「悪いなー、ちょっと急用が入ってつきあえなくなったよ。食事でも一緒にとおもったんだがな」
工場長が言った。時間は五時を回っていた。貴彦と美智子は木更津泊まりである。
「いえ、そんなことまでして戴くわけには行きません」
貴彦は恐縮する。
「駅前のホテルロイヤルに予約は入れておいた。一階にレストランがある。山尾食品と言えば請求は会社に廻してくれる。運転手の寺田は先ほど帰った。ワインでも飲んで、二人でゆっくり食事でもしてくれ、本社に連絡を入れておいた。明日は午後に出社すれば良いそうだから、ゆっくりしたまえ」
「何から何までありがとうございます。北御門さん、せっかくですから御好意に甘えましょうよ」
美智子は貴彦をうながす。
「工場長、ありがとうございます」
貴彦は好意に甘えることにした。
「じゃ、誰かに車で送らせるよ」
「とんでもありません。駅まで歩いても十分ぐらいです。ゆっくり散歩がてらにあるきますわ。ねえ、北御門さん」
当然だというような顔をして、貴彦は頷いた。
「そうかそうか、二人でランデブーもいいもんだろう」
さすが年配者、いささか感覚が古い。今時、ランデブーなんて言葉は使わないだろう。
「ミカド君、ちょっと感じの良い喫茶店じゃない、入ってみましょうよ」
木更津第一小学校を過ぎて少し歩き、“ありよし通り”に入ったところに、その喫茶店はあった。美智子は感じの良い喫茶店と言ったがその通りであった。ログハウス風だの、ガーデニングに溢れているだの、最近はやりの軽薄さとはほど遠い、多少くすんだ感じのする昔ながらの喫茶店であった。
ドアを開けると鈴が鳴った。正面はレジになっていた。レジの奥は、四人掛けのボックス席が並んでいる。照明は暗い。
「美智子さん、いい雰囲気ですね」
剥がれかけたビロードのシートに腰を下ろすと、貴彦は言った。
「本当ね。落ち着くわ」
美智子の真珠のピアスが煌めく。スーツの下の、襟ぐりの大きいシャツから見える白い胸元が眩しい。店内はコーヒーとタバコの煙が似合う退廃さを醸し出す大人の雰囲気だ。
「わたしね、ミカド君といつかじっくりお話したいと思っていたの」
「な、なんですか」
貴彦の声が少しうわずる。あらぬ事を想像していたに違いない。
「わたし、ミカド君の応募の履歴書を見たとき胸騒ぎがしたの」
「ぼ、僕の履歴書ですか」
「そう、二十二歳で扶養家族が三人なんて普通じゃないわ。しかも履歴書の扶養家族の欄は、配偶者を除くとなっているでしょ。どうして、大学生が扶養できるんだと思ったわ」「出来る出来ないじゃなく、しなければならないんです」
「何故?」
「僕が長男だからです」
貴彦は胸を張って言い切った。
「羨ましいわ、妹さんたち」
「そんなことありませんよ。可哀相なんですあいつら・・・・・」
母親の雅子が死んだとき、貴彦は中学一年、麗子は小学二年、摩美は四歳、由美は一歳。父親が死んだときはそれぞれ、高一、小五、小一、四歳だった。父母の記憶があるのは、貴彦と麗子の二人だけだろう。
「お兄さん、頑張ったんだね。親戚で引き取ろうという話はなかったの?」
「母親の時は父が居ましたし、父親の時は京都の伯父が来ないかと言ってくれましたが、僕も自分で何とかしたいと思い。『私たちで頑張ろうよ! お願いよ!』小五だった妹の麗子が泣いていやがったんです。妹の必死の願いに支えられて、僕も何とか頑張って来ることが出来ました」
「そう、長女のかた、麗子さんと言ったかしら。十一歳の多感なときだけに思うところがあったんでしょうね」
「多感かどうかは知らないが、気の強いこと・・・・・いらい、麗子には尻をひっぱたかれ続けています」
「麗子さんはよほど、心に帰するところがあったんでしょうね」
貴彦の話しを聞く、美智子の眼は真剣そのものである。北御門兄妹について興味を持っていることは間違いはない。
「立ち入ったことになるけど。お母さん、お父さんはどうして亡くなったの」
「母は病弱でした。三女の由美を生んでそのまま床から離れることは有りませんでした。僕の記憶では、大変美しく優しい人でした。父は事故死です。インドネシアのジャカルタでの交通事故でした」
「ジャカルタ? お父さんはなにをしてらしたの」
「当時の通産省、大臣官房の審議官です。東チモールの石油利権を告発すべく現地調査にいったところでした。そのせいか、色々噂がたち、京都の伯父はかなり突っ込んで独自に捜査を行ったようですが、結局何も出てきませんでした」
貴彦は久しぶりに、父親の死んだ後の混乱を思い出した。伯父の貴舟は一年近く青葉台に住み着いて、獅子奮迅の働きをしてくれ、その後兄妹が身の立つようにしてくれたのだ。 父親の残した財産、死亡保険金等の管理を後見人として永らくやってくれた。十二年経った今でも、青葉台の土地建物の固定資産税を年間五百数十万円は払ってくれている。のべにすると援助額はこれだけでも六千万円は超える。固定資産税だけで貴彦の年収を超えてしまう計算になる。
「僕のことを聞いてばかりですが、美智子さんはどうなんですか?」
「わたし・・・・・わたしはいつも一人よ」
美智子はコーヒーを口にもっていき、つぶやいた。
「ともうしますと・・・・・」
「兄妹はいないの。中学二年の時、母が死に、一年も経たないうちに父親が死に、祖母に育てられたわ。その祖母も高校三年の時に亡くなってしまったの。わたしは高校卒業と同時に沼津を離れ、東京に出てきて山尾食品に就職して今日まできたの」
「では、本当に一人なんですね」
「そうよ、天涯孤独とでも言うんでしょうね。だからあなたのことが気になったのかもしれない。兄妹がいるって羨ましいわ」
美智子の貴彦を見る眼はそれほど、羨ましがっているようには見えない。年下の男を探るような、からかうような目つきである。
「美智子さん、好きな人は?」
「なぜそんなことを聞くの」
「いや、その、家庭的に恵まれていないから結婚をして、自分の家庭を築こうと思う気になるのじゃないかと」
貴彦の言葉は、立ち入ったことを聞いてしまったとの、反省もこめ言い訳がましく聞こえる。
「好きな男は、何人か出来たわ。しかし、どういう訳かみんな妻子持ちなの、つくづく家庭に縁のない女だと思っていたの。ところが、ところが最近そうでない人を好きになりそうなの」
意味ありげに、美智子は貴彦に微笑む。
「えッ、そうなんですか」
「そうよ、今度は逆に十歳年下なんだけど」
「えッ、そ、それってもしかして!」
「そうよ、ミカド君よ」
「えーッ!」
貴彦は思わず腰を浮かした。長い足がテーブルに引っかかりコーヒーがこぼれた。さらに慌てて布巾を取りに行こうとして、茶碗をひっくり返した。
ウエートレスが飛んで来るやら大騒ぎになってしまう。貴彦はボーゼンと立ちつくすのみでだ。
美智子は、手際よく布巾でテーブルをふき、台の上を整えた。店に詫びを入れ改めてコーヒーを注文した。
「冗談よ、ミカド君」
「冗談だったんですか。ひどいな、ビックリするじゃないですか」
貴彦はホッとすると同時に少しがっかりした。
「ごめんなさいね」
「そんな、謝ることはないですよ」
「私には、したいことがあるの、もう始めて十数年になるわ。おそらく、一生続けていくことになると思う。だからおそらく一生独身。でも恋はするわ・・・・・ねぇ、ミカド君」
「もう、からかうのはよしてくださいよ。ところで、したいことって、何ですか?」
「今は秘密にしておきましょう。すこし恥ずかしいから」
そう言われるとますます聞きたくなる貴彦だが、はじめてじっくり話すことが出来たばかりでさすがに遠慮がある。
「もう少しミカド君のこと聞いていい?」
「いいですよ」
「お父さんのことだけど。聞いていいかな?」
「かまいませんよ」
「死因に、なんか不審な点があるわよね。利権構造を暴くためにいった、ジャカルタで交通事故だなんて、少し出来過ぎだと思うわ」
「確かに、美智子さんの言うとおりです。不審に思うのが普通でしょう。でも僕にとっては、三人の妹を守ることが最優先です。それだけで、精一杯なんです。京都の貴舟伯父は、未だに、父、貴行の死を追い続けています」
貴彦の声は沈んでいる。心の奥に封じてはいるが、気になっていることは間違いない。
「伯父さんて方は?」
「伯父ですか、一言で言えば変な男です。北御門家の本家で、京都の通願寺の住職をしています。檀家は一軒もないのですが、大変な資産家で、本人もどのくらい資産があるか解っていないと思います」
「へェーッ、凄いんだ。家族は?」
「今日まで独身を通しています。一種の極道と言うんでしょうか、若いときから花街に入り浸りで、六十二歳の現在、妾が四人います」
すこし投げやりに貴彦が言った。
「それじゃあ、女色一筋の人生なわけ?」
「それが、そうでもないんですよね。武道の腕前は神技に近く、寺の一画で、刀を打っていますし。大学で倶舎論という訳の分からないものを講じています」
「跡継ぎは?」
「僕に継げと言うんですけど、まっぴらです。妾の面倒まで見てくれと言うんですから」「妾さんがたの行く末も考えているんだ。伯父さんて、やさしいのね」
「やさしいもんですか! 生活の面倒ではなく、あちらの方ですよ! 『俺も歳を取った。月に一度は京都に来て、順番に面倒をみろ』とまで言うんですから、ぜったいに変です」
貴彦は身を乗り出して言う。
「話しを聞いていると、伯父さんて素敵に思えてきたわ。おもしろくて、最近のチマチマした男にない器の大きさを感じるわ・・・・・ミカド君、今度紹介してくれる」
美智子は誘うような目つきで貴彦を見つめる。
「駄目ですよ! 美智子さんなら・・・・・」
「わたしなら?」
「伯父は舞い上がって、妾にすると言い出すに決まってます」
「いいわよ、妾で」
「ご、五番目ですよ!」
「かまわないわ、そうしたら、ミカド君もときどき面倒を見てくれるんでしょ」
「・・・・・」
貴彦は返事にこまってしまった。心の片隅で、美智子の面倒を見るのもいいかなと思っているに違いない。コーヒーと煙草の煙漂う薄暗い喫茶店で、素敵な年上の女性にからかわれるのもいいもんだと・・・・・。
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