永久に未完の組曲
麗子の内なる事情の巻(8)



 

 麗子は、急いでいた。一刻を争うのだ。こんなところで押し問答をしている暇は、彼女にはない。おもむろに、彼女は、ハンドバックから携帯帯電を取り出すと、何処かへ掛け始めた。
「もしもし、あっ、夜分恐れ入ります。お婆ちゃんですか? 麗子です、本当にごめんなさい・・・・・・はい、はい・・・・・・実は、急なお願いがあるんです。お爺ちゃんをお願いできますか?・・・・・・」
 高木の顔がみるみる青ざめてきた。彼には麗子が何処に電話を入れたのか、想像が付いたらしい。  
「あっ、お爺ちゃんですか? 夜遅くごめんなさい。どうしてもお爺ちゃんの助けが必要なんです・・・・・はい、はい・・・・・いま、お爺ちゃんもご存じの、山中会長様と、高木様と、ご一緒してるんですが。どうしても、麗子のお願いを聞いて頂けないんです」
 山中も心配になってきたのか、高木にそっと耳打ちをした。
「お爺ちゃんと言っとるが、もしかして・・・・・まさか」
「その、もしかですよ」
「では・・・・・」
「御老公ですよ!」
 二人の心配をよそに、麗子は話を続けている。
「・・・・・そういう訳で、お爺ちゃんから、頼んで頂けないでしょうか・・・・・はい分かりました。中山様に、お変わり致します」
 ニヤリと笑って、麗子は携帯電話を山中に突き出した。受け取る山中の手が、微妙に震えている。彼は大きく呼吸をすると、観念したように携帯を耳に当てた。

「は、はい、山中でございます。はっ、ははぁー・・・・・決してそのような・・・・・」
 山中は、直立不動で話している。ただならぬ気配に、ママは目眩がしたのか、額に手を当てると、よろめいた。山尾が騎士を気取ってか、慌ててママを支え、軽く肩を抱いた。
「し、承知いたしました。決してご心配には及びません。話しの内容いかんに関わらず・・・・・全面的に協力致します。では・・・・・はい・・・・・失礼致します」
 携帯を切ると、山中は手の甲で、額の汗を拭い、大きく息を吐いた。
「お嬢さん、あんたって人は本当に・・・・・」
「本当に何ですの?」
「な、何でもありません。おい、横田!」
 山中の、怒鳴りつけるような呼びかけに、若い男が飛んできた。横田と呼ばれた男は、敏捷な動きをしている。身体は決して大きい方ではないが、しなやかな筋肉の動きが、スーツを通しても感じ取れる。いささか危険な匂いのする、苦み走ったいい男である。水商売の女性が放っておかないタイプだ。
「人捜しだ! お前、今から事務所に電話を入れ、吉田会を総動員して人捜しだ。吉原の高級ソープをしらみつぶしに当たるように指示をしろ。一人は慎重185の背の高い若い男。もう一人は、六十前後の遊び人風の二人組だ。これは、俺からの厳命だ!」
「はっ、解りました!」
「念のためにいっておく。見付けたら、鄭重に扱うんだぞ! 解ったら早く行動しろ! お嬢さん、これでよろしいでしょうか」
 山中の大親分は、興奮しているらしく白目に血管を浮き出し、麗子を正面から見つめた。
「結構ですわ。お手数をおかけ致します」
 何喰わぬ顔で穏やかに言うと、麗子はそっと頭を下げた。

 今まで、黙っていた高木が、なにか考え込んでいるらしい。顎に手を当て、真剣な顔つきをしている。意を決したようにそっと山中に近づくと、耳打ちをした。聞いていた山中の顔色が、みるみる蒼白になり、困惑の色が浮かんできた。
「な、何だと! も、毛利副総監が・・・・・」
 山中の言葉に勢いがなくなっていく。しおれた菜っ葉のように、心なしか肩も落ちた感じがする。
 警視庁ナンバー2で、警視総監に次ぐ地位にある毛利副総監は、組織犯罪対策部長も兼任しており、関東最大の組織暴力団、吉田会にとっては、目の上のたんこぶ、いわば天敵であったのだ。
 しかも、そこいらに居るキャリアとは、ちょっと異なり、闇社会はおろか、第一線の刑事連中をも、畏怖させてしまう迫力の持ち主との評判は高い。現に、山中は面談した経験があり、その迫力は、骨の髄までしっていた。
 なんと、その副総監が、麗子の後見人であるらしいのだ。 
「お、お嬢さん、いや失礼、麗子さん。毛利副総監と親しいんでありますか」
 山中は口調まで変わってきた。
「ああ、毛利のおじさまですね。亡き父の親友とかで、時々我が家に口だしなさる、多少迷惑な方ですわ。ちょっと格好の付けすぎですけど、悪い方ではございませんことよ」
「はあ、格好の付けすぎですか!」
 山中は、力無く首を振った。野中組の相談役である貴舟、吉田御老公、毛利警視庁副総監、もう出てこないだろうなという顔で、彼は高木を見つめた。高木は、山中の顔色で感ずるところがあったのか、黙って頷いた。
 しかし、彼らはまだ解っていない。最大の危険人物は、これから探そうとする麗子の兄、北御門貴彦であることを。

「おい、横田! どうなったんだ!」
「か、会長! いま組織を挙げて懸命に探しております」
「何を、ぐずぐずしている。お、お嬢さんを取りあえず吉原までご案内するんだ! 俺の車を使え!」
「でも会長、それでは・・・・・」
「俺には、新たな車と、若い者を二、三人呼べばいい。解ったら早く手配しろ!」
 山中は、手際よく指示を出す。その心中には、一時も早く麗子から離れたいという気持ちが在るのかも知れない。少なくとも、吉田会の会長がパニックに陥ったとは言えるだろう。
 麗子は、横田に案内されて店を出ようとした。その時、ハッと思い出したように振り返ると、フロアのまん中に引き返した。この場の全員が麗子に注目し、固唾を呑んで彼女の次の動きを待った。
「お尋ねしたいことがございます」
 凛とした声が響き渡った。フロア中が静まりかえっている。
「このお店に、愛様と仰る女の方がいらっしゃいますか?」
 皆の視線が、ミニのキャミソール・ドレスを着て、不安そうに立っている女性に注がれた。麗子が、ゆっくり視線の集まった女性の方へ歩き出した。
 麗子が近づくにつれて、愛の短いドレスからはみ出た、長い足が小刻みに震えだした。麗子は正面に立つと愛を見据えた。
「愛さんでございますね?」
 麗子の質問に、愛の蒼白になった唇は、震えるばかりで言葉が出てこない。
「兄が、お世話になっております」
 言葉とは裏腹に麗子の眼光は、厳しく愛の心の奥に突き刺さった。愛の顔は歪み、眼からは涙が滲んできた。恐怖に侵されたのか、足の震えは上半身にまで及んできた。
「お分かりでしょうね。今後は一切、ご無用にお願い致しますわ」
 小さい音声だが、鋭い刃物のような言葉を投げつけると、麗子は踵を帰し、フロアの出口へ向かった。後ろでは、愛が崩れるように床にしゃがむと、嗚咽を漏らしている。恐怖に耐えきれなかったのであろう。

 麗子と横田が、クラブ葵を出ると、待ちかまえていたように、高級外車が寄ってきた。黒いベンツのリムジンの特別仕様車であった。VIPでしか使用しないであろう、長大な車輌は、八人乗りであるらしい。若者が助手席から飛び出すと、麗子のためにドアを、うやうやしく開けた。
 もうすぐ十時である。赤坂の歓楽街では、まだ宵の口と言える。街の喧噪の中で、行き交う車輌も、歩行者も、麗子と車輌を避けるようにして通り過ぎていく。
 その時、麗子は山中の配慮に気づいた。このリムジンならば、吉原の雑踏でも、誰もが道を譲るであろうことに。


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