舗道の人々が、歩みを止めて振り返る。
「車に戻ることもない。このまま歩いて行こう」
そう言う貴彦の左手は、高橋の襟を掴み、彼の靴の踵が地面に着いた状態で引きずっている。ズボンの前を濡らした高橋は、なんとも情けない有り様だ。
「おい、由美。その格好なんとかならんのか」
「でも、これの方が動きやすいんだもの」
ハイレグのレオタードから、格好の良いおしりが、プリンと飛び出て、男どもの淫らな視線が集まる。その都度、貴彦は半眼で睨み付けた。鋭い眼光に中年の男どもは、こそこそと視線を外す。
突然、貴彦の胸ポケットから、携帯電話の着メロが鳴りだした。水戸黄門の主題歌『人生楽ありゃ、苦もあるさ』だ。ついでに言うと、麗子は『軍艦マーチ』、摩美は『乙女の祈り』、由美は『剣の舞』である。
「おッ、麗子か! どうした」
「お兄様、摩美ちゃんは無事よ安心して。犯人は自首するわ」
麗子の説得が功を奏したらしい。摩美が安全だと解った瞬間、貴彦の半眼が、幾分やわらいだ。
「そッ、それは良かった」
「少し、お聞きしたいことがあるの。そちらの具合はどう?」
「どうもこうもないよ、由美が先回りしてみんなをやっつけたおかげで、俺の出番がないんだ」
「そう、良かったわ。思った通り、由美ちゃんが抑えてくれたのね。確認するけど、死人は出てないわね」
「ああッ」
「詳しい話は、あとでいたします。ただ犯人は、神田警察署ではなく、青葉台の我が家に、摩美ちゃんと一緒に向かっているの」
「何故? 我が家なんだ!」
「誘拐事件は無かったことにするの」
「えッ、それってどうゆうことなんだ?」
「帰ってらしたら、詳しく説明するわ。だから、今から石田組に行くんでしょけど、暴力は程々にしてね」
「ああ、わかったよ・・・・・」
「姉ちゃん、何だって?」
「摩美は無事だよ、犯人は自首するらしい」
「やったー、さすが姉ちゃん!」
由美は、ヌンチャクを振り回して喜んだ。危なっかしいこと、この上もない。
「由美、マンションに行くのはやめにしよう。浅草の石田組にいこう」
「やったー! で、此奴どうする?」
「ここら辺に、ほっぽいとこう」
貴彦の言葉を小耳に挟んだ、高橋の眼に生気が蘇った。しかし、安心するのはまだ早かった。
「行きがけの駄賃よね」
由美はそう言うと、また股間を蹴り上げようと思ったが、小便で濡れているので躊躇し、脇腹を蹴った。
鈍い、骨が折れる音がした。高橋は恥ずかしげも無く、泣きながら舗道を転げ回った。
半時ほど前のことである。浅草の石田組事務所前に、けたたましいサイレンを鳴らしてパトカーが止まった。代紋を掲げた入り口から、若い者が二人血相をかえて飛び出した。
警察のパトカーが、サイレンを鳴らしながらヤクザの事務所に乗り込むことは、まずあり得ないことだった。
後部座席から、人相の悪い大男がヌーと身を乗り出した。
「石田は居るか」
組長を呼び捨てである。
「あッ、クマ・・・・・熊田刑事!」
「どけ!」
熊田と刑事が二人、若い者をなぎ払うようにして入り口に向かう。
「まッ、待ってください!」
熊田は気にも掛けずに入り口を開けた。
「石田は居るか!」
七〜八人の男の眼が、入り口に釘付けになった。
「クッ、クマー!」
男たちは、椅子を倒して立ち上がった。年輩の人相の悪い男が慌てて熊田のところにやってくる。
「熊田の旦那、なッ何ごとですか。まッ、まあ取りあえずこちらへ」
と言いながら、男は奧の応接室に、三人の刑事を案内した。階段を二階に走り出した男もいる。組長に御注進に及ぶのか、薬か武器を隠すのかそこの所は解らない。
「お茶でも、お出ししないか!」
年輩の男は誰ともなく、怒鳴りつける。
「茶などいいから、早く石田を呼んで来い。組の一大事だ!」
「熊田の旦那、何ごとですか。組の一大事とは」
組長の石田が、さすがに異変を感じたらしく、強張った顔を熊田の前に出した。五十過ぎの、白髪の交じった一見紳士風の男である。道で会ってもまずヤクザだとは思わないだろう。ヤクザでも幹部クラスになると、この手の者が多い。一見して、サラリーマンの役員、部長としか思えない。ただし、関西は別である。
「お前の所の、郷田、今どこにいる」
「野暮用で出かけています。もうすぐ帰って来ると思います」
「奴の、命が危ない。お前の命もな」
「なッ、何と! どこの組のカチコミですか」
「組関係じゃない。相手は素人だ」
「素人・・・・・なんという組織ですか? もしや、外国人? 何十人ですか?」
「一人だ!」
「一人・・・・・」
石田組長は頭を振った。訳が分からないとでも思ったのだろう。
「一人でも、大変な男だ。そーだな・・・・・ゴルゴサーティーンのような男かな」
「では、国際的な殺し屋で?」
「いや、中小企業のサラリーマンだ」
「???」
熊田の発言は、石田組長の想像力の範囲を遙かにこえていた。脳内の回線がショートした組長は、やたらとタバコを吸い出した。火をつける若い者が右往左往する。
熊田の言葉が理解不能なのは、組長だけではない。同席する、二人の刑事も眼を白黒させている。
「なに、お前えたちまで不思議な顔をしてるんだ。俺たちがここに来たのは、少しでも死者を少なくするためだ。ヤクザでも人の子だ、蚊やノミのように潰されては、全体の奉仕者、公務員としての職業倫理が許さない」
先月の勉強会で聞き覚えた、利いた風なことを熊田が言った。
「不肖、熊田一雄。今回の件については、命を掛けている。お前たちも公務員の端くれなら覚悟しろ!」
一代でそこそこの組織を作り上げた、いっぱしの根性を持った石田だったが、タバコを持つ指が小刻みに震えている。
事務所の前で、車が急ブレーキを掛ける音がした。事務所内の全員の顔に緊張が走った。表を警戒していた、若い者が飛び込んできた。
「きッ、来ました! 仰る通り、中小企業のサラリーマン風の男が『郷田はおるか』と言いました」
緊張感は絶頂に達した。石田はそーと、熊田の巨体の後ろに身を隠そうとする。
誰かが叫んだ。
「消化器の用意だ! ガソリンかもしれん!」
息の詰まりそうな緊張感は、破裂しそうなゴム風船ほどに大きくなった。
「こんにちわー、おじゃまします」
風船の空気は一気に抜けた。入り口の扉から、爽やかな風と共に可愛い女の子が入ってきたのだ。
刑事をのぞいた、ヤクザの眼が見開かれ、口を開けたまま閉じるのを忘れている。きわめてスタイルの良い、可愛い女の子には違いないが、一体なんなんだ。黒いハイレグのレオタードを身につけ、背には木刀を差し、手にはヌンチャクを持っている。頭には、墨痕鮮やかに「七生報国」と書かれた鉢巻きをしているではないか。
「おおッ、由美ちゃん! 山本総業はどうだった」
熊田が声を掛けた。
「死人は出てないわね。私が兄ちゃんの先回りして、やっつけてしまったから。まあ、みなさん全治六ヶ月と言うところかしら」
「そりゃ良かった」
ヤクザどもの眼は点になっている。みんなが全治六ヶ月? この女の子がやった? との疑問に取り付かれているらしい。
「あッ、そうだ犯人自首して。兄ちゃん落ち着いたよ」
「そうか、そりゃ良かった」
熊田はホッとした声を出した。彼がホッとしたのは、犯人自首が原因か? それとも貴彦が落ち着いたからか? おそらく後者に違いない。
「おじゃまします」
貴彦が入ってきた。声に凄みはまだあるが、半眼ではない。由美の言うとおりかなり落ち着いて見える。
「先輩! お待ちしておりました」
「おお、熊田。どうしてここにいるんだ」
「良いじゃないですか先輩、まあ、こちらへどうぞ」
熊田は、貴彦と由美を応接室に案内した。マル暴のクマといえば、ヤクザは縮み上がる存在である。その恐怖のクマがこうまで下手に出る光景は、この場に居たヤクザには信じられないことであった。
熊田に石田組長を紹介された貴彦と由美は、応接室の長椅子に並んで腰を下ろした。向かいには、石田組長と熊田が腰をおろす。二人の刑事とヤクザが二人、付録のように立ったまま控えている。
「石田さん、お宅の組は誘拐を生業としているのですか」
「北御門さん、とんでもない私らはまっとうなヤクザです。誘拐を生業とするのは、あこぎな外国人グループですよ」
「では、お宅の構成員の方で、誘拐をしたものがいたら、始末してかまいませんね」
「ええ、もとろんですとも」
答えながら石田は、違和感を感じているようだ。『堅気がヤクザを始末する?』という疑問でも抱いているのだろう。
「先輩、摩美ちゃんも無事だったことだし、ここは穏やかに御願いしますよ」
客観的に見ればこれまたおかしい。マル暴のデカが堅気に対していう言葉か!
「兄ちゃん、私もそう思うよ」
石田は言葉に窮していた。ヤクザが素人に向かって穏やかに御願いしますよ、という言葉は何処を探しても出て来るはずがない。
「郷田さんが帰って来られました」
「おお、こっちへ来るように言え」
若い者の注進に石田が答えた。
「失礼します。あッ、こりゃ熊田の旦那ごぶさたしております」
「おお、郷田か、ここへ座れよ」
そう言うと、熊田は席を譲った。
郷田は由美を見て驚いた。なんでこんな格好をした女がここにいるのか理解できないという顔をした。貴彦を見てさらに驚いたらしいが、とぼけている。
「郷田さん、私を覚えていますよね」
貴彦の眼が冷たく底光りした。
「たしか、且R尾食品の・・・・・」
「山本総業の高橋さんご存じですよね」
「ああ、高橋ですか・・・・・」
その言葉が終わらないうちに、貴彦の腕がスーと延び、郷田の喉を親指と人差し指が掴んだ。初動がまったく解らない動きの為、普通の人間は避けることが出来ない。
「あッ!」
声を上げたのは、石田であった。熊田は肩をすくめる。由美は頬杖を付いて、しかたがないという顔をした。
貴彦にまったく戸惑いは見られない。そのままギュッと指に力を入れた。グキッという嫌な音がした。郷田の血走った眼はカッと見開かれ、口からは泡が流れ、そのうち血になった。
貴彦が指をはなすと、郷田はその場に崩れ落ちた。
「声帯を潰すだけで勘弁してやるよ」
貴彦が冷たく言い放った。彼は手加減したのである。一時間前であったなら、確実に気管を潰し、絶命していたところであった。
「兄ちゃん、用が済んだから帰ろうよ」
「うん、そうしようか。熊田、先に行くからな」
そう言い残すと、呆然として言葉も出ないヤクザの間を、サラリーマンと新体操の選手が出て行く。
見送るヤクザの視線は、黒いレオタードと白い肌の、魅惑的なコントラストをかもしだす、由美のヒップに集まるばかりであった。
|