永久に未完の組曲
麗子の内なる事情の巻(4)



 

 麗子は、ゆっくりと腕を上げ始めた。皆の目線は、彼女の持つ拳銃に釘付けになった。
熊田は目を見開いている。麗子の手にあるのは、彼の愛銃、S&W、M3913、オートマチックではないか。警視庁、捜査四課で使われている特殊な銃であった。

 風の音が響くだけで、妙に静まりかえった場所に、言葉を発する者はなく、ゴクリと唾を飲み込む音が方々から聞こえてくる。
 彼女の瞳には乱れはない。切れ長の眼からの視線は並み居る人々には止まらず、遠山を見つめるようである。
 武術の達人が、戦いに望むときの目つきだ。まったく動揺はうかがえず、あらゆる状況に対応できる体勢にある。ここに集まる人間で、そのことが理解できるのは、おそらく由美だけだろう。
「姉ちゃん・・・・・」
 由美が、恐る恐る呼びかけるが、麗子は拳銃を持った右手を真上にかかげたまま、彫像のように動かない。長い黒髪が風にゆれる。
「どうしたのかしら、いつもの、お姉ちゃんじゃないみたい」
 摩美もゲンに囁きかけた。しかし、ゲンの蒼白になった顔からは、返事はない。後ろの方でたむろしていた族は、ジリジリ逃げだし始めている。

 麗子は動かない。彼女はこの場の風景に共感するところがあった。完成することなく朽ちていく廃墟。役目を終わった廃墟のような哀愁は何処にもない。ここに存在するのは、成就することのない宿命に対する怒りだった。
 剥き出しの鉄筋越しに、新宿副都心の高層ビル街が見える。ビルの窓ガラスが、夕日を反射する。橙色の眩い光が、麗子の心にしみ込んでいった。

 バーン! 拳銃が火を噴いた。まさか! と誰もが思った。
「あっ!」
「きゃぁー!」
 一瞬の静寂の後、悲鳴が方々で上がり、蜘蛛の子を散らすように、若者たちは、逃げまどう。
“ギッ、ギギッー”急発進する車輌が、悲鳴をあげて潰走していく。

「れ、麗子さん・・・・・」
 熊田は、信じられないという顔で彼女を見つめている。
「あら、熊田さん。私の申し上げた、とおりでしうょ」
「えっ、」
「二、三発、ぶっ放せば、片づくと申しましたわね」
 何事もなかったように、麗子は言い放った。
「そ、その通りですが・・・・・」
 さすがの、警視庁四課の猛者、熊田警部も度肝を抜かれて、思うように言葉が出てこない。
「ご心配は、解りますけど、たかが始末書を書けばよろしいんじゃなくって。暴れ回る暴走族を鎮圧するために、空に向かって撃ったとかいって」 
「暴れ回ってなんか、いません・・・・・」
 泣きそうな声を出したのは、特攻隊の隊長ことヤスであった。見回せば、族はこの場から完全に消滅していた。残ったのは、ヤスと、族OBのゲンだけだった。
「お姉ちゃん、格好いい!」
 摩美は、口を半開きにしているゲンを捨て置き、駆け寄ると麗子に抱きついた。彼女の降ろした右手にはまだ銃が握られている。摩美が、細い麗子の身体を抱きしめ、犬のように嬉しそうに頬ずりをする。
 由美が、かけ声を掛けた。
「やっぱ、姉ちゃんが最強だ!」
 さすがの彼女も兜を脱いだようだ。彼女は腕組みをしたまま、何度も頷いた。
 熊田は、恐る恐る近づくと、麗子の手から銃を取り上げた。彼の手に帰った銃をもつ腕の震えが止まらない。麗子は、横目でそれを見ると軽く微笑んだ。

「摩美さん、今日の食事当番、あなたじゃなくって?」
 麗子は、頬ずりをする、摩美の耳にささやいた。
「お姉ちゃん、お願いがあるんだけど」
「なんなの?」
「さっき、お兄ちゃんから、晩ご飯はいらないという連絡が入ったから、今日は焼き肉を食べに行こうよ。いいでしょ・・・・・由美ちゃんもそう思わない?」
「やった! 行こう、行こう」
 焼き肉は、由美の大好物だ。
「でも、高く付くわね」
「お姉ちゃん、たまになんだから、いいじゃない」
「わかったわ。じゃ、皆さんもご一緒しませんこと」
「ぼっ、僕もですか?」
 ヤスが、僕なんて言葉を使うのは、おそらく何年ぶりのことだろう。
「ええ、ご一緒にどうぞ」
 麗子の返事を聞いたヤスは、ゲンの顔を見た。ゲンは大きく頷いた。その表情は、お近づきになっておけ、と言いたげであった。
「じゃ、六人でなごやかに夕食にいたしましょう。良いですわね熊田さん」
「よ、良いですなぁ」
 始末書のことは忘れたかのように、熊田は嬉しそうに答えた。
「では、まいりましょう。お勘定は熊田さんがもたれるそうです」
「そっ、そんなぁー!」
「熊田さん、お願いしますわ」
 麗子は、ニッコリ微笑みかけて、手を合わせた。とたんに、熊田の顔から緊張感が抜け、だらしなく緩んでしまった。
「いいですよ。焼き肉ぐらい!」
「熊田さん、ステキ!」
 摩美は、今度は熊田の首根っこに抱きついた。“これもまたいいな”とでも言いたげに、彼の顔は緩みっぱなしになっている。

「タン塩にハラミを四人前づつと、ミノも四人前お願いね」
 席に座るなり、メニューも見ることなく摩美が注文した。
「ヤスさんと言ったわね。あなたも好きのものを注文しなさいよ、遠慮することはないんだから」
 摩美は人の世話まで始める始末。ようは、色々なものが食べたいだけなのだ。
「摩美ちゃん、此奴らはいいんだよ」
 熊田が不愉快そうに言った。その横で、ゲンが首をかしげた。此奴らの中には自分が入っていると、悔しいが思うらしい。
「気にしないでいいのよ。さあ、はやくぅ」
 摩美のヤスに対する、なれなれしさが気になるのか、ゲンが渋い顔をする。
「では、カルビをお願いします」
「あっ、それいい。摩美も大好きよ。特上カルビを八人前お願いね」
「と、特上だと! 八人前! お前なんか、ホルモンで十分だ」
 そう言うと熊田は、ヤスの頭をどついた。
「摩美さん、もうそれくらいでいいんじゃないの」
 麗子が、熊田に助け船を出した。
「そうよ、また後で注文すればいいんだから」
 由美が、熊田をまたしても絶望の淵から突き落とす。

「ヤスさん、このカルビ美味しいわよ。遠慮しないで食べなくっちゃ」
 真っ先に手を付け、しこたま食べた後に摩美が言った。
「ガキは、キムチで飯を食え。その後でカルビを許す。たまったもんじゃないぞ、まったく」
 熊田は、不愉快そうだ。
「摩美ちゃん、タン塩もおいしいよ」
「そう・・・・・うん、すごく美味しいね! 由美ちゃん」
 二人は、ガキのうちに入らないと思っているのか、あるいは、熊田をぜんぜん問題にしていないのだろうか。
「あっ、麗子さんは、ご飯なんて後にして下さい。俺が運転しますから、遠慮なしにビールにカルビでやって下さい」
「あら、このキムチとても美味しいわ。ご飯も美味しい」
 麗子もまた、熊田のことを全然気にしていない。

「お兄ちゃんに、お土産に持って帰ろうよ。とても美味しいんだもの。でも、まあいいか! お兄ちゃんはもっと美味しいものを、いっぱぁーい食べるんだろうし」
「摩美さん、お兄様から連絡があったと言いましたわね。今日はどのような御用件で遅くなると聞きましたの?」
「取引先の接待と言ってたよ、飲んで帰るんだって。クラブかなんかに、行くんだろうな。いいなぁー」
 それを聞いた、麗子の眼がキラリと光を帯びた。
「総務部で、取引先の接待があるのかしら・・・・・」
 誰に言うともなく、麗子はつぶやいた。

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