永久に未完の組曲
麗子の内なる事情の巻(5)



 

 午前一時を回っていた。青葉台の北御門家の門灯が、ぽっかり住宅街の中で浮かび上がっている。巨大な門扉と高い塀に囲まれた北御門邸の内部は外から窺うことはできない。 広大な邸内に在宅しているのは、うら若き乙女が三人だけであった。
 ゴシック風を模した、様式建築の窓から光が漏れているのは、麗子の部屋からであり、他の二人のうら若き乙女は、就寝あそばされているらしい。
 レースで縁取りされた、白絹のパジャマの上に、光沢のある濃紺の、薄いサテン地のガウンを羽織り、麗子はパソコンの画面に見入っている。ときおり、細いしなやかな指がマウスを動かす。長い黒髪を後ろに束ね、心持ち首をかしげる横顔は、憂いを含んでいるように見えた。

 午前二時を回った。麗子の姿勢は一時間前と変わらない。彼女の八畳の部屋は、入り口から突き当たったところにフランス窓があり、二重のカーテンが掛かっている。左の壁は一面、天井までの造り本棚になっていた。
 大きな机の他に、小さな机が二つあり、パソコンが三台(一台はノートパソコン)スキャナー、プリンター、FAX、等々、電子機器が所狭しと並んでいる。他には、ベットとウオークインクローゼットがあるだけで、美的見地から置かれたもの、配慮されたものは、絵、花、その他一切無い。機能だけを追求した部屋では、麗子の存在だけが、美を醸し出していた。

 ピクリと麗子の細い眉が動いた。彼女は微かに何かを感じたらしい。それは、耳を澄ましてもほとんど聞き取れない、門の前に止まった車の音であるらしかった。
 ほほづえをしていた左手を外すと、パソコンのスイッチを切り、彼女は立ちあがった。
部屋を出て、廊下の明かりを付けキッチンに向かう。彼女の繻子のスリッパは、ほとんど音をたてない。ガウンが少し空気を乱すだけで、静かである。
 麗子は、コンロに湯を掛けると、キッチンを後にして玄関に向かった。彼女は、玄関の灯りを付けると、しばしその場にたたずんだ。

“カチリ”鍵を外す控えめな音がした。大きなドアが外に向かってゆっくり開いていく。貴彦が、片足を玄関に入れた時だ。
「お帰りなさいませ。お兄様」
 麗子は、深々と頭をさげて、兄を迎えた。
「れ、麗子! まだ起きていたのか?」
「紅茶を入れますわ。どうぞリビングへ」
 麗子は、先に立ってリビングへ貴彦を誘った。長身の彼の背が丸くなって、申し訳なさそうに後に続く。
 リビングのソファーに腰を沈めた貴彦は、酔いが覚めたのか青白い顔をしている。
「お兄様、お風呂に入っていらして下さい。お湯からあがったら、紅茶とフルーツケーキを用意しておきますから」
 水差しと、氷の入ったグラスをテーブルの上に乗せると、麗子は微笑みながら言った。彼女の笑顔からは、皮肉な表情はまったく窺われない。兄に仕える風貌からは、氷の微笑のかけらもない。

「麗子、もう遅いからお前は早く寝なさい」
 貴彦は、申し訳なさそうにボソッと言った。
「仕事での接待とお聞きしましたが」
 麗子は優しく話しかける。
「うん、社長の個人的な付き合いに駆り出されたんだよ」
「クラブに行かれたんですのね」
「どうして、知ってるんだ!」
 貴彦は、氷で冷やしたグラスの水を飲み込んだ。
「摩美ちゃんが、言ってましたよ」
「お、俺はそんなことは言ってない!」
「でも、行かれたんでしょ。そうですよね?」
「う、うん・・・・・まあ」
「綺麗な女性がいらしたんですよね?」
 ソファーに腰を下ろしていた麗子が、左手で髪を掻き上げた。
「そ、そうでもないよ」
「わたくしと、どちらが綺麗?」
「えっ・・・・・」
 貴彦の眼が、見開かれた。
「わたくしも、アルバイトにクラブに行こうかしら」
「ばっ、バカなことを言うな。許さん! 絶対に駄目だ!」
「なぜですの? 予備校の講師より実入りもいいかも知れないし」
「駄目なものは、駄目だ!」
 貴彦は、ソファーから身を乗り出した。
「あら、論理的ではないんですのね。お兄様、もしかして、わたくしが美しくないので駄目なんですか?」
 麗子は、いかにも悲しげなポーズで、貴彦の顔をのぞき込んだ。
「そっ、そんなことは断じてない! お前よりも綺麗な女がこの世にいるものか!」
「あら、そうですの」
「そ、そうだ・・・・・間違いない」
 貴彦から、望みの言葉を引き出させた麗子は、勝ち誇ったように微笑んだ。
「ちょっと、湯を浴びてくるよ」
 貴彦は居たたまれなくなったのか、上着を脱ぐと風呂場に向かった。ソファーの上に脱ぎ捨てられた上着を、麗子はハンガーに掛けた。その時、彼女はポケットに手を入れ、一枚の小振りな名刺を取り出した。そこには、“クラブ葵、愛”とあった。そのまま、名刺は彼女のガウンのポケットに入った。北御門家が眠りに入るのは、まだもう少し時間が掛かりそうであった。


「北御門君は居るかな?」
 三階の総務課の部屋に、社長が気さくに顔をだした。部屋の職員は驚いて立ちあがった。堀田課長は直立不動になっている。
「みんな、楽にしてくれたまえ」
 そう言いながら、山尾社長は貴彦のところへやって来た。
「北御門君、今日は火曜日だから予備校のアルバイトはないだろ」
「はい、ございません」
「だったら、今夜、私に付き合いたまえ。いいね」
「は、はい」
 社長が、わざわざ貴彦の席にまで来て言葉を掛けたのである。他に返事のしようがあるはずがない。
「では、六時半に出かけるから、そのつもりで」
 そう言い置いて、社長は総務課を後にした。貴彦は部屋の皆を見渡した。羨望と嫉妬の鋭い眼光が、彼に向かって突き刺さる。堀田課長などは、禿頭から湯気を出し怒り狂った眼を貴彦に向ける。
“社長には参るな、もう少し気を遣って欲しいもんだよ”そう思った貴彦の視線が、山下美智子に止まる。彼女だけは、貴彦を見ていない。そう言えば、木更津のホテルでの事件以来、彼女は眼を合わせようとせず、彼を避けているのだった。
“麗子にも参るよ”
 貴彦は、社長と同じく麗子にも、もう少し気を遣って欲しいと思った。
 
「今日の、食事当番は確か麗子だったな」
 そう呟きながら、貴彦は階段のところに行って、携帯電話を掛け始めた。
「あっ、麗子か、俺だけど。今日は、仕事の接待で遅くなるから晩飯はいらないよ」
「遅くなるのですか?」
「それほど、遅くはならないつもりだ。この前みたいに起きてないで早く寝なさい。解ったね」
「承知致しました。お気を付けて」
 今日と同じように、社長のお供をして午前様になってから、十日は経っていた。

 
 クラブ葵は、赤坂にある高級クラブである。三人は、ボックス席に座っていた。貴彦と山尾社長、それに社長の友人の、藤野という不動産業を営む、中小企業の社長であった。昔気質なところがあるが、気のいい三代目山尾社長は、貴彦をことのほか気に入っている。この前、藤野社長に紹介されたところ、彼もまた、いたく貴彦のことが気に入ったようであった。
 社長の同級生の藤野は、景気がいいらしく、毎晩飲み歩いていると言う評判だ。頭が禿げあがり、肥満した身体は六十歳という年の割には、精力絶倫という感じである。会社を一代で築いた自信にも溢れている。
 席には、女性が三人着いていた。一人は濃い萌葱色の和服、もう一人は、薄いグリーンのテーラード・スーツに短いタイトスカートで、ボーイッシユに決めている。一番若いホステスは、短いキャミソール・ドレスを身に着け、貴彦の横に座っていた。

「おい、弥生。ママはどうした?」
「まぁー、社長たら。来る早々、ママですか! 私じゃだめなの」
 和服の袖を押さえ、水割りを作りながら弥生が答えた。
「まあ、月とスッポンだな!」
「まあ、ひどい! そんなんだから、もてないのよ。ママは、こちらの山尾社長がお好みみたいよ。藤野社長と違って、紳士ですもの」 
「バッカだなぁー、こういう紳士面の男こそ、スケベーなんだぞ」
 気心を知った友人同士、好きなことを言う。 
「あら、厭らしいって、ステキだわ。興奮しちゃいそう。ねえ、社長!」
「なんだ、沙樹は山尾が好みか!」
「そうよ、ねー社長」
 そう言いながら、沙樹は山尾の手を、タイトスカートから顕わになった腿に誘うと、ニッコリ笑いかけた。
「あら、愛ちゃんは、北御門さんにぞっこんみたいね! しかたない、私は藤野社長の相手でもするか!」
「ばかもの、お前なんぞはママの来るまでのつなぎだ!」
 藤野と弥生は、お互いに見つめ合って笑い出した。

 愛は、先ほどから発言しない。手を貴彦の腿にあて撫でている。紅く染めた頭を、貴彦の肩から胸に預け、時々、うっとりした瞳で彼を見つめる。ミニドレスは、太腿まで捲れあがり、すらりとした足は太腿まで顕わになっている。
 肩紐で吊したキャミソール・ドレスの、胸倉は大きく開き、白い乳房の谷が、貴彦の眼に入る。彼は身を固くするばかりだ。愛は、それを面白がるように段々と大胆になっていく。

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