永久に未完の組曲
お兄ちゃんはサラリーマンの巻(六)



 
 

「いいなぁ、今頃、お兄ちゃんたち美味しいもの、食べてるんだろうな」
 渋谷区青葉台の北御門邸で摩美のつぶやきとも、妬みともとれる言葉がもれた。
「摩美ちゃん、何言ってるのよ、お寿司二人前食べたばかりじゃないの。あとデザートにって、ケーキを四つも買ってきて」
「由美ちゃん、四つと言っても二人分だよ」
「あんなこと言ってる。シェープアップのため、私が一つしか食べないのを知ってるくせに」
「まぁーね、でも知ってる? 木更津って海の幸がとっても良いんですって。ウニ、アワビが食べたいわ」
 ウニ、アワビが木更津の名物との話は、とんと耳にしないが? いずれにせよ、摩美の感心は食べ物だけにあることは、衆目一致の意見であろう。
「ウニ、アワビ? いま食べたばかりじゃない」
「由美ちゃん何にも知らないんだね、いま食べたウニは北海道産、アワビは佐渡島にきまってんだから。庶民の味覚はその程度よね。通はやっぱり、木更津産でなくっちゃ」
「そんなの聞いたこともないわ」
 姉妹は食い物の話で盛り上がっている。いや、一方的に摩美が乗っていると言ったほうが正解だろう。

 由美は食後の柔軟体操を始めた。上下のジャージを身につけ、両足を百八十度に開脚し、前屈して床に胸をつけている。横で摩美がこちらは美容体操を始めた。ショーツにヌーブラのあられもない姿である。
「由美ちゃん、見ちゃだめよ」
「見やしないわよ」
 摩美は腹筋の鍛錬らしきことを始めたが、どうにもさまにならない。
「あっ、由美ちゃんみてよ! お腹に脂肪がついちゃった」
 お腹の肉をつまんで声をあげた。
「見ちゃ駄目なんでしょ」
「あっ、あんな意地悪いっている。ねえ、見てよ」
「分かったわよ、あ〜ぁ、ほんとだ」
「何よ、気のない見方をして」
「摩美ちゃんは食べてばかりだもん。そのうち顎もお腹も三重になるんだから」

 二人がじゃれ合っているとき、突然チャイムが鳴った。ハーイ! 相手に聞こえる筈がないのに、摩美は愛想良く返事をすると、インターホンの受話器を取った。
「はい、北御門ですが」
「近藤です、先輩は居られますか」
「木更津でウニとアワビを食べてます」
「えッ??」
 確かに、これでは近藤に理解できる筈がない。
「近藤さんだって」
 摩美が受話器を押さえ由美に言った。  
「コンドームがなんでこんな時間に? 摩美ちゃん変よ、相手を確認するまで門を開けちゃ駄目だからね」
「分かったわ、住所、年齢、職業を確認するわ」
 受話器を押さえていた手を外すと、摩美はチラと警戒の声で話しかけた。 
「近藤さん、お兄ちゃんに、何か用事ですか?」
「ちょっとお願いがありまして」
「お御願いということは、手土産があるんでしょ。なあに」
「たいしたこと無いんですけど、虎屋の羊羹です」
「と、虎屋の羊羹!」
 摩美がそう叫びをあげた時は、すでに門を開けるスイッチは押されていた。北御門家の門はスイッチ一つで遠隔操縦されるようになっている。
「摩美ちゃん! 確認しなきぁ駄目だよ。兄ちゃんに言われてるでしょ」
「大丈夫よ、由美ちゃんがいるんだもの。自衛隊の一個小隊がきても追い払ってしまうわよね」
 その時、玄関のチャイムが鳴った。

「虎屋の羊羹がきた!」
 興奮して、摩美は居間を飛び出した。
「あッ! ま、待って!」
 由美の叫びを聞きもせず、摩美は玄関の戸を開けた。
「いらっしゃい!」
「あッ!!」」
 近藤の悲鳴は言葉にならなかった。眼前に繰り広げられている光景に、度肝を抜かれたらしく、眼を見開き、口を大きく開けたまま固まっている。
「摩美ちゃん、駄目!」
 ガウンを片手に由美が飛んできた。その時初めて摩美は気づいた。ヌーブラとショーツだけのあられもない自分の姿に。
「キャー! エッチ!」
 青葉台中に響き渡る悲鳴であった。咄嗟に胸を押さえた摩美の手には、何時のまにやら近藤から取り上げた、羊羹の入った紙袋がしっかりと握られていた。


 通勤時間を外れた総武線の快速電車は、意外にすいていた。四人掛けのシートに、三人が腰を掛けている。
 山下美智子と、その向かいは貴彦、麗子の兄妹だった。美智子と貴彦は昨夜の騒動からまだ立ち直っていないようで、ぼんやり車窓の外を見ていた。
 麗子は一人、自分の世界に浸っているらしく。大部の古代ギリシャ語の本を拡げて読みふけっていた。もしかして彼女は、本気で古代ギリシャ語の発音を、現代に復活させるつもりなのだろうか。
 貴彦の眼が美智子とあった。彼は何か言いかけようとしたが、チラと麗子を横目でみると、また車窓に視線をもどした。どうもなんとなく気まずい空気が流れている。
 気まずいと思えば、その空気はますます、増幅して伝染していく。通勤時間を外れた和やかな車両全体が静まり緊張感を孕んできた。
 
「山下さん、何時までに出勤すればよかったですかね」
 沈黙に耐えられず最初に声をあげたのは貴彦だった。
「午後からで良いそうですわ」
「このままいけば、十一時過ぎには代々木に着きますよ」
「じゃ、昼前に一度会社に顔を出しましょうよ」
「そうしようか?」
 美智子と貴彦のぎこちない会話は、お互いを見つめることなく、麗子の顔色を窺いながらであった。麗子は黙って本を読んでいるだけでこの場を支配している。
 ありきたりの僅かな会話ではあったが、車内の空気は溶け出した。

「お兄様、わたくし所用がございまして。秋葉原で下車いたします」
 錦糸町を過ぎたところで、沈黙を守っていた麗子が突然、貴彦に話しかけた。おそらくは、電気街でパソコンの部品でも探すのだろう。
「わ、わかった」
「お兄様、もうお一人で大丈夫ですわね」
「もう、お一人で・・・・・? 麗子、小学生の時からお前を育ててきたのは、この俺だぞ・・・・・」
 貴彦の言葉には、今ひとつ自信が窺えない。
「あら、そうでしたわね。でもわたくしも、ずいぶんお世話させて頂きましたわ」
 しれーと、麗子は言い放った。
「まあ、確かにそういう部分はあるが・・・・・」
「大部分でございましょ?」
 美智子は側で萎縮している。昨夜以来の出来事から、金輪際、貴彦をからかったり、弄んだりするのは止めようと、強い決心をかためているに違いない。

 貴彦と美智子は新宿で山手線に乗り換え、代々木駅に着いた。駅前は混雑していたが、朝の通勤時間帯とは違い、何となくのんびりした感じを受けるのは、人々の歩くスピードが確実に遅いせいであろう。
「山下さん、十一時半です。取りあえず会社に顔を出しましょうか」
「北御門さん、そうしましょう」
 二人はいつしか、美智子さん、ミカド君という呼びかけは止めてしまったらしい。このまま二人で昼食を取るという気にならないようだった。

「北御門さん、ご苦労様です」
 受付の裕子が、ニッコリ微笑んで迎えた。
「ご苦労様です、ただいま戻りました」
「お客様がお待ちですよ」
 裕子は、美智子のほうをチラリと見ただけで挨拶はせず、用件に入った。二人が木更津泊まりだったのが気になっているらしい。
「お客様? 予定が入ってはいなかったと思うが・・・・・」
「妹さんですよ」
「い、妹さん・・・・・」
 美智子がこわばった声をあげた。妹という言葉は、彼女にとって、恐怖のトラウマになったかの反応であった。 
 不思議そうな顔で、裕子は美智子の顔を見た。
「第三応接室でお待ち頂いています」
「どっちだろう、何の用だろう?」
 貴彦が呟いた時に突然声が掛かった。

「お兄ちゃん」
 摩美だった。出現の仕方は麗子に似ていたが、雰囲気はまったく異なり舌っ足らずの甘えた声だ。
「摩美、会社に来るなんて何のようだ」
「いや、そんな冷たい声を出しちゃ。昨夜は摩美のことほっぽって、女性と木更津泊まりだなんて、寂しかったわ」
 受付の近くにいた人々の眼が、摩美に集まる。
 うすく染めた髪が、カールして肩に掛かる。胸を強調したニットのツーピースに白いタイトのミニスカートを履いていた。可愛い顔立ちに、悪戯っぽい眼がキラキラ輝いている。 裕子は本当に妹なんだろうかと、疑惑の眼をむけ始めた。
「お、おい、なんて事をいいだすんだ、こんなところで」
 貴彦は廻りを見渡し、射すような視線に首をすくめた。
「え、何か変なこといってる」
「ご、誤解されるかもしれないじゃないか」
「どうして?」
「ここは、山尾食品という会社だぞ」
「うん、だからお兄ちゃんを訪ねてきたんだもん」
「わかった、わかった、それで用件は何なんだ?」
「昨日の夜、わたしがヌーブラとショーツだけの姿だったとき、コンドームが訪ねてきたの」
「な、何だと! 近藤が! あのやろう殺す!」
 飛び出して行きかねない貴彦の腕を摩美が掴んだ。裕子や他の人々は、頭がパニックになったらしく、ポカンと口を開けていた。美智子は頭を抱えて、こっそり逃げるように隅の階段に向かった。北御門兄妹には二度と関わるまいと思っているように見えた。

「違うのよ、ウニとアワビの変わりに、虎屋の羊羹を持って来ただけなんだから」
「えっ!」
「わたしが、遅いから泊まったらと言ったのだけど、帰っちゃったわ」
「何にもしないで帰ったんだな」
 貴彦は念を押した。
「何にもしてくれないで帰っちゃったわ。わたし、魅力がないのかしら? お兄ちゃんに殺されるとも言ってたわ」
「あたりまえだ」
「えっ、お兄ちゃん、わたしに魅力がないというの!」
「ちッ、違う! 奴を殺すという・・・・・」
 いつまで経っても、かんじんの用件に入っては行かなかった。

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