広い部屋のソファーに五十過ぎの品の良い男が座っている。その前方に、椅子を勧められながらもことわって、直立したままのあまり品の良くない三十前の男がいた。桜田門一家こと、警視庁の副総監室である。窓からは皇居の緑が見渡せる一等地だ。
先ほどから、熊田は立ったまま、麗子に書いてもらったメモを手に要望のあらましを、しどろもどろに述べていた。
「主旨は解った、近々、熊田刑事が行くむね、吉田会の山中に繋いでおこう」
毛利副総監は多少もったいぶった低音で言った。五十歳過ぎの、細身ではあるが精悍な身体を制服に包んでいる。白髪混じりの頭髪は、ヘアークリームで後頭部に撫でつけられている。いかにもキャリア官僚といった風情である。
紳士風な容貌にもかかわらず、単なるキャリアとは異なり、闇社会はおろか、第一線の刑事連中をも畏怖させるという評判の迫力は、鋭い眼光に現れていた。
「はッ、ありがたきしあわせです」
熊田は柄にもなく、コチコチに固まっている。
「ところで、久しぶりに北御門先輩から連絡を頂いたのだが。先輩は元気であったか」
「げ、元気であります。ソープランド・・・・・いや、とにかく元気であります」
「ソープ・・・・・? まあいい。ところで熊田刑事は、なかなか頑張っておるな」
「はッ、はい」
「先輩から連絡を頂いたあと、少し調べさせてもらったよ。なかなか頑張っているじゃないか、今の調子で今後も頼むよ」
「はッ、頑張ります」
毛利副総監は優しく話しかけているのだが、熊田の顔からは汗が噴き出している。
「ところで君も渦中にあった。神田の事件、熱海の事件、北御門兄妹はなんとも凄いではないか」
「えッ、副総監殿はご存じで?」
「私を誰だと思って居るんだ。これでも組織犯罪対策部長を兼任しているんだぞ。静岡県警からの情報も入っておる。しかし、嬉しいことだ四人の兄妹が元気に育って。私も随分気にはしており、影ながら見守っておったのだ。彼らの父親、貴行とは大学の同期であった。優秀な男であり、なにより正義感の強い漢であった・・・・・」
「そ、そんなことが・・・・・本当で・・・・・」
熊田は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「今は、ここまでにしておこう。いずれ近いうちに兄妹とゆっくり話す機会が出来よう。それにしても彼らが、吉田泰蔵と知り合いになったのも、何かの縁かな・・・・・」
毛利は意味ありげにそう言いと、立ち上がって窓辺に行き、過ぎ去った過去を懐かしむような目つきで、皇居の緑をジッと見続けた。
「由美ちゃん、慌てないでゆっくり食べたら」
と、摩美が言った。由美はトーストを口にくわえたまま、セーラー服のリボンを結んでいる。
「吹奏楽クラブの朝練があるのよ。早く行かなくちゃ」
「おい、由美。昨日ダンスの稽古が終わって帰ってきたのは、十時過ぎだぞ。そう毎日動き回ったら疲れるだろうが、いい加減にしたらどうだ」
「兄ちゃん、心配しないで。倒れたら休むから」
よけいに心配になる、貴彦だった。
今日の食事当番は摩美だった。トースト、ミルク、ボイルドエッグにサラダとここまでは、ごく普通の洋朝食と言えるだろうが、ここから後が摩美らしい。
「摩美、なんで“くさや”があるんだ。どうしてスープが、みそ汁なんだ」
「お兄ちゃん、美味しいでしょ。とにかく美味しいものは食べれる時に食べておくのよ」
なるほどそれが、彼女の人生哲学かと、貴彦は納得するのはやぶさかではない。でも、いかに何でも、食事の度ごとに“くさや”を出されるのはいささかうんざりだ。
摩美は熱海旅行いらい“くさや”に懲りまくっていた。
「摩美ちゃん、この肉はなに」
フォークであわただしく口に運び、嚥下したあとに由美が云った。
「ああ、それは鯨の大和煮よ、時間がなくてラーメンを作れなかったのが残念!」
摩美の味覚と美意識は、いったいどうなっているんだと貴彦が思っているとき、
「行ってきまーす」
勢いよく由美が食堂を飛び出した。
「いってらっしゃい」
われ関せずで、レモンティーをゆっくり飲んでいた麗子が初めて声をだした。視線は開いた英字新聞に向けられたままである。
「さあ、俺も行くか。摩美、今日は未だ時間があるのか?」
「うん、一時間目は自主休校。十時半までに行けばいいの」
「授業にはきちんと出なければ駄目だぞ。じゃあ、俺は行く、後かたづけは頼むぞ」
貴彦は家長らしく、多少重みをもって言った。
「お兄ちゃん、いってらっしゃい」
「うん」
貴彦が食堂を出ようとしたまさにその時だった。
「お兄様、朝起きて歯を磨いたの、ハンカチは?」
麗子の声がした。
「あッ、あああ・・・・・」
図星である。もろにその二点を忘れていた。あわてふためく貴彦を尻目に、麗子は新聞から眼を逸らしすらしない。
「穴の開いた靴下は惨めよ、履き替えなさい」
貴彦は足下に眼を移した。やばい! 穴があいている。
貴彦は改めて、麗子の方を向いた。いつチェックしてたんだと云わんばかりに。そこには、髪を巻き上げ、きちんと化粧もすませた横顔があった。
「お姉ちゃん、わたし食べ過ぎかしら。スタイルが崩れたらどうしよう・・・・・でも、美味しいんだもの!」
ここに、自分にしか興味のない乙女が一人いる。
「北御門君、ちょっと来たまえ」
朝、机に座る早々、堀田課長からお呼びが掛かった。貴彦が課長の方を向くと、そこにはふんぞり返った、禿頭がいた。小心さを表すかのように小さな眼が狡そうに貴彦を見ている。JR代々木駅の近く、古いビルの三階、且R尾食品の総務部である。
「はい、何でしょう?」
貴彦は悪い予感がした。まさかこんな朝から、総会屋ではあるまいが。
「君、今日私が、木更津の工場に行く予定だという事を知っているな」
「はい、十時に出発と聞いておりますが」
「ちょっと都合が悪くなった。君、代わりに行ってくれ」
「な、何ですって。そ、そんなこと・・・・・突然言われても」
「今日は、火曜日だ。予備校のアルバイトもあるまい」
意地悪そうな目つきで課長が言った。
「そ、そうですが。課長、予定では今日は木更津泊まりになりますよね。私は、全然、用意をしていませんよ」
「用意・・・・・着替えなんかしなくても良い。私は、腰が悪くて、電車に乗れないんだ。二時間も電車に乗るなんて不可能なんだ、これは業務命令である。すぐに用意したまえ! おおッ、痛ッ!」
突然、課長は背を伸ばすと、腰のあたりを揉み始めた。
貴彦はすごすごと席に戻ると支度に取りかかった。考えれば気が重くなる、今回の木更津行きは重要な仕事だったのだ。就業規則の一部改正、労働時間の変更に伴う説明と、従業員及びパート職員の意見を聞くことであった。
藤沢工場には、わざわざ吉岡部長が行くことになっている。ある意味では堀田課長にとっては抜擢とも言える仕事であった筈だが。
「じゃ、課長行って参ります」
「重要な仕事であることは分かっているな。間違いのないようにな。もし失敗した場合は私が責任を取るから心配するな」
「ありがとうございます」
取りあえずそう答えたのは、貴彦のサラリーマンとしての処世術のなせる技であった。『手柄は自分、失敗は部下』は堀田課長の信条であることは、貴彦も十分に承知している。「ご苦労さん」
その時、山尾食品の社長が総務課の部屋に気さくに入ってきた。大正時代に佃煮屋として創業の山尾食品、五代目社長、山尾清兵衛であった。六十過ぎの、白髪の穏和な老紳士である。
社長は、堀田課長の席に向かった。課長は直立不動の姿勢で社長を迎える。
「堀田君、今日は木更津の工場に行くんだったね。大事な役目だ、宜しく頼むよ」
「えッ、いや・・・・・」
「課長は都合が悪いそうです」
側から声を掛けたのは、美智子さんだった。ショートヘアーに、ピアス。整った顔立ちに薄グリーンのスーツを着こなし、タイトスカートからは美しい足が延びている。四十に近い年齢のはずだが、どう見ても、三十そこそこにしか見えない。
「おお、山下君か、課長が行かないで誰が行くんだ?」
「北御門さんだそうです」
「北御門君か・・・・・」
社長は少し顔をしかめた。
「いえッ、その・・・・・。私今日は急に常務に同行するように言われまして」
「山下君、常務の予定はどうなっている?」
山尾食品では、秘書室という特別の部署はなく総務部がその役割を担っている。会社のすべてに精通している山下美智子が、役員秘書であり、役員からの信頼は絶大なものがある。
「はい、町田常務は今日、○×スーパーの役員の接待で、午後から箱根カントリークラブ、終わった後は、富士やホテルというスケジュールになっております」
「そうか」
と言い社長は冷ややかな眼を、堀田課長に向けた。
「まあいい、北御門君!」
「はッ」
貴彦は緊張のおもむきで、社長の前に進み出た。
「君なら大丈夫だろう。しっかりたのむぞ」
「はッ、頑張ります」
「山下君、北御門君はよくやるがまだ年が若い。君、都合が付くなら一緒に行ってはくれまいか?」
「しかし、社長。私、今日は社長のお供で関西に行く予定がございますが?」
「そっちは、私一人で何とかなる。北御門君を頼むよ」
山尾社長は、貴彦に何かと気を遣ってくれる。
「承知致しました。お供させて頂きます」
山下美智子はニッコリ笑いながら返事をした。
「そうだ、私の車も使って良いぞ、運転手の長岡には言っとくよ」
そう言うと社長は、総務部の部屋を後にした。貴彦が横目で、チラリと課長の様子をうかがうと、なんだか元気がなさそうだった。
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