「ただいま、お兄ちゃんどうしたの? こちらさんは」
部屋に入るなり摩美が言った。それもそのはず、貴彦の前には見知らぬ顔が二人、神妙に正座している。
「お帰り、紹介するよ、こちらさんは旅館の社長、山田直樹さんと、女将の多美子さんだ」
テーブルの上には、書類や帳面が拡げられ、急須や湯飲みは畳の上に置かれていた。
「こちらが妹の摩美、こちらが由美です」
「こんにちわ」
姉妹は声をそろえて挨拶をした。
「お世話になります。旅行中なのにすみませんね」
品の良い女将が、畳に手をついて挨拶を返す。後ろで社長も頭を下げた。
摩美と由美は顔を見合わせた。旅館で女将に『お世話になります』と挨拶される事態がよく飲み込めないようだ。
貴彦は今までの経緯をかいつまんで二人に話した。
「じゃあ、お兄ちゃん、一肌脱ごうってわけね。格好いい!」
摩美はなんにでも好奇心を発揮する。
「そんな、言い方をするもんじゃない。こちらさんは命がけなんだぞ」
「ごめんなさい」
「兄ちゃん、海岸通りを歩いてみたんだけど、ぽつんぽつんと、廃業してるホテルをみかけたよ」
そう言うと、由美が視線を兄から女将に移した。
「そうなんですよ、熱海も不景気で廃業する旅館が後を絶ちません。観光協会も組合も一所懸命がんばってるんですけど」
「女将さん、宿泊客も従業員も見かけないんだけど・・・・・」
「今日明日、金、土曜日のお客さんは、あなた方ご兄妹ともう一組ご老人のご夫婦だけでございます」
「えーッ、こんな大きな旅館で、しかも休日前でしょ!」
由美は眼を見開き絶句した。
「従業員の男は、フロントに一人、板前、清掃の三人。あと仲居が四人だけです」
鉄筋コンクリート製の十階建ての本館に、別館もそなえた大旅館がこんな事態とは、ありうることだろうか。客と従業員だけ考えれば、民宿でも上位クラスとはとてもいえない。
それにしても、貴彦は腑に落ちないことがある。どうして、且R尾食品がこんな旅館のクーポン券を手に入れたのであろうか。そもそも、クーポン券が存在すること自体が信じられないことであった。
「し、社長、古川金融が来ました」
五十過ぎの、貧相なフロントマンが部屋に駆け込んできた。
社長の恐怖の種、取り立て屋が乗り込んできたらしい。先ほど、ヤクザなら任せておけと、簡単に言ってのけた貴彦の顔を直樹は不安げに眺めた。
「摩美、由美、二人で行って帰ってもらいなさい。あそうだ一週間以内には片を付けるといっといてくれ」
「はーい、行ってきます」
こともなげに、姉妹は出て行った。
「社長、古川金融とやらにいくら借りたんですか?」
「ご、五百万です。そんなことより、妹さんは!」
「あいつらなら良いんです。適当にやってくれるでしょう」
「適当・・・・・ですか?」
「おまたせいたしました」
満面にこぼれんばかりの笑顔で、摩美が取り立てやに挨拶をした。
「お前はなんなんだ!」
ロビーのソファーから、二人の男が立ちあがった。声を発したのは、背が高く人相の悪い、若い方の男だった。二人とも黒いスーツに黒っぽいシャツを着ている。如何にもその筋の人間だと言わんばかりに。
年配の男の方は、肥満した身体に黒メガネをかけ、ご丁寧にも頭はスキンヘッドにしている。脅しのための格好であろうが、これではまともな女性にもてるわけがない。
「社長さんの代理人よ」
摩美はしなをつくり、若い男に微笑みかけた。
「代理人、愛人の間違いじゃないのか? いまはお前を相手にしてる暇はない。社長を呼べ、社長を!」
「私が、代理人だといってるでしょ。ご用件はなんなの?」
若い男の顔が赤くなった。
「今日が、返済期日だ。一千万円、耳をそろえて返してもろうか!」
「あッそう、一週間まってね」
「はッ・・・・・」
どうも、若い男は摩美にいいようにされている。
「お嬢さん、儂らは遊びに来たんじゃないんだぞ」
スキンヘッドがドスをきかせた低音ですごんだ。
「あら、私たち遊びに来たのよ」
「えッ・・・・・」
スキンヘッドが絶句した。
「ふざけんじゃない! 痛い眼を見たいのか。おっと警察に電話してもだめだぞ、民事不介入だからな」
若い男が摩美に近づいた。
「あら、そちらのほうこそ、警察にいかないでね」
二人の男が首をかしげた。意味が分からぬらしい。すぐに気づくことになるのだが。
「由美ちゃん、タッチね」
「はーい」
おいおい、プロレスのタッグマッチのつもりかい。
セーラー服の可愛い女の子が、若い取り立て屋の前に立った。面食らった男に由美はかるく会釈をすると挨拶をした。
「お願いします」
「えッ」
男が口を開け、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした瞬間であった。
由美のスカートが舞い上がったと思われた瞬間、左回し蹴りが、若い男の右脇腹、つまり肝臓に突き刺さった。蹴った左足をため、腰をひねると、そのまま内回し蹴りとなってスキンヘッドの顎に炸裂した。
要した時間は、たったの二秒。動いたのは、ふわーと漂ったスカートだけのように見えた。
「由美ちゃん、おみごと!」
摩美が拍手をした。床では大の男が呻いていた。“秒殺のユミ”の面目躍如といったところだろう。
成り行きを見ていたフロントマンは、我に返るとエレベーターに駆け寄り、せわしなくボタンを押している。報告に行こうとしているのであろう。
「おい、見たかい今のを」
「見ましたよ、あんな可愛い子がね」
「長生きはするもんだな」
七十過ぎの上品な老夫婦が、フロントの側のソファーで一部始終を見ていたのだ。
「おじいちゃん、おばあちゃん、驚かせてごめんね」
由美が老夫婦の前までいき、神妙な顔であやまった。
「お嬢さんとんでもない、冥土の良い土産ができたよ。なあ、そうだろ」
「そうですよ、お嬢さん動きがとても綺麗でしたよ」
「ありがとう」
そう言うと、由美は倒れた男のほうへ向かった。まだ呻いているが、やっと上半身を起こしかけた。
「お願いだから、一週間待ってね」
媚びるような声で摩美が話しかける。
「セーラー服の女の子にあっと言う間に、のされたこと黙っててあげるから。そうしないと、面目丸つぶれで今のお仕事出来なくなるでしょう」
「・・・・・」
男達は返事をしない。いや、苦しくて出来ないのかもしれない。そのうち、よろよろ立ちあがると旅館から出て行った。
「由美ちゃん、黙って帰ったってことは、了解したということよね」
「そうでしょうね」
パチパチ、拍手がなった。見れば老夫婦が微笑みながら手を叩いていた。
「摩美、いくらなんだってお前“くさや”の食べ過ぎだよ」
夕食の席である。けっして良い料理とは言えないが、そこそこの物はでている。それにしても、摩美はくさやの干物を三枚たいらげ、四枚目に突入している。貴彦なぞ、未だ一枚も食べていない。
「だって美味しいんだもの、由美ちゃん何枚食べた?」
「一枚よ」
「かわいそう、追加注文しなくっちゃね」
和やかな、食事風景ではある。三人とも浴衣に半纏でくつろいでいる。貴彦は、ビールから日本酒に切り替えた。摩美は最初からワイン。由美はウーロン茶である。
「お兄ちゃん、山田旅館の再建案は、まとまったの」
摩美がくさやを食べながら言った。
「個別に組み立てることは出来るんだが、一番大きな問題は時間がないと言うことだ。二年ぐらいの余裕があれば、何とかなるんだが」
「無理なの?」
「なんとかしようと、苦心しているんだ」
「無理を通すのだったら、お姉ちゃんが得意じゃない」
「れッ、麗子、何故それに気が付かなかったんだ!」
そう言うと、貴彦は携帯を取り出し、さかんに電話をいれ始めた。
「だ、駄目だ! 自宅も携帯も出ない。何処にいったんだ!」
「お姉ちゃん電話に出ないよ、お兄ちゃんが酔っぱらって電話するだろうから出ないって言っていたもん。由美ちゃんメールを入れてみて」
「お兄様、お話はだいたい分かったけれど、わたくし気が進まないわ」
青葉台の北御門家の自室で、麗子は兄からの電話を受けていた。麗子のへやは無機質この上もない。パソコンが二台、ゲーム機他電子機器が所狭しと並べられ、壁は天井までの作りつけの本棚になっている。そして、大きな机とソファーにベット、極めて合理的で無駄なものがない。美的見地からの飾りを一切拒否している。
光沢のあるローブを身にまとい、長いソバージュの髪を自然に流して、くつろいでソファーに座る麗子の姿だけが、美を醸し出していた。
「連れないことを、言うもんじゃないよ。人、二人の命が掛かっているんだぞ」
「あら、死ねばいいじゃない。それで解決するでしょ」
「たッ、確かにそうかもしれないが、それじゃあ可哀相だろうが」
「べつに、そのうちわたくしも死ぬんですもの」
「とにかく、頼むよ。摩美も由美も、無理を通せるのは麗子だけだと言うんだ。こッ、これは家長の命令である。頼むよ、麗子」
「しかたないわね」
「じ、じゃ来てくれるんだな」
「明日、午前中にいくわ、今から下準備もあるし電話は切るわよ」
電話を切ったあと、麗子はしばらくそのままの姿勢で考え込んでいた。問題のあらましは、貴彦から話を聞き、掴んでいた。問題は時間との戦いである。
「ゲンさんね、麗子です。明日午前八時に車で家まできてくださる。すこし遠出をするから、ガソリンは満タンね」
「朝八時ですか?」
「いやなの?」
「い、いやじゃありません、行きます。行かせて頂きます」
「あら、そう。よろしくね」
携帯を切ると、麗子はまたすぐに、何処かに連絡を入れた。
「熊田さん、麗子です」
「どうしたんです?」
「明日、午前八時に、家まで来て下さること。その際、パトカー、もしくは覆面パトカーでいらしてね」
「何ごとですか?」
「熱海で事件が起こったの」
「熱海は、静岡県警の管轄ですよ」
「お兄様が、事件に巻き込まれたのよ。嫌ならいいんだけど」
「い、嫌じゃありませんよ。広域捜査ということで・・・・・」
電話を置くと麗子は、何ごともなかったように、パソコンのキーボードをたたき出した。やはり、この家族、四人揃わないといまいち面白くない。
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