クーポン券指定の旅館は、海岸通りぞいのお宮の松からあまり離れていない一等地にあった。熱海駅から下り坂を歩いて十分ぐらいだ。山田旅館という名から想像していたのとは大違い、十階建ての本館の他に別館もある偉容を誇る大旅館であった。
入り口の大広間は、広壮だが照明が暗い。広い土産品売り場は、シーツがかぶせられ営業をしてないようだった。
貧相な五十がらみのフロントマンが受付をする。生活に疲れたような仲居さんが、部屋に案内をし、挨拶もそこそこに引き上げてしまった。
「兄ちゃん、この旅館なんだか元気がないね」
案内された四階の一室で、由美が元気なくいった。気持ちが落ち込むのは空気伝染するらしい。
「そうだな、規模の割には人も少ないし、廊下の電気も暗い」
「電気代を節約しているのかしら」
「料理は大丈夫かしら?」
摩美は食い物に尽きるようだ。
「熱海は湯どころだし、こういう旅館のほうが落ち着けるぞ。兄妹ゆっくり話しもできるしな」
言い訳のように貴彦が呟いた。
「由美ちゃん、夕食まで時間があるし街を見学しない。フルーツパフェも食べたいし」
摩美は全然貴彦の話しを聞いていない。
「今食べたら、夕食が美味しくないぞ」
「あら、食事は何時どんな所で、何を食べても美味しいに決まってるじゃない」
確かに摩美の言うとおりだ。ただし摩美に関しては、という条件を付けねばならない。
貴彦の気持ちを無視して、結局、二人は散歩に出かけた。貴彦は寂しく旅館に残り温泉に入りゆっくりすることにした。
取り残された貴彦が窓のカーテンを開くと、目の前に海が拡がっていた。夕日に照り返された風景はあまりに美しく、景色に感動することのない貴彦をして、思わずため息を吐かせた。
「浴場は何処なんだ?」
貴彦が、タオルを手にウロウロしている。さっきから随分歩き回ったが浴場を見つけることが出来ないらしい。大浴場はあるが、今日は使用してないと聞いていた。場所を聞こうにも従業員も見あたらない。ドンドンおかしな所へ迷い込んでいった。温泉旅館の廊下は迷路のようになっているものだが、案の定ここもそうであった。
最初は気のせいかと思ったが、歩くにしたがって、ハッキリ聞こえてきた。暗い廊下の端から、シクシク泣いている女の声がするのだ。間違いない! 気になった貴彦はそーと足を忍ばせ近づいた。
部屋の中では、三十代初めと見える男女が帳面を見ながら泣いている。着物の柄から女は女将であろう。
「直樹さん、もうどうしようもないわ」
「多美子、ごめんよ俺のせいでこんなことになってしまって」
「あなたのせいじゃないわ、子供が出来なかったのは今となれば良かったわ」
「死んでくれるか」
「はい、お供致します」
こっそり聞いていた貴彦が、たまらず部屋に飛び込んだ。
「バカなことを考えるんじゃない! 死ぬなら頼むから二日後にしてくれ!」
「えッ、あなたは!」
男が口を開けたまま答えた。
「何年ぶりかの家族旅行なんだ、中止になんかしないでくれよ! バッグも買ったんだぞ、
四十万円もする」
「はーッ?」
女も口を開けたまま閉じることも出来ない。唖然としたおかげで、少なくとも泣きやんだようではあるが。
事の成り行きじょうか、家族旅行の中止が怖いのか、貴彦は気の弱そうな社長と、粋な女将の話を聞くはめになってしまった。
四階の海の見える部屋に移った三人は、夕日を浴びながら電気も点けずに話し込んでいた。
「そうか、山田さんの親父さんも大した玉だったんだな」
「はい、恥ずかしいことですが」
若社長、直樹が俯きながら説明する。
掻い摘んで言えば、先代社長、直樹の父親、大樹は大変なやり手であった。土地の悪徳政治家と組んで利権を漁り、温泉組合を牛耳っていた。さらに、出入りの業者など弱い物から絞れるだけ搾り取って、熱海でも有数の旅館を築き上げたのだった。
そして、五年前三人の妾を残し突然世を去ったのだ。跡を継いだ一人息子の直樹は、まず残された妾の始末から始めねばならなかった。以後は苦労の連続、新婚であった二人はなんとか、手を取り合って今日までやって来たのだった。
「自業自得と言えばそれまでですが、まずひどい眼にあっていた魚市場の仲卸しが、魚を回してくれなくなりました。次は、青果市場、花市場と後を続きました」
「親父さんの後を継いだのなら、地盤も引き継いでいるだろ。悪徳政治家にでも頼めばいいじゃないか」
「直樹さんは、お父様のやり方を嫌っておられて、まっとうにやるんだと一所懸命にやりました。毎日魚市場に頭を下げにいきました。しかし、手を切った地回りから逆に妨害を受ける始末です。そして、決定的だったのは旅行業者が手を引いたことでした。無理もありません。美味しい魚が手に入らないのですから」
女将はハンカチで眼をぬぐいながら話した。
「バカだな、あんたも。しかし、ほっとく訳にもいかないし、何とか対策を考えてみよう。とりあえずの問題はなんですか?」
貴彦は乗り出す決心をした。義を見てせざるは勇無きなりと言うわけか。あまり勇があるとも思えないが。
「今日、ヤクザが取り立てに来ます」
如何にも怖そうに直樹が行った。
「ヤクザか、まあその問題は良いとして次は何です」
「えッ、どうしていいんです?」
「ヤクザは由美に任せておけばいいから」
「由美?」
「ああ、高校一年の妹だ」
「妹? 女子高校生ですか?」
社長も女将も首をひねるばかりだ。
貴彦の頭の中では、ヤクザの取り立てはとっくに片づいた問題らしく、ろくに返事もしない。どうやら、貴彦はヤクザとは暴力でかたをつけるらしい。素人が考えることか!
「そうか、こんな経営数字なら事業の継続は無理ですね。破産したほうが楽ですよ。見切り千両という言葉もある。東京にでも出て二人でやり直せば良いじゃないですか。破産、破産、それで解決だ」
「それが出来ないんです。なァー、多美子」
「はい、人間としてそれは出来ません。助けて頂いた、何人もの同業者の連帯保証人も破産になってしまいます」
「多美子の言うとおりです。死んでお詫びをするしかありません。二人の生命保険料で少しでも穴埋めが出来るだろうと思いまして」
貴彦は少し考え込んだ。頭の中で数字が目まぐるしく動く。人脈が浮かんでくる。
「うーん、再建の方法がないことはないかな・・・・・」
「えッ、本当ですか?」
「うん、市場関係はなんとかなりそうだ」
直樹と多美子は手を取り合った。
「ね、由美ちゃん。言ったとおりあるでしょ」
「ホントだ、こんな温泉街の真ん中に、ファミリーレストランがあるのね」
「美味しいよね!」
やけに色っぽい女性と、颯爽としたセーラー服の女の子が、レストランのテーブルにつき、フルーツパフェーを食べている。むろん、摩美と由美の姉妹であった。
「摩美ちゃん、あの旅館少し変だと思わない?」
「どうして?」
摩美は食べ物とおしゃれ以外には興味の対象ではないらしい。
「私たち以外、お客の顔を見なかった気がするんだけど」
「そういえば、フロントの男性と部屋に案内してくれた仲居さん以外、従業員も見かけなかったよね」
「摩美ちゃん、変でしょ」
「そーね。今夜、事件が起こるかもよ。眠っているとき、男が二人、私の部屋に忍び込んできて、魅惑的な私を犯そうとするの・・・・・あわやというところで隣に眠っている由美ちゃんが物音に気づいて、あっと言う間に侵入者をのばしてしまうの。隣の部屋のお兄ちゃんは、まったく気づかずに眠り続けている・・・・・」
摩美はあらぬ事を想像し、その世界に浮遊しだした。
「ちょっと、あんたたち静かにしてよ。せっかく摩美ちゃんが良い気分で夢見てるんだから、邪魔しないでよ」
先ほどから、傍若無人の大声を挙げている四人の若者に、我慢ならぬとばかりに由美が叱りつけた。
「おッ、かわいい顔して、言うじゃないか!」
「セーラー服のお姉ちゃん、可愛がってあげようか」
「ちょっと、表に出ませんか?」
若者は口々に勝手なことを言い始めた。気配を察した、従業員が飛んできて若者に何か説得を始めた。どういう話が付いたかは分からないが、若者達はふてくされながら、由美を睨み店を出て行った。
マネージャーらしき男が席を廻り、わびを入れているようだった。二人の席にもやって来た。
「すみませんっでした。彼らは土地の札付きの悪です。何かと問題を起こし困ったものです。観光客の方のようですね、ホテルまで従業員を送らせますので遠慮なく申しつけください」
ファミレスには似合わない、丁寧なマネージャーであった。
「ねえ、ねえ、由美ちゃん。あのマネージャー、ちょっと素敵だと思わない?」
「そうかしら」
「そうよ、ひょっとしてオーナーだったりして」
「摩美ちゃんは、医者か弁護士じゃなかったの」
「そうだけど、お金持ちもいいわよね」
送ってくれるという店の好意をことわり、摩美と由美は暮れなずむ海岸通りを旅館へと向かっていた。
「由美ちゃん、あいつら待ち伏せしてると思う?」
「間違いないでしょうね。暇そうだったもの」
「うわーッ、たのしみ!」
「あそこの木の陰にいるわよ」
海岸通りの海側は芝生が植えられ、木陰を作っている。街灯はあるが、人影はほとんどない。
「ねーちゃん、ちょっと待ちなよ。先ほどは恥をかかせてくれたよな」
「ちょっと遊びに行こうよ」
「おれ、セーラー服!」
「おれ、色っぽいねーちゃんのほう!」
四人の若者は、いやらしい目つきで、二人の身体をねめつける。
「どきなさい。クズども」
由美が一歩前に出ると、若者は、一瞬たじろいだ。摩美は腕を組んで微笑んでいる。
「なんだとー、ヤンキーのマサを舐めるのか!」
「舐めやしないけど、ダサイんだよ! 渋谷じゃね、チィーマーは消滅し、ヤンキーは地方に流れたのよ。こんな所で細々生きていた訳ね」
「やろー!」
最初に殴りかかってきた男は、由美のルーズソックスで股間を蹴り上げられた。そのまま、一歩踏み込んだ由美は次の男のテンプルに背刀を打ち込んだ。左手の底掌は、もう一人の男の顎を突き上げた。三秒も掛からず、路上には三人が倒れ呻いている。
「次は、マサさんの番よね」
「ま、待て!」
「あら、友だち甲斐がないのね」
言い終わらないうちに、由美の右手が延び、中高一本拳が正確に水月を突いた。マサはその場に崩れ落ち意識を失ってしまったらしい。
「由美ちゃんすてき!」
「物足りないわよ」
美人姉妹は、男の呻き声を背に何もなかったように、海岸通りを旅館に向かって歩いていった。
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