午前七時半、北御門家のインターホンが鳴った。すでに着替えていた麗子は、少し早いなと思いながらボタンを押した。
「よー、俺だよ俺」
「えッ、おじさま?」
「その声は麗子か、開けてくれよ」
入ってきたのは、伯父の北御門貴舟であった。白髪交じりの総髪をうしろで束ね、色の落ちた作務衣の上下を着ている。足下はむろん雪駄だ、手には信玄袋をさげている。身長は百七十センチまではなく、年齢を考えれば、中肉中背と言ったところだろうか。
「おじさま、どうなさったの、こんなに朝早く、しかも何の連絡もなしで」
「いやー、まいったよ。たまには羽を延ばしたいと東京に昨日来たんだが、今朝五時に追い出されちまった」
「どちらにいらしてたの?」
「吉原」
「えッ、吉原」
「そうだ、吉原のソープランドだ。昨日の夕方入って、延長延長でねばったのだが、ついに、朝五時に追い出されたよ。開いている店を見つけて、コーヒーとサンドイッチを食べてボーとしていた。行くところがないんでここに来たんだ」
貴舟は一応、坊主である。京都の通願寺のれっきとした住職である。
「まー、ほんとに元気なおじさまね」
「元気だけがとりえだ」
「お妾さんが、三人いらっしゃったわね」
「一人ふえて四人になった。今度紹介しよう」
「べつに、紹介して欲しくはないわ」
「おまえ、そんなつれないことをいうなよ」
「どうでもいいけど、わたくしこれから出かけます。おじさまは、こちらでお休みなさってね」
「何処へ行くんだ?」
「熱海よ」
「温泉か・・・・・俺も行く、連れて行ってくれ」
「温泉芸者ですか?」
「い、いや・・・・・そんなことは」
「あるんでしょ!」
「・・・・・」
「ゲンちゃん、なんなのこの車」
「八十年代のポンティアックです。最高に格好いいでしょう」
一昔前の、ばかでかいアメ車だ。事実、若者の垂涎のまとではあるが。
「ゲンさんはもう少し、感性を磨く必要がおありのようね。熊田さんは、また地味な国産車ね」
「当たり前だろーが、覆面パトカーが派手なアメ車であるわけがない」
時間どおり、熊田とゲンは北御門家の門の前に集合した。二人とも詳しい話は聞いていない。
「熊田さん、貴舟おじさんとは面識あるわね。おじさんは熊田さんの車に乗ってね、わたくしは、ゲンさんの車に乗るから、行き先は熱海の海岸通りの山田旅館よ」
そういうと、麗子はアメ車の助手席に乗ろうとした。ゲンがすっ飛んできて、ドアをあける。
「熊田さん、お分かりでしょうけど。サイレンを鳴らして走ってね。有料の料金所を通るときは、この車も緊急自動車にするのですよ」
と、言い放って麗子は、ゆったりしたアメ車の助手席に身を沈めた。ゲンは興奮気味である。なんといっても、だれに気兼ねすることなく、サイレンを鳴らし、信号無視の速度違反で傍若無人に走れるのだ。
「お爺ちゃん、おばあちゃん、おはようございます」
朝風呂で、入念に玉の肌の手入れをした摩美が声をかけた。場所はフロント前のロビーである。二人とも白髪まじりの上品な顔をしている。姿勢がシャンとしてとても七十過ぎには見えない。
「やー、おはよう。綺麗だね」
「まー、お爺ちゃんったら、冗談ばっかり」
「冗談じゃないよ」
「うそー、本気だったら、おばあちゃんの眼が嫉妬に狂うはずだもの」
「お嬢さん、綺麗の意味が違うのよ。わたしも綺麗だと思いますよ」
おばあさんは、優しい眼をして摩美に言った。
「おばあちゃん、ちょっと聞きたいんだけど」
「なにかしら」
「どうして、こんなに寂れた旅館にきたの?」
「ほほほ、お嬢さん、商店街の年末大売り出しの福引きにあたったのよ」
「うん、何となく納得」
「お嬢さん、おたくは?」
「社員旅行の、外れクーポン券なの」
「まー、私も納得」
摩美とおばあちゃんが、お互いに納得したとき、声が懸かった。
「摩美ちゃーん、朝食よ」
由美が呼びに来たのだった」
「じゃ、失礼しまーす」
摩美が会釈をして、脱兎のごとく駆けだした。そんなに急がなくとも、朝食が逃げるわけはないのだが。
九時頃だろうか、山田旅館の前に、サイレンを鳴らしたパトカーと、ごっついアメ車が、急ブレーキをかけて止まった。
「おい、なんでパトカーが来るんだよ」
松の木の根方に身を潜めているのは、古川金融の若い男である。由美に蹴られた跡がまだ痛むようだ。側には、これまた由美に酷い眼にあったマサが控えていた。彼らは双眼鏡を片手に山田旅館を見張っていたのだ。
「あッ、ポンティアックだ格好いいな」
マサはさすがに車に興味があるらしい。
「ヤクザみたいなのが降りてきたぞ、ちッ、違う、マル暴のクマだ!」
若い男は眼を剥いた。熊田の雷鳴は関東一円に鳴り響いているという噂は本当だった。
「あッ、アメ車から降りてきたのは、関東最大の暴走族「毘沙門天」のヘッドを張っていた、摩修羅のゲンさんじゃないか」
ゲンは族の頭目だったらしい。
「いったいどうなってるんだ!」
二人は顔を見合わせた。二人が驚くのはまだ早かった。真打ち登場はいまからである。
急に風が吹き出した。風雲急を告げるといったところだろう。バックグランドミージックが、どこからとも無く聞こえてきた。曲は007のテーマミージック『ゴールドフィンガー』だ。
ゲンが助手席に廻りドアを開けた。ドアから白い足がのぞいた。降り立ったのは、黒いロングドレスを着た女性であった。銀河鉄道999のメーテルといった雰囲気だ。麗子である。
物憂げに歩く彼女は、侵しがたい雰囲気を醸し出している。最後に、信玄袋を提げた年寄りが降りて、ひょこひょこ歩き出した。年寄りというのは可哀相である。まだ六十二歳なのだから。
物陰で見張っていた二人にも、なにかが起ころうとしていることは分かる。しかも、自分たちには伺うことの出来ない事態が始まるだろうことも。
「おー、待ちかねていたぞ麗子。熊田も一緒か、丁度良かった。ゲン、おッ、おじさんが何故ここに居るんだ」
貴舟伯父の出現には、さすがの貴彦も驚いた。
「おじさまは、芸者遊びをなさるそうよ」
「まあな・・・・・」
「そんなことはいいから、お兄様、ご紹介くださいな」
「おッ、そうだった。こちらが社長の山田直樹さん、こちらが女将の多美子さんだ」
「よろしく、わたくしが北御門麗子です。さっそくですが女将さん、この旅館をご案内願えませんか 」
麗子は挨拶もそこそこに、すぐに用件に入った。
「はい、ご案内いたします」
麗子を見送ると、貴彦たちは小会議室に移動をした。
「おじさん、どうしたんだよ、一体全体」
「いやー、麗子の言うとおりだ。東京に羽を延ばしにきたんだが、行きがかりじょう、ここまで付いて来てしまった」
白髪交じりの頭髪を掻きながら、面目なさそうに言った。武術北御門流宗家とも思えぬ威厳のなさである。
「麗子が帰ってくるまでに、みなには簡単に説明しよう、特に熊田はよく聞いてくれよ。おじさんとゲンは別に聞かなくっても良いよ」
「そんなこと言わないで下さいよ。朝早く起こされて、ここまでパシリをさせられたんですから」
少し不満そうにゲンが言った。麗子は熊田には用があるようだったが、ゲンはまったくの運転手としてかり出されたのだ。
「社長さん、ケーキか何かないの?」
会議用のテーブルの上には、確かにお茶すら出てなかった。
「すみません、すぐ用意致します」
昨日からあわてふためき、とてもそこまで気の回らなかった直樹は、慌てて席を外した。
それにしても、朝食をさっき取ったばかりだろうが! 摩美の食欲は常識の範囲を遙かに超えている。むろん、由美もこの場に同席していたが手持ちぶさただ。武闘派の出番は今後あるのだろうか。
たっぷり三十分は経ったであろう。麗子が帰ってきて打ち合わせは始まった。議事進行は貴彦が受け持った。
「昨日から、帳簿、書類関係は大体見せて頂き、社長さんの見解も聞かせていただいた。社長さんの計数分析はたいしたものだ」
損益分岐点分析、資本金回転率、売上高利益率、投資回収率、返済計画、資金繰り表、等々すべてが、経営計画のもとにシミュレートされているのに、貴彦は驚いたのだ。よくありがちな、丼勘定の放漫経営とはまったく異なる。
「お褒め頂いてありがとうございます。実は私、公認会計士の有資格者なんです」
「えッ、なんだそれ!」
貴彦はぶったまげた。さすがの麗子も驚きを隠せない。他の人間は、貴彦が驚いた理由自体が分からない。
「どうして、公認会計士のお仕事をなされなかったの」
麗子が当然のごとく尋ねた。
「してたんです。しかし、親父に無理矢理連れ戻されたんです」
なんとも情けない顔で直樹が返答をした。
「すんでしまったことは、嘆いても始まらない。今は、山田ご夫婦が心中をしないですます方法を考えよう」
「ございますか?」
多美子が必死の形相で尋ねた。何と言っても命が懸かっているのである。
「まず、当面の古川金融の件ですが。これは熊田に頼もう、五百万の借金が三ヶ月で一千万になる契約など、本来契約自体が無効であるが。元金だけでも返した方が、社長さんも寝覚めが良いでしょうから、改めて契約を結んでもらいましょう」
「先輩、どんな契約ですか」
「五百万を金利なしの十年返済ぐらいかな。毎月四万二千円になるが、これぐらいは払らわなくっちゃ、いいでしょう」
「そ、そりゃもう・・・・・」
「社長の承諾も頂いたことだし、熊田、これが新しい契約書だけど」
「先輩、こりゃおもしろいや」
熊田はすぐにも行きだしかねない勢いだ。
「あのー、僕も熊田さんのお手伝いしたいんですが」
ゲンが恐る恐る発言した。
「構わないと思うが、どうだろうか熊田」
「いいですよ」
ゲンは、北御門家の草刈りを永遠に行うと約束させられた時、麗子の配慮で、三百万円有った借金の交渉を熊田に頼んでくれたのだ。頼んだと言うより指示といった方が正解かもしれないが。
熊田と債権者巡りを行ったとき、利息制限法だの何だのと言って、借金をゼロにした交渉の快感が忘れられないに違いない。
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