永久に未完の組曲
麗子の内なる事情の巻(2)



 

 池袋西口公園は池袋駅のすぐ近く、ビルに囲まれた一画にある。それほど小さな公園ではないが、バスのロータリーに面しており、喧噪の渦の中にある。
 客観的事実としては、あきらかにそうなのである。しかし、人間の感性はおかしなもので、いま、公園はミレーの絵画のような静寂な雰囲気を醸し出していた。
麗子が、ベンチに腰を下ろしている。背もたれの付いた、何の変哲もない木製のベンチだった。大気の流れに揺れる夕日が、ビルの端に懸かろうとしている。物思いに沈んだ、憂げな彼女の横顔が、茜色に映える。足下の長い影が少しずつ延びていく。
 都心に位置する公園だけに、人数は多い。しかし、麗子の座る横長のベンチには、先ほどから腰を下ろす者が誰もいない。
 歩いてくる人々は、彼女を認めるとハッとしたように足を止める。そして、彼女のたたずまいに視線を止めてゆっくり歩を進める。男性ばかりではない、年配の女性もそうである。彼女は全身から侵しがたいオーラを醸し出しているのだ。
  
 その時、突然、小さな音が波紋のように、麗子を取り巻く空間に伝わった。何とそれは携帯の着信音「軍艦マーチ」だった。
「はい・・・・・」
 その場の空気は一変した。何十という瞳が、点になった。あり得べからず事態が現出したのだった。麗子は廻りを一切気にすることいなく話し始めた。
「由美さんなの、どうかなさったの」
「姉ちゃん、今池袋の近くにいるんだけど。もし池袋なら迎えに行くよ」
「迎えに行くよって、車に乗っているのね」
「そう、熊田さんの車・・・・・警察の車なんだけど」
「じゃあ、西口公園前の、ロータリーのところまでお願いね」
「麗子さぁーん。すぐにいきまぁーす」
 由美の携帯から突然熊田の声が聞こえてきた。
「こら、熊田! 前を向いて運転しろ」
 なにやら、車内でもめてるらしい。

 熊田警部殿の使用する警察の車は、かなりくたびれてはいたが、貴彦の愛車よりは遙かにましであった。
 麗子は後部座席に乗り込んだ。熊田はスーツにネクタイ姿。由美はジーンズにトレーナーというラフな格好である。
「由美さん、大きなバックを持ってきたのね」
 後部座席の隅に、由美の大きなバックが投げ出されていた。
「あっ、それ、道衣が入っているの」
「道衣? 何か大会でもあったの。それに、熊田さんの車に乗ってらっしゃる訳は?」

「いえね、麗子さん実は、急に話が持ち上がって、由美ちゃんに警察の武道場に行ってもらったんですよ。是非とも先輩に来てもらいたかったんですけど、都合が付かなくて、由美さんにお願いしたわけですよ」
「熊田さん、今ひとつ理解できませんわ」
「姉ちゃん、警視庁の武道師範に兄ちゃんをという推薦を、熊田さんが前からしていたらしいの、突然その話があったんだけど、お兄ちゃんが都合が付かないので、替わりに妹の私の腕前を見たという訳なの」
「そうです、その通りです。いやぁー参りましたよ、とんでもない結果になってしまいまして」
「駄目だったの?」
「とんでもない、その反対ですよ。由美ちゃんが、並み居る警視庁の猛者をなぎ倒したんですから、大変なことになってしまいました」
「強い者が勝つ、ただそれだけでは、ございませんこと?」
「まあ確かに、そうなんですけどね。想像して下さいよ。剣道、柔道、合気それぞれの猛者が、可愛い女子高生に完膚無きまでに叩きのめされたんですよ。まったく、後が大変でした。日頃はヤクザ相手に睨みを利かせている連中が、泣きべそをかいているんですから、参りますよ」
 車は、要町交差点を左折し、山手通りへ入った。混んではいるが、この道を真っ直ぐ走れば目黒区青葉台。すなわち、北御門邸の近くまで一直線の道程だ。混雑した道路を運転するのは大嫌いな筈の熊田であったが、今はすこぶる機嫌が良いらしく、鼻歌なんぞが出てくる始末だ。

「熊田さんは、由美ちゃんとは戦わなかったのですか」
「組み付いたら、あるいは勝てるかも知れませんけどね。ストリートファイトならとてもとても。“君子危うきに近寄らず”ですよ」
「あら、熊田さん君子でしたの。わたくし存じませんでした」
「いやだなぁー、麗子さんからかわないで下さいよ」
 警視庁第四課、通称マル暴の熊、いつもなら怒り狂うところであるが、逆にやに下がっている。
「姉ちゃん、とっても気持ちが良かったよ。久しぶりに力一杯暴れることが出来たんだもの」
「ちょっと、質問してよろしいかしら」
「な、なんでもどうぞ」
 熊田に対する質問でもなかろうに、彼は横合いから口を出した。
「合気、柔道はまだしも、剣道とはどのように戦ったの? 由美さんが、防具を着けるなんて想像できませんもの」
「そ、その通りです。由美ちゃんが、汗くさいから厭だと言って面を着けないんですよ。それで、素面、素小手の試合になったんですよ」
「だって、本当に臭いんだもの」
「それで、防具を付けないで竹刀で打ち合ったんです」
「まぁ、それでは、剣道家の皆さんが、あまりに可愛そう」
「ど、どうして解るんですか?」
 熊田は、一瞬運転中であることを忘れ振り向いた。
「だって、由美さんは、門外不出、一子相伝の北御門流免許の腕前なんですもの、並の武道家では歯が立つはずは、ございませんことよ」
「まったくです。警視庁流は剣道の王道だ。都の大会で入賞の五段だと、威張っていたのが全く歯が立たないんですから、ざまあないですよ」
 柔道家の熊田は剣道家に対して含むところがあるらしい。由美にやられたのは、柔道家も同じ筈なのだが、巧妙に話を逸らそうとする。

「なあ、由美ちゃん、剣道の試合では問題にならなかったよな」
「全然話しにならなかったわ。だって、姉ちゃん、体捌きが出来てないんだから。防具を着けて打ち合う稽古ばかりしているから、ああなるのかしら」
「あら、そうなの」
「由美ちゃん、お姉さん技術的なことを話しても駄目だよ。麗子さんは、武道は駄目だけど、しとやかで美しいところが最大の魅力なんだから」
「あら、熊田さんありごとうございます」
 麗子は、ミラー越しに、熊田に、にっこり微笑んだ。笑顔に見取れ、興奮した熊田は思わずアクセルを踏み込んだ。前を走る車のリヤーバンパーが急接近する。今度は、ブレーキを踏み込む。
 麗子と由美は前のめりになった。後ろからクラクションが鳴らされる。

「熊田ぁー! 兄ちゃんに言い付けるぞ」
「ごめん、由美ちゃん。安全運転でいくよ」
 そう言うと、不安そうな顔で熊田は、ミラーで麗子の様子を伺った。麗子は微笑んだままである。
「ちょっと変だな。熊田さん勘違いしているよ。姉ちゃんが綺麗なことは本当だけど、武道は駄目じゃないよ」
「えっ、そ、そんな。本当ですか?」
 彼の心に鎮座する、麗子像が少し揺らいだ。
「本当よ。北御門家の兄妹は、上に行くほど武道の才能があるって、スケベーな貴船伯父さんが言ってたわ」
 スケベーはよけいだろうが! でも当たっている。
「と、いうことは、麗子さんの武道の腕前は・・・・・」
 ミラーの中の、熊田は眼を剥いている。
「わたくし、武道はたしなみませんわ」
 爽やかに麗子は流す。
「熊田さん、高校総体の話し聞きたい?」
「高校総体って?」
「姉ちゃんが陸上で活躍したの」
「陸上? 麗子さん、陸上競技やってたんですか」
「いいえ、しておりませんわ」
「えっ、それって?」
 熊田は、まったく理解できないとばかりに、首をかしげた。
「熊田さん、お姉ちゃん陸上部でやってた訳じゃないの。総体の前日、急に欠員が出て、陸上部の先生が姉ちゃんに頼み込んで、仕方なしに総体に出場することになったの」
「そ、それで」
「短距離の百メートルと二百メートル。走り高跳びとやり投げに出場したわけ」
「それで、それで・・・・・」
「すべてに優勝。しかも、当時の大会新記録だったのよ。そうよね、姉ちゃん」
「まあ、そうだわね」
「“まあ、そうだわね”って、大変なことじゃないか。練習もせずに優勝か!」
「そのあとが大変だったんだから。わたし小学生だったけど良く覚えている。毎日、家の前に男の子達が集まっているの。“立教の白いカモシカ”とか言われて大騒ぎだったのよ」「そんなことも、あったわね」
「“あったわね”じゃないですよ麗子さん。素人が突然出場した、高校総体で大会新記録をだすなんて。学校や陸連の方から誘われて大変だったでしょ、陸上競技の方はどうなったんですか?」
「それっきりです」
「それっきり?」
「そうです。全力で走ったり、飛んだりするなんて野蛮なことは嫌いですわ。ましてや、汗をかきながら、努力するなんてとんでもないことです。皆さんお引き取り願いました」 惜しいことに、麗子は自分の才能を、汗をかきながら努力するのが厭だという理由で、あっさり棒に振り、一顧だにしていない。 

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