永久に未完の組曲
お兄ちゃんはサラリーマンの巻(五)



 
 

 ロイヤルホテルはJR木更津駅の目の前にあった。ビジネスホテルとは言いながら、安っぽい感じは全然ない。入り口など、ちょっとしたシティーホテルという感じである。
 大きな自動ドアを入ると紅い絨毯が引かれ、正面に落ち着いた木製のカウンターがある。
 貴彦と美智子は並んでホテルに入った。女性と並んでホテルの絨毯のうえを歩き、フロントに向かう、貴彦の胸をときめかせるものがそこにあった。
 スラリとした美形の美智子と貴彦のカップルは人目を引く。貴彦が肩越しに、美智子の横顔をのぞいたとき、突然声がした。声は決して大きくはないが、凛として鼓膜を突き抜ける鋭さがあった。
「おにいさま」
 貴彦は振り向いた。
「な、なんでお前が!」
 絶句して次の言葉が出てこない。麗子が黒いロングドレスを着て、超然と立っているではないか!
「着替えをもってまいりました」
「下着なんぞ、その辺のコンビニで買うよ」
 貴彦の声に力がない。大きな体を縮めるように、おどおどしている。
「無駄遣いはいけません事よ」
「持ってくる方がよっぽど無駄遣いだろうが」
「あら、この十年来、お兄様の下着はわたくしが選んで来ましたことよ。いまさら、おかしなものを身につけて頂くわけにはまいりません」
 麗子は、冷静にしれーと言い放った。貴彦には返す言葉もない。
「わかった、わかったよ。でもどうして、このホテルだと分かったんだ?」
「簡単なことよ、山尾食品木更津工場に電話して聞きました。わたくしの部屋もチェックインをすませましたわ」
 さすがに麗子はやることに隙がない。
「お兄様、紹介して下さらないの」
 貴彦は我に返った。美智子のことを忘れていたのだ。
「あッ、ごめん。こちらは、総務部の山下美智子さん・・・・・これが妹の麗子です」
「・・・・・初めまして、麗子と申します」
 麗子は、美智子を注視していた視線を外すと、たおやかに深くお辞儀をする。さすがの美智子も少し度肝を抜かれて、立ち直るには間を必要とした。
「いつもお世話になっています。山下美智子と申します」
 美智子の眼に、負けた、という色が浮かんでいる。

 ホテル内のレストランとは言いながら、食事をするところは「若竹」という落ち着いた日本料理屋であった。外からの入り口もあり、宿泊客以外も利用するようだ。
 三人は、セット料理を頼んだ。取りあえずビールで乾杯をする。
「お兄様、食品工場でのお仕事はいかがでしたの」
「山下さんの助けもあって、仕事の方は何とかうまくいったが。パートのおばちゃんにはまいったよ」
「北御門さんは、おばちゃんたちには絶大の人気があるのよ」
 いつの間にか、ミカド君から北御門さんに呼び名が変わっている。貴彦も山下さんである。
「麗子、おばちゃんたちのパワーには凄い物があるぞ」
「どういうふうに?」
 麗子は、パートのおばちゃんという種族になじみがない。
「とにかく、押しの一手だ。怒濤の突っ張りだ。これでは相撲になってしまうか・・・・・とにかく思ったことを口に出すんだ、恥じらいもなく。でも、決して不愉快じゃないんだよ、これが。からかわれているんだが、楽しいんだ」
 美智子は貴彦の発言では意味不明だと感じたのか、助け船をだす。
「みなさん家庭の主婦なんです。子供の世話、家事と毎日終わりのない仕事を続けているのね。だから、ある意味では職場は自己実現の場所でもあるわけ。働いて収入を得るという、開かれた社会とのつながりを実感できるわけなの」
「山下さんの仰ることは、ある意味でわたくしにとっても身につまされることでもありますわ」
 麗子が言った。貴彦には何で麗子が身につまされるのかまったく分からない。頷いているところを見ると、美智子には分かるらしい。
「彼女たちにとっては、工場で働くことは充実した時間であり、確たる自信も持っているの。そこに、オヤジどもとは、まったく異なる北御門さんのような若い、まだ柔らかそうに見える感性と出会うと、からかいたくなるのよ。ある意味では愛おしい気持ちもあると思うの、そしてそれが恋愛に発展することも珍しくないんですよ。年末年始の繁忙期に学生アルバイトが数十人毎年来るんだけど、必ずなんらかの事件がおこるそうよ」
 聞いている、貴彦の口が半開きになった。
「みち・・・・・いや、山下さんそんなことがあるんですか?」
 貴彦の言葉が終わるか終わらないかの時だった。

「いた、いた、こっちよ・・・・・」
 場違いな大声が、レストラン中に轟いた。昼間の作業着とはうって変わった、けばけばしい派手な服装をした五人のパートのおばちゃんたちだった。誰にことわりも入れずに、おばちゃんたちは、店内の模様替えの作業に移った。
「テーブルはこっちよ」
「その椅子もよ」
 ガタガタ、大きな音をたてながら、テーブルと椅子を移動しはじめた。
「福永さん、そっちを持って」
 他の客もいるのにまさに傍若無人である。驚きに声をあげる者もいない。
 料理屋の和服の仲居さんたちは、声を出すことも出来ずに唖然としている。テーブルと椅子が並び替えられ、突然、店内に宴会場が出現した。
「北御門さんの側は、私だからね」
 そう言って強引に座り込んできたのは、たしか昼休み、誘う目つきで貴彦を見つめていた、北村ひとみ、という色香を漂わせた熟女だった。
「だめよ北村さん、あみだか、ジャンケンで公平に決めなくっちゃ」
「長山さん、違うでしょ、今回は絶対わたしの番よ。まえに順番を決めたじゃない」
 貴彦の腕を掴んだまま、テコでも動かぬ気配である。
「・・・・・わたしの番、順番・・・・・」
 貴彦は虚ろな眼で呟いた。
「長山さん、北村さんにゆずりなさいよ。それより、おねえさーん、注文!」
 メニューを振り回しながら、仲居さんを呼ぶ。
「取りあえず生ビールを五つ、セットは・・・・・止めた。いい、単品を言うから、ちゃんと書き取りなさいよ。枝豆を三つ、刺身盛り合わせを二つ、沢ガニの唐揚げを二つ、鰹の酒盗を二つ、うるめの丸干しを二つ、柳ガレイの一夜干しも良いわね、そんなところかしら」
「ちょっと待って、厚焼き卵二つに、鮨を三人前もお願いよ」
「焼き鳥もよ、えーと、ねぎま、鳥皮、レバーを五本づつ塩でね。・・・・・注文が終わったらホットするわね、やっと人心地が着いたわ」
 仲居さんは、注文表を持つとすごすごと、調理場の方に下がっていく。突如出現した宴会場は承認されたかたちとなってしまった。

「北御門さん、どうかなさったの?」
 貴彦の耳元で、北村ひとみが媚びるような声を出した。座るとすぐに、顔こそ注文の仲間の方を向いていたが、片手は貴彦の太腿の上に置き、微妙に動かしはじめていたのだった。
「えっ・・・・・な、なんでもありません」
 貴彦は少しうつむき加減に顔を紅くしている。
ビールジョッキが五杯運ばれてきた。
「北御門さんに、かんぱーい!」
 五人は自分たちだけで勝手に乾杯をする。他人のことは何処吹く風だ。この場に置ける他人とは、美智子と麗子である。さすがの美智子も口を差し込む隙を見いだせない。
 海千山千、修羅場を潜ってきた経験がちがうとばかりに、周囲を睥睨し、か弱く見える貴彦をいたぶろうとでも言うのだろうか?
「気分が悪いんじゃないのね? そうなの、よかった・・・・・気になるんですもの」
 北村ひとみの手の動きは、大胆になってくる。
「北御門さん、かわいいっ!」
「福永さん、からかっちゃだめよ、でもどうしたの? 北御門さん、まっ赤になっちゃって」
 そう云うと、北村ひとみは顎をつきだし、潤んだ目で貴彦を見つめた。

「みなさん、他のお客様のてまいもありますから、もう少し静かにいたしましょうよ」
 見かねて美智子が注意をした。
「あら、あんなこと云って、山下さんも随分よね。自分が狙っていたくせに」
「えッ!」
 美智子は口を開けたままそれ以上声が出ない。
「えっ、じゃないわよ、図星でしょ」
「そうよそうよ、廻りを見てごらんなさいよ、迷惑そうな顔をした人は、だあれもいないじゃないのよ」
 確かに、十人近くいる他の客はけおされたのか、関わりになりたくないのか、声も立てずに黙ったまま、俯いて箸を動かしている。
 店の方も、山尾食品は上得意のせいか、あるいは彼女たちが騒ぐのは、いつものことなのか、いっこうに注意をする気配がない。
 美智子は、貴彦の太腿に乗せられた北村ひとみの手の動きが気になるらしく、伏し目がちに時々視線を移す。
 麗子の、まったくわれ関せずとワインを傾ける姿は、荒野をぽつねんと歩いていく淑女のごときであった。
「山下さん、北御門さんとうまくやろうたって、そうは行かないわよ」
「そうよ、房総の女を嘗めるんじゃないよ!」
 おばちゃんが、美智子に凄みをきかせる。
「嘗めるって、そんなこと・・・・・」
 美智子をしてタジタジにさせてしまう、おばさんパワー全開だ。
「山下さん、教えてあげるよ。江戸時代の“俳風末摘花”ていう川柳の本に乗ってるらしいんだけど、相模下女と房総女は好きもの代名詞なんだって・・・・・」

「間男の不首尾は、こぼしこぼし逃げ・・・・・か」
 影の中に気配を消していた麗子がふいにつぶやいた。小さな声であったが、しみ渡るようなその声は、その場の喧噪を一瞬、沈めてしまった。
「こ、この方はどなたなの?」
 五人のおばちゃんたちは、唖然としてしまった。今はじめてその存在が大きく彼女たちに、のし掛かろうとしているのだ。 
「・・・・・麗子ともうします。北御門貴彦の妹でございます」
 静かに自己紹介をする麗子の瞳が鋭い光を放ちだした。
「あなたたちの場合は、“町内で知らぬは、亭主ばかりなり”のほうかしら?」
「な、なによそれ、なんだって云うのよ!」
 多少腰が引けてるが、おばちゃんの一人が、麗子をにらみつけた。
「ごぞんじないないのかしら? さきほど話題になりました、末摘花の川柳ですわ」
「き、教養がないとバカにするのかい!」
 その言葉を切っ掛けに、麗子がスックと立ちあがった。黒いロングドレスは光を照り返し、色白のたおやかな姿態のなか、眼が爛々と輝きを放ちだした。
「教養うんぬん以前の問題でございます・・・・・あなたっ!」
 麗子は貴彦の側に陣取る、北村ひとみに向かって細い指を突き出した。
 北村は、銃で撃たれたようにビクンとして手を自分の膝にもどし硬直してしまった。
「人間としての最低限の品性の問題でございます」
 そう云うと、麗子は細い両腕を後頭部にもっていき、髪を束ねていた留め金をはずした。ほどけた髪は麗子の腰のあたりまで達している。麗子が首を少し振ると、ソバージュの長い髪が大きく揺れ拡がった。女神の現前だ。
「末摘花のユーモアも解すことも出来ない、盛りがついた雌豚もどきの皆様。恥をお知りなさい」
 出た!! 麗子の氷の刃だ!
 若竹の店内が凍り付いてしまった。零下二十度の寒気団が来襲し、ブリザードがふきあれる。刃は人々の心の臓を突き刺し、誰も悲鳴すら上げることが出来ない。
 店内の全員、棒のように硬直し息をするのもままならない。このあとは、息を殺しながら通夜の席よりしめやかな食事になることは間違いないだろう。

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