永久に未完の組曲
麗子の内なる事情の巻(1)



 

「ねぇ、ねぇったら・・・・・もう」
 あきれ返ったような声が遠くから聞こえてきた。
「えっ、なに?」
 ふっと我にかえった麗子は、思わず反応した。
「麗子ったら、どうしたのよ、さっきから呼んでいるのに」
 池袋の近く、西口公園の側にある、いつもの院生の溜まり場の喫茶店だった。昔ながらの照明さえ古ぼけた感じのする薄暗い喫茶店に、今日も院生が五人集まって先ほどから何やら議論を重ねているのだった。 
 麗子の反応を、男女二人ずつ、合計、八つの眼玉が彼女を見つめている。
「どうしたんだよ、麗子。身体の具合でも悪いのか?」
 頼りなさそうな外見の、メガネの男が声を掛けた。
「えっ、どうして?」
「私たちの議論を、うわのそらで聞いているみたいなんだもの」
 ショートカットの髪をした、健康そうな女性だった。
「そんなことは無いわ、ドーリア民族の侵入についてでしょ」
 麗子は涼やかな目元で、一座の者を見回した。
「やっぱり変よ。その話題はさっきまで。今は、イオニア人とドーリア人の確執について話していたのよ」
「そうだったの」
 何処かへ飛んでいた意識が次第に戻ってきた感じがする。麗子は殆ど無意識に額にかかったほつれ毛を、細く白い指で掻き上げた。
 黒っぽい薄手のブラウスが襟元から、手首までを覆っている。彼女が肌をだす服を着ることはまず無い。それゆえよけいに、襟元から覗く白い肌と、身体にフィットし、滑らかな曲線を浮き出す薄いブラウスは、艶めかしい感じを与えるのだった。むろんスカートは黒いロングであった。
「“そうだったの”じゃないわよ。最近、麗子すこしおかしくない?」
「そうだな、確かにそんな気がするぞ」
「そうかしら」
 麗子は顎を少し突き上げ、興味なさそうに答えた。そこには、いつもの物憂げな眼を輝かせた、いつもの彼女の姿か垣間見えた。
「そうだ、それでなきゃ、麗子らしく無いぞ」
 その言葉は、ホッとした響きを含んでいた。なんと言っても、麗子はこの仲間のリーダー的存在なのだ。

「麗子、専任講師の山崎先生、お前にお熱でどうしようもないぞ、あれじゃあ研究が手に付かないはずだ。それと、助手の川端さんも。何とかしてやれよ」
 吉田はあたかも、軽口を叩くように麗子に言ったが、彼のメガネの奧で神経質そうな眼球が小刻みに動く。何かを探っているらしい。
「どうすれば、いいのかしら。抱かれるくらいは、どおって事ないけど、後に尾を引くのが面倒だわ」
「えっ、何てこと言うんだ!」
「本当の事よ、男の方って常にそうでしょ。とても面倒なのよ。ただ抱かれるだけだったら、あなたでもいいわよ」
「えっ、!」
 吉田のテーブルに乗せていた肘が外れ、大きな音を立てた。よほど驚いたらしい。しかし、慌てふためきながらも、メガネの奧がキラリと光を放った。
「でも駄目ね。その場限りというわけにはいかないもの。絶対にね」
 麗子は表情を変えることなく、冷酷に言い放った。
「吉田君、だめよ。麗子はあなたより一枚も二枚も上手なんだから。あなたは、よその大学から、内の院生になったから知らないだろうけど、学部生の頃の麗子は凄かったんだから。立教のマタハリと贈り名されていたのよ」
「そっ、そうなのか!」
「そうよ、麗子が学内を歩くと、男どもがゾロゾロ後に付いていたくらいだったんだから。山崎先生や助手の川端さんなんか、別に気にも留めてないはずだわ」
 久美子は、嬉しそうに吉田をからかうように話した。その彼女も、麗子に憧れる取り巻きの一人だったのだ。
「そんなことはございません。お二人とも良い方ですわ」
 ほとんど感情の入らない声で麗子は返事をした。本当にどうでも良いと思っているらしい。男という性は、どうしても彼女には振り回されてしまうとしか考えられない。あらゆる事実がそれを物語っている。

 つい三時間前の出来事だった。麗子は、秋葉原で貴彦と美智子と別れ、総武線の電車を降りた。そのあと何の躊躇もなく、颯爽と人混みを抜け、山手線のホームに出た。そして、ホームを歩いて電気街の改札に到る階段に向かう。そこが、電気街の改札口だ。
 これが、いかに至難の業かは秋葉原を知らない者には分からない。多少なりとも行ったことがある者にとっては奇跡と思えるはずだ。彼女クラスの“アキバ”の住人に取っては、眼を閉じても改札口に向かうことが出来る。
 彼女は、アニメ・エリア、ゲーマー・エリア、同人エリアを通り抜け、オーバークロッカーのたむろする地域に入り込み、間口の狭い店舗を見て歩いた。
 むくつけき、男どもがたむろするこの地区で、麗子の姿は極めて目に付く。振り返る男どもの眼には、驚きと疑惑が入り乱れている。『なんで、こんなに上品な美人が?』とでも言いたげに。常連であるのか、さすがに店員は驚かないが、媚びた目つきで彼女を見つめる。

 麗子は人混みを嫌う。しかし、“アキバ”には不思議な連帯を感ずるようだ。この街の喧噪に身を置くと、不思議に動揺した気持が落ち着くのだった。当たり前と言えば、当たり前のことだが、むろん彼女にだって心が動揺することはあるのだ。
 散々店舗を見て回ったあげく、彼女はマレーシア製のCPUを二個購入した。そして、大学院のゼミに出るべく、池袋に行こうと駅に向かって歩きだした。その時、アニメ・エリアで見覚えのある後ろ姿が眼にとまった。
 背が高く、ボサボサの頭をしている。そして、どこか頼りげのない雰囲気の男が、うつむいて雑誌を手に、真剣に見入っていた。ほとんど黒に近いダークグレーのスーツは、皺だらけである。男が身なりを一切気にしていないのは確かだった。

「近藤さん。今日はお休みですか?」
 麗子は気品のある声で呼びかけた。
「エッ!」
 声を掛けられたのは、貴彦の後輩で、由美の通う学校の教師の近藤だった。彼は弾かれたように振り向いた。麗子の姿を確認すると、大口を開け、眼を思いっきり見開いた。手に持った雑誌が地面に落ち、あわててそれを拾おうとして転倒する。その拍子に鞄が落ちて中の物がばらけてしまった。それを拾うべく、彼は地面を這いまわる。
 とにかく、間の悪いことこの上もない男である。麗子は腕組みをしたまま彼を見下ろす。手助けをしようという気配は微塵もない。

「れ、麗子さん!」
 近藤は、今にも泣きだしそうな情けない顔をした。
「おっ、お願いです。先輩にも、由美さんにも内緒にお願いします。ああっ、学校に知られたら・・・・・それに、摩美さんに・・・・・」
「何を訳の分からないことを仰るの? お持ちの雑誌、見せて下さる」
 近藤が背後に隠そうとした雑誌を、麗子は難なく手に取った。金縛りにあったように彼は動けない。
「あら、こんな雑誌がお好きなの」
 麗子は、薄い雑誌のページをめくり始めた。
「す、好きというわけじゃなく・・・・・どんな本が売れているのかと・・・・・」
「あら、教師としての情報収集という訳ですの?」
「そ、その通りです」 
「綺麗な絵ね。可愛い女の子がエッチされてるのがお好みなのね」
「あぁぁっっ・・・・・」
 ほとんど、聞き取れないぐらいの溜息が近藤の喉から漏れた。彼は肩を落としている。足下が小刻みに震え、明らかに目の焦点が合っていない。麗子はそんな近藤の態度にお構いなく、ページをめくり続けた。
「ふーん、なかなか良い出来の作品ですこと。お買いになられたら如何ですか?」
 そう言うと、彼女は同人誌を近藤に渡した。
「と、とんでもない。僕は手に取っただけで」
 触るのも汚わらしいと言う素振りで、彼は同人誌を棚に戻した。
「いいのよ、無理はなさらないで」
 近藤の身体はぐらぐら揺れている。ほとんど立っていられないようだ。

「わたくし、少し時間がございますの。お茶でもご一緒していただけませんこと」
「は、はい・・・・・では、そこの喫茶店で・・・・・」
「あら、いいの? もう少し行けば、メイド喫茶がございましてよ。ロリータコンプレックスについてお聞きしたいわ」
「げぇっっっ!」
「そんなに、びっくりしないで下さいな。わたくし何とも思っておりません。むしろ、同人雑誌には興味がありますの。むろん、摩美さんには、内緒にして差し上げてよ」
 ここに、麗子には永久に逆らえない男が、また一人出来てしまったのだ。 

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