「おい、ママはまだか、呼んで来いよ!」
待ちきれないように、藤野が言った。
「社長さん、もうすぐ来ますから少し待って下さいな」
弥生の顔が真剣になった。
「弥生さん、そんなに大切な客なのかい?」
藤野はこの店にとっては、上得意の筈である。どうやら、山尾も少しばかり気になってきたらしい。
「ええ、まあ・・・・・」
「なんだ言いにくそうだな」
「山尾社長、そんなことないんですけどね・・・・・実は、山中さんなんですよ」
そういうと、弥生は振り返って奥の方のボックスを覗いた。そちらも男が三人いた。その内の一人は、こちらと同じように若い男であり、他のふたりは、年配であった。一人の方は六十歳過ぎに見えるが、二人とも、こちらより遙かに紳士に見える。
「お、おい、弥生! 山中ってもしかして?」
藤野が声を潜めて言った。
「おい、藤野。どうしたんだ?」
山尾が怪訝そうに尋ねた。
「俺のように、不動産業をやっていると、きれい事じゃ済まないこともある。弥生! どうなんだよ?」
「藤野社長の思ってる通りよ。吉田会の山中会長さんです」
「やっぱりな!」
「おい、藤野。吉田会って・・・・・」
「その通りだ。関東最大の広域指定暴力団だ」
「でも、安心して下さいな。藤野さんより、よほど紳士ですから」
弥生の言うとおり、こちらのボックス席より、向こうの方が遙かに紳士に見えることは間違いない。ただ、若い男は、店全体に神経を張りつめて注意しているのが、貴彦には解った。おそらく、ボディーガードなのであろう。
「貴彦さん、電話して下さらなかったのね。わたし待っていたのよ」
愛は、貴彦にしなだれかかると、耳元に唇を着け、くすぐるように言葉を吐いた。貴彦の身体は、ビクンと反応した。
「いえ、そのう・・・・・め、名刺をなくしたんです」
「あら、あの名刺をなくしたの。携帯の番号も書いていたのに」
愛は、姿勢を正すと新たな名刺も持ち出し、携帯の番号を書き出した。自分の胸の谷間が貴彦の眼に入るように気を配りながら。
「はい、今度はなくしちゃだめよ。それから、罰にあなたの名刺に自宅の住所を書いて、ちょうだいな!」
貴彦は、詫びを言いながら、名刺を取り出すと律儀に住所を書き出した。
「おい、おやすくないな。愛ちゃん、いい男だろ」
「山尾社長さん、わたし好きになちゃった。いいでしょ」
「そ、そりゃ構わんよ。この男はな、若いのに妹を三人も抱えて養っている、優等生だ。あまりに優等生過ぎて、人間に厚みがないところが欠点だ」
「ふぅーん、そうなんだ」
愛の眼がキラリと光った。彼女が足を組み直すと、太腿までが顕わになった。
「山尾社長は、むろん、わたしよね。それとも、わたしじゃ不満かしら?」
そう言うと沙樹は、掴んでいた山尾の手の平を、胸のところに持って行った。彼女は若い二人に邪魔が入らないように、配慮したのかも知れない。
「貴彦さん、恋愛経験は?」
愛は、貴彦の名刺をバックにしまいながら言った。
「恋愛経験ですか」
「そうよ、まさか女性と経験がないなんてことはないでしょ」
「好きな人は居ました。結婚も考えていました」
「でも、駄目になった・・・・・よかったら話してくれる?」
「・・・・・突然でした。いつもの、恵比寿ガーデンプレイスで会ったときのことです。いきなり、平手打ちをされました」
「そ、それって。どうかしたの?」
「まったく、解りません。妹にも紹介して、順調に付き合っていたんですが。でも、もう忘れました。彼女とは縁がなかったんです」
「でも、不思議よね。なにか理由があったはずだわ」
愛は、話しにつり込まれたように、真剣な顔になってきた。手玉にとっやろうという気持ちは無くなってきたのだろう。年下の彼女の方が、貴彦を愛おしむように見える。むしろ、こちらの方が、ある意味で彼にとって危険である。
「・・・・・思い当たりません。ほんとうに・・・・・でも、最後の時、“ケダモノ”と罵って、涙を流して去っていきました」
貴彦にとって、もう薄れ掛けていた記憶がよみがえってくる。
「セックスの時、変態行為でもしたの?」
「と、とんでもありません。ふ、普通のはずです・・・・・」
「そうよね、もしそうだったら、行為の終わった後に言うはずだもの。何日も経って、突然、公衆の面前でなんて、本当に不思議だわ」
先ほどまでの、艶っぽい雰囲気がまるで変わって、二人の間には沈鬱といたわりの感情が流れ始めた。
「やっぱり、お姉ちゃんの料理が最高だわ。由美ちゃんも、そう思うでしょ」
「うん、それは言えてる」
北御門家の夕食は終わった。貴彦を待つ必要がなかったので、時刻は意外に早く、七時半になったばかりであった。
「二人とも、おだてには乗りませんよ。さあ、後かたづけを手伝って下さいな」
食事を作るのは当番制だが、後かたづけは食事をしたもの全員ですることに決まっている。
「それにしても、お兄ちゃんはだめだね。ときどき、味覚音痴じゃないかと思うほどだわ」
「摩美さん、そんなことを言うもんじゃありませんよ。あなた達が、ほんとに小さい頃から、お兄様は一所懸命、食事を作っていらっしゃったんですから」
「はぁーい」
摩美も兄には心から感謝しているのはたしかだ。しかし、つい何か言いたくなるのだろう。
「だけど、姉ちゃん」
「なあに、由美さん」
「兄ちゃんって、出来ることと出来ないことの差が、極端だとは思わない?」
食器を洗いながら、由美が珍しく感慨深げに言い出した。
「由美ちゃんの言うとおりだわ。けっこう頭は良いみたいだし、暴力なんてむちゃくちゃすごいじゃない。でも、私たちに危害が及びそうになった時、だけなんだけど・・・・・」
「そうよ、摩美ちゃん。日常生活については、どう見ても半人前にしか思えないじゃない。それに引き替え、姉ちゃんは・・・・・」
「そう、何をやっても、完璧に出来ちゃうんだから」
二人の意見は一致した。お互いに見つめ合いながら頷いている。
「そんなことは、ございませんことよ」
「えっ、お姉ちゃんにも出来ないことがあるの!」
「わたくしにも、どうしても出来ないことがあるのよ」
麗子は、すこし寂しそうな顔をした。
「由美ちゃん、信じられる?」
「信じらんなぁーい」
「おしゃべりはそれくらいにして、早く片付けましょう。終わったら、デザートにいたしますよ」
「デザートは、なぁーに」
摩美が、期待を込めて麗子を見つめる。
「チョコレートケーキですわ」
「やったぁー!」
由美は、チョコレートが大好きである。
「それと、わたくし、あと一時間もしたら出かけますから、お二人は留守番をお願いね」
「姉ちゃん、デート? まさか、熊田じゃないよね」
「由美ちゃん、それは、お姉ちゃんに対して、失礼よ」
「でも、美女と野獣という言葉もあることだし」
おしゃべりは、延々と続いていく。摩美と由美の口をふさぐことは、ほとんど不可能に近い。
「では、お留守番をお願いね。それほど遅くはならないと思うけど、寝るときは、きちんと戸締まりをして下さいね」
リビングで、テレビを見ていた二人に、麗子は声を掛けた。
「お、お姉ちゃん、綺麗!」
「姉ちゃん、格好いい!」
麗子は、濃紺の絹のドレスを身にまとっていた。胸元から襟首に掛けては、白い陶器のような肌をしている。長い黒髪はアップしされて、細面の顔は、侵しがたい気品を漂わせている。オフショルダーに広げられた胸元は、フリルになっており、タイトスリーブの袖口は、レースになっている。縊れたウエストは、背後から編むように紐で絞られ、ベアバックと称されるように大きく開いている。
形の良いヒップから下は、絹地がよったりと踵にまで延びて、いわゆる、トランペット・ラインのドレスである。薄いブルーのショールを掛けた麗子は、ヨーロッパの貴婦人を彷彿とさせた。
「綺麗だぁー!」
どうしたわけか、摩美と由美が抱き合って、飛び上がりながら叫んでいる。
麗子は、門扉をから出ると鍵を掛け、通りに出た。黒いハイヒールと、黒いハンドバックを小脇に抱えていた。
タクシーはすぐに拾えた。行き先を尋ねべく運転手が振り向いた。彼は、麗子を見て、目を見開き、口を半開きにした。彼女はハンドバックを開けると、小振りな名刺を取り出し行く先を告げた。
タクシーは発進した。行き先を、赤坂のクラブ葵と聞いた運転手は、首をひねっている。
「赤坂プリンスホテル、じゃないですよね?」
と余計な確認をする。職業柄、クラブのホステスを乗せることの多いが、明らかにホステスの雰囲気とは違っていると思うらしい。
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