伸びている。襟はあるが袖無しの生地に包まれた上半身には、形のよい胸の隆起がまぶしく眼をひく。
新体操の選手が突然目の前に出現したのだ。
両腕と脛には、黒いプロテクターをつけ、手にはヌンチャクを持ってニッコリ笑っている。
「インポの高橋とはお前か!」
「なにお! 引きずりおろせ!」
一番近くにいた男が、由美の足を掴もうとした瞬間、美しい由美の足が蹴り上がり、正確に男の顎を捉えた。顎を砕かれた男はその場にくずれた。次の男が飛びかかろうとした時、由美は高く舞い上がると、着地する前にヌンチャクを打ち下ろした。樫の木が、男の脳天に鈍い音をたてた。男は悲鳴を上げる暇もなく気絶したらしい。
着地の低い姿勢のまま、由美の肩の木刀が一閃し、側にいた男の膝を砕いた。女子事務員の悲鳴を背に、強靱なバネで飛び上がりざま、片手打ちで次の男の鎖骨を砕く。五番目の男が悲鳴を上げながら、椅子で殴りかかって来たのを捌いた由美は、もう一方の手に持ったヌンチャクを、叩きつけた。それは、正確に男のこめかみを打った。
ものの、十数秒の出来事であった。ある者はうめき声をあげ、気絶してピクリとも動かない男もいた。床は凄惨な様相を呈していた。
「うッ、動くな!」
由美の視界の中で、先ほどから奥でごそごそやっていた。高橋が散弾銃を突きつけた。「手の武器を、捨てろ! 早く!」
由美は両手から武器を落とした。震えながら高橋が近づいてくる。由美の表情には余裕がうかがえる。
「なんなんだ! お前は」
幾分、気を取り直した高橋の表情に、残忍な笑みがこぼれる。
「私は由美」
「そーか、由美さんか。いい身体をしてるじゃないか。後でゆっくりその身体に聞いてやるよ」
そう言うと高橋は、銃口で由美の左乳房をグリリとばかりに押した。
「あんた、素人だね」
そう言うと由美は、ニッコリ微笑んだ。
「なッ、なんだと!」
高橋が言い終わらないうちに、彼の散弾銃は払われ、由美の蹴りが股間を襲った。
グウッ、と呻きをあげ、高橋はその場に悶絶した。
「聞こえないかもしれないけど、教えてあげるね。銃口を突きつけたらその場面で、突きつけた方が負けよ。払われたり、掴まれたりしたら対処できないのよ。人間の反射神経では引き金を引くなど不可能なの。刃物でも同じで突く暇はないの。映画やテレビの見過ぎよ、実際にやってみれば解るわよ」
パチパチ、部屋の隅で拍手が鳴った。
「格好いい!」
「すてきー!」
女子事務員二人の眼が潤んでいる。恋する乙女の瞳になっていた。とにかく、由美は同性にやたらもてるのである。
暫く時間が経過した。由美がソファーに、綺麗な足を投げ出し、女子事務員から茶菓子の接待を受けている。腕と脛のプロテクターを外しくつろいでいた。
「なんて、素敵なの!」
一人の事務員が、由美の二の腕に頬ずりをする。
「虜になってしまったわ!」
もう一人の事務員が、テーブルに投げ出された由美のスラリと延びた足を撫でる。二人の眼は、トロンとして夢見心地だ。由美は慣れてると言いたげに、されるに任せていた。
呻いていた高橋の上体が起きあがった。やっと、ものが言えるほど回復したらしく見える。
そのときだ、ドアでものすごい音がした。鉄製の頑丈なドアの蝶番が引きちぎられ、外に投げ出された埃の中から、貴彦の仁王立ちの姿が出現した。
血走った半眼が、高橋を射た。起きあがったばかりの高橋は、居座って後退りをする。「兄ちゃん、いらっしゃい。そいつは私の獲物よ、手をだしちゃだめ」
そう言いながら、由美は高橋のもとに駆け寄り、ネクタイを掴むと締め上げた。そして、そーと耳打ちをした。
「おとなしく、私の言うことを聞きなさい。兄に捕まれば、命はないわよ」
高橋は、眼をひん剥いたたまま、小さく頷いた。先日の且R尾食品、総務係長の雰囲気とはまったく異なる。魔王が高橋を見下ろしている。
「由美、俺に任せろ」
凄みのある、低い声だった。高橋の身体が小刻みに震え、ズボンの前が濡れだした。恐怖のため、小便を漏らしたらしい。
「兄ちゃん、一寸まって」
由美は、高橋のネクタイを上に引き上げた。グウという音を出しながら、首がねじれる。
「聞きたいことは、解るわね。摩美ちゃんのいる場所はどこ?」
「すッ、須田町のマンション・・・・・」
高橋は完全に降参した。逆らえば本当に殺されると思ったらしい。
「素直でいいわ。命あってのものだねよね」
素直に、高橋は頷いた。
「おい! なんだこりゃ」
ドスの聞いた、釣り鐘を割ったような声が響き渡った。
「あッ、兄貴!」
高橋の眼が力を取り戻した。入ってきたのは、石田組でその名も轟いている、小川だった。頭は鈍いが、腕力だけは三人前という、良くあるタイプである。身長は百九十センチ、体重は百四十キロはあろうかという、とんでもない巨漢だ。熊田を一回り大きくした感じである。
あっけなく勝敗はついた。貴彦がすり足で、小川に近づいたと思った瞬間。「うッ」と喉から声がもれ、巨体は床転がった。
貴彦は全然物足りないらしく、側にあった表面がガラスになっている、スチール製の本棚に手をやると、巨体の上にた倒した。ガラスの砕ける凄まじい音響がした。まだ物足りないらしく、貴彦は大きく飛び上がり、本棚の上に全体重を乗せて着地した。
「ギャー!」という悲鳴とともに、ボキボキという骨の折れる音がした。
「兄ちゃん、気が済んだ?」
「まだまだ、こんなもので気がすむもんか」
高橋は、一時、元気を取り戻し掛けただけに、余計に落ち込んでいった。瞳は奈落の底を蠢いている。
「由美、須田町に行くぞ」
「ちょっと待って、兄ちゃん。すぐ支度をするから」
改めて、プロテクターを着け始めた由美に、二人の女性が甲斐甲斐しく手助けを始めた。「ちょっと、くすぐったいよ」
由美の言葉が、二人の女性には耳に入らないらしい。
「由美さまー・・・・・」
二人の女性の潤んだ瞳は、ピンクのハート型に輝いていた。
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