永久に未完の組曲
麗子の内なる事情の巻(7)



 

 国道246号線、通称、青山通りは混雑していた。車のライトと、道に連なる店舗の灯りが交差し、反射した光が、麗子の横顔を魅惑的にする。
 気になって仕方がないらしく、運転手はバックミラー越しに彼女をチラチラ窺っている。麗子は、姿勢を正し、真っ直ぐに正面を見続けている。
 外苑前を過ぎると、車の流れは順調になった。窓の外には、暗く木々の影が見受けられようになった。麗子はまなじりを決していた。彼女には、心に帰する所がある。
 先日の木更津での出来事など、ものの数ではない。今まで、数多くあったことだ。一番困難だったのは、貴彦と恋人との仲を裂くことだった。その時、彼女はなりふり構わなかった。相手の女性に嫌悪を感じた訳ではない。それどころか、本当に素敵な女性であった。それだけに、なおさら麗子は許せなかった。彼女は、自らの深い業を自覚している。その為には、鬼になることにも、ためらいはない。

 瀟洒なビルの前に、車は横付けされた。飲食店の入居しているビルであった。
「お世話様です」
 行き先を告げて以来、はじめて麗子は口を開いた。
「いえ、こちらこそありがとうございました」
 運転手は丁寧に挨拶を返した。
 タクシーから降りると、ビルの横に小さなネオンが灯っていた。その前には、生花が飾られていた。クラブ葵は地下であるらしい。麗子は、胸を張り地下に続く絨毯に覆われた階段を、ハイヒールで一歩一歩、確かめるように降りていった。
 軽くノックをして、麗子は扉を開いた。彼女の耳に内部のざわめきが響いてきた。姿勢を正し、彼女はゆっくりと内部に入って行った。左右の人々を気にも止めずに、颯爽と歩いていく。彼女の、気迫とオーラを感ずるのだろう、黒服のボーイが慌てて、彼女の行く手を空ける。

 広いフロアの端に、すっくと立ち止まった麗子は、ゆっくりと室内を睥睨した。鋭い視線を感じたのか、室内の喧噪は波紋が拡がるように、徐々に静まっていく。方々のボックスから顔が覗く。沈黙が支配した室内からは、バックミュージックがむなしく響いている。
 麗子は、この場に貴彦が居ないと直感した。しかし、すぐに山尾社長の姿を認めた。先ほどまで貴彦は、ここにいたはずだと確信を持った。
「あのう、なにかご用でしょうか?」
 四十過ぎの、和服の女性が、裾を切りながら麗子に近づいてくる。接客業で長年鍛えたのであろう、物腰にそつがない。この店のママであることは一目で分かった。
「失礼致しました。わたくし、兄を捜しに参りました」
「お兄様? 何と仰いますの」
「兄の名は、北御門貴彦と申します。わたくしは妹の、麗子でございます」
 自己紹介をしながらも、麗子の姿勢は崩れない。幾多の修羅場を潜ったと思われるママが完全に気圧されてしまったらしい。無意識に、上体が浮きあがり、半足分あとすざりをしている。
 
「やあ、君は確か、北御門君の妹さんじゃなかったかね」
 山尾は席を立ち、麗子の方に歩み寄ってきた。
「さようでございます。ご無沙汰致しております、その節はお世話になりました。覚えて頂けて光栄に存じます」
 麗子は、はじめて頭を垂れ挨拶をした。
「いや、これは痛み入る。あなたのような美しいご婦人を、忘れるわけがありません」
 山尾の言葉使いも麗子に影響されたのか、声を掛けてきたときとは変わってしまった。敏感に、何かの異変を感じたのかも知れない。
「どうして此方へ、いらしたのですかな?」
「兄を捜しに参りました」
「お兄さんを? 何か急用でも・・・・・しかし、なぜ此処が解ったんですか?」
「兄の行動で、わたくしに解らないことはございません。つい先ほどまで此方にいたはずでございます」
 場内は、水を打ったように静まって、二人の会話を聞いている。ママはその場に立ち尽くし、動くことが出来ないようだ。
  
 奥のボックスから、一人の紳士が麗子の方に歩いてきた。顔には穏やかな笑みを受かべている。五十過ぎの上背のあるスマートな男であった。
 麗子は、軽く会釈をすると、彼女の方から先に声を掛けた。
「高木さま、ご無沙汰致しております」
「やあ、麗子さん。いかがなさったんですかな。まさか、こんな所でお会いするとは思いも寄りませんでしたよ」
 高木と呼ばれた男は、外見じょう、いかにも紳士であるが瞳の奥に鋭い光を宿している。「た、高木さま・・・・・このお嬢さんをご存じなんですか?」
 ママは、高木と麗子が知り合いだと言うことが、意外だというように質問した。
「御老公の親しい友人ですよ」
「ごっ、御老公と申しますと・・・・・白山の御老公・・・・・?」
「私が、御老公と申し上げるお方は、他には居りません」
 ママは、放心したように口を開けたままになった。山尾は、今ひとつ会話が理解できないが、何か大変なことになっている思ったらしい。
 高木は、吉田老人の側近で、広域指定暴力団、吉田会にも隠然たる影響力を持っている。その筋の人間ならば“影の頭”と畏怖され、噂されていることは、高級クラブのママならば、当然承知しているはずであった。

 奥のボックスから、もう一人恰幅の良い紳士が麗子の方にやってきた。仕立ての良い高級スーツを身にまとった男は、一見、大企業の社長という雰囲気だ。年の頃は、山尾とほぼ同じ、六十歳過ぎであろう。
「高木さん、どうしましたね?」
「会長、実はこのお嬢さんは、御老公の親しいご友人で、孫娘のような関係のかたなんですよ」
 会長と呼ばれた男こそ、関東最大の暴力団、吉田会の山中会長であった。二人の大物がわざわざ、出向いて麗子の所まで挨拶に来たのだ、フロア中が緊張感で、凍りついたように静かになった。
「それは、それは、私は山中と申します。以後お見知りおき下さい」
「痛み入ります。わたくし、北御門麗子と申します」
 二人は自己紹介をした。
「北御門? ほう、珍しいお名前ですな」
「はい、本家は京都でございます」
「京都? もしかして、北御門貴舟さまの、ご縁者ではないでしょうな?」
「はい、貴舟は伯父でございます。伯父をご存じなのでしょうか?」
 山中の顔に、一瞬、緊張が走りすぐに元に戻った。彼は、貴舟と面識があった。日本最大の広域指定暴力団、野中組の相談役として紹介されたことが、あったのだ。
「はい、存じあげております。なかなか、ご立派な伯父様ですな」
「そのようなことは、ございません。どうしようもない“色ぼけ”ですわ」
 麗子はさらりと言い放った。
「いっ、色ぼけ!」
 さすがの山中も度肝を抜かれたらしい。貴舟のことも然りながら、淑女たる麗子の口からもれた発言とは思えなかったのだろう。彼女にとっては、ごく自然な発言なのだが。

「麗子さん、お兄様をお捜しだと、伺いましたが?」
 高木が本題を切り出した。
「ええ、その通りでございます」
「お話し中、失礼いたします」
 山尾社長が、ごく控えめに割って入ってきた。
「北御門君なら、つい今しがた店を出て行きましたよ」
「どなたと、出て行ったのでございますか?」
 麗子の眼光が、厳しい色を帯びてきた。
「わ、私の友人の藤野と申す男です」
「どちらへ、行ったのでしょう」
「そ、それは・・・・・」
 山尾は、麗子の眼光にたじろぎ、言葉がこもってしまう。
「仰って下さい」
「そ、ソープランドに行くと言っていたんだが・・・・・」
「ソープランドは、色ぼけの貴舟伯父様にまかせれば良いんです。どちらのお店でございましょうか」
 麗子の眼光は、一段と厳しさを増してきた。
「そ、そこまでは知らないが・・・・・け、決して北御門君が望んだんではなく、藤野に無理やり連れて行かれたんです」
 山尾は貴彦の弁護を始めた。それが、己の身を守ることになると、本能的に感じたのかも知れない。
「藤野の奴、ママが相手にしてくれないので立腹したのか、『今頃の若い奴は、性根がない。お前は見所があるから鍛えてやる』とか言って、北御門君を引きずるようにして、店を出て行ったんです」
 これ以上、山尾から聞き出すのは無駄だと知ったのか、麗子はママの方に一歩を進めた。ママはつられるように半歩下がった。
「お伺い致します、藤野とやらは、このお店の常連でございますわね」
「は、はい。さようで・・・・・」
「心当たりがお有りですね」
 麗子の詰問は厳しくママにせまる。ママの瞳には怯えの色が浮かんでいる。
「心当たりと申しましても・・・・・」
「まさか、個人のプライバシーとやらを、持ち出すんではございませんわね。場合によっては、許しませんことよ」
「とっ、とんでもございません・・・・・吉原の高級店によくお出でになると、小耳にはさんだことはございますが・・・・・ほ、本当にそれだけなんです」
 ママの顔は、ほとんど泣き出しそうになっている。

「高木様、吉原の高級ソープに片っ端から連絡を入れて頂けますか。身長185センチの若い男と、年配のスケベー男が、入店していないかと。お願い致します」
 お願いなんぞではない。明らかに命令である。さすがの高木もたじろぐ。
「麗子さん、私は、そちらの方はあまり詳しくはありませんので」
 麗子の視線は、隣の山中に移った。
「山中様だと何とかなりますわよね」
「いや、その・・・・・」
 関東一帯を仕切る、吉田会の会長も押され気味である。麗子を抑えることが出来る者が果たして存在するのだろうか? いや、いる! たった一人いる。


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