リムジンの黒い車体は、華やかな人工灯が乱舞する昭和通りを走って行く。JR鶯谷駅を過ぎてしばらく行くと、車は吉原に向かうべく、右折した。
車中、麗子は考え事をしているらしく、ほとんど口を利かなかった。横田が何度か話しかけたが、彼女は上の空で返事をした。商売柄、相手の心理を読むことにたけた彼は、それ以後、話しかけようとはしなかった。横田の携帯には、煩雑に連絡が入りその都度返事をし、指示を出していく。
彼は、麗子のことが気になるらしく、煩雑に彼の横顔を盗み見ている。
「横田さん、と仰いましたかしら?」
突然、麗子の口が開いた。
「は、はい。どうぞお見知りおきを」
横田の瞳が輝いた。彼は麗子に強い興味を感じているらしい。
「わたくしは、何処へ行こうとしているのでしょうか?」
麗子は焦点の合わない眼で、窓越しに歓楽街を眺めていたが、想いは遙かに飛んでいるのだろう。黒い彼女の瞳に、ネオンの色彩が反射する。
「えっ、何処へと言われても・・・・・私どもは、あなたの指示で動いているのですが・・・・・」
横田は、目を見開いて驚いたように答え、身を乗り出し、麗子の返事を待ったが、彼女は、また沈黙の世界に入っていった。
「横田さん、男の人は愛がなくても女が欲しくなるものですか?」
何の脈絡もなく、唐突に麗子が横田に質問した。
「えっ」
横田は、思いも寄らなかった質問に、戸惑ったのか返事が出来ない。
「ごめんなさい。質問を変えさせて頂きます。貴方は、相手を問わず女が欲しくなることが、ございますか?」
「ええ、まあ・・・・・ございます」
「そのようなときに、ソープランドとやらをご利用なさる訳ですね」
「まあ、そ・・・・・そうすることもあります」
「と仰ることは、排泄行為と考えてよろしいのですね。男性の性ですか?」
あまりに率直な麗子の言葉に、横田はいささか戸惑った風であったが、すぐに立ち直り切り返した。
「女性はどうなのですか?」
「同じですわ。少なくともわたくしは」
「と言うことは?」
「わたくしは、欲しい手に入れます。手段は選びません」
何のためらいもなく麗子は言い切った。彼女らしい言い方だ。物思いに耽っていた彼女の精神は、元に戻ったようである。彼女にとっては当たり前のことであるのだろうが、横田は驚いたらしく、言葉が続かなかった。彼が今まで付き合ったことのないタイプの、女性なのだろうか。
リムジンは、街角にゆっくり停車した。黒いスーツを身に着けた、四人の男が車に駆け寄ってきた。二人は車の前後に立ち、あたりを見張りながら車を駐車場に誘導する。二人の男が、リムジンのドアを静かに開けた。
「こちらでございます」
ドアを開けた男が、麗子をうながした。
「お世話様です」
そう言うと、麗子は、身体を車内シートから優雅に移動する。絹のドレスの裾を抑え、彼女はドアから車外に抜けた。オフショルダーに開いた、胸元と襟首からは、白い陶器のような肌が輝いている。ゴクリと唾液を飲み込む男の喉が鳴った。背筋を伸ばした、彼女のハイヒールが、タイルの石畳を踏んだ。
一人の男が先に立って、麗子と横田を案内をする。残りの三人の男があとに続く。明々とライトに照らされた、巨大なゲートが出現した。石造りを模倣したゲートの上には『エジンバラ』と文字が貼り付けてある。この店の名前らしい。
麗子は、背筋を伸ばし颯爽とゲートを潜った。ガラスの自動扉から入ると、豪華なロビーになっていた。この界隈では最高級の店であるには違いない。決意を固めた彼女ではあったが、さすがに、ときめくものがあった。
むろん、ソープの店内に入ることなど初めての経験である。彼女の脳裏に、浮世絵で見た、吉原の遊郭と花魁の姿が掠めた。歓楽に溢れる別世界が現出することを想像する。
「勘弁して下さいよ」
「ぐずぐず言うんじゃない。誰の頼みか分かっているのか!」
「そうは仰いますが、お客様のプライバシーを守るのは、我々の命ですから」
「お前の命はどうなんだ!」
ロビーの奥で言い争う声が聞こえた。七、八人の男が声を張り上げ、あるいは哀願している。四十過ぎのタキシードに蝶ネクタイの男が、店のマネージャーであるらしい。他に四人の店員らしき男が、詰め寄られている。
若い女性が二人、手を取り合って怯えている。足が長くスレンダーなボディに、胸が隠れる程度のベストのようなものを着け、腰回りにはこれ以上では意味をなさないギリギリの布を巻き付けスカートにしている。かろうじて身体を隠す布は、白いエナメルらしく、キラキラ光を反射する。
横田が麗子の側を抜け、言い争いをしている場に駆け寄った。
「おい、何を揉めているんだ」
横田の冷静な声が聞こえた。彼が、眼光鋭く詰め寄ると、一瞬、静かになった。
「よ、横田さん・・・・・」
マネージャーは、助けを求めるように呼びかけた。横田とは顔見知りであるらしい。
「あ、兄貴! このバカ、会長からの命令だと言うことが理解できないんですよ」
「横田さん、ま、まさか会長さんが、そんな些細な命令を自ら出されることはないですよね」
「悪いなマネージャー、会長命令なのは本当なんだ」
「そ、そんな・・・・・」
絶句したマネージャーのもとに、貴婦人を思わせる、ロングドレスの麗子が近づく。細い腰から下は、トランペットラインに延びた裾が揺れる。皆の驚きの視線が、彼女に集まった。マネージャーは混乱の極地になった。無理もない、なぜ、上品この上もなく、絶世の美人がこんな所に居るのか? と思うのは当然である。
超ミニの二人の女性も、口を半開きにしている。彼女たちはとても太刀打ち出来ない敗北感に襲われているのだろう。信じがたいことに、エロスの館に、高貴なプリンセスが出現したのだ。
「お願いがございます。わたくしは、兄に会わずにはおられません」
麗子は、相手の目を見つめたまま、僅かに頭を下げた。
「お、お兄さんと申しますのは?」
「さっきから言ってるだろうが。背の高い若い男だ!」
若い男が口を挟む。
「でも、・・・・・」
なるほど、高級店のマネージャーだけのことはある。客のプライバシーを守るという、職業倫理はヤクザの脅しにもなかなか屈しないようだ。
「山口さんよ。あんたまさか、山中会長に逆らうわけではないだろ」
マネージヤーは、山口というらしい。横田とは顔見知りのようだ。
「横田さん、会長さんも貴方も、今まで酷いことは言わなかったじゃないですか?」
山口は、なかなか承知せずに粘っている。客のプライバシーを守ると言うことは、それほど店の信用に関わることなのだろうか。麗子は、身体を縮め、瞳に怯えを見せながらも、必死に抵抗する男にある種の好意を感じた。
「悪いが、今回は、そうは行かないんだ。このお嬢さんの頼みでな」
「このお嬢さん・・・・・」
山口は、あらためて麗子の姿を上から下まで見なおした。彼の視線が、麗子の眼で止まった。彼女は、慈しむような視線を帰した。
「き、綺麗だ!」
場違いな言葉が山口の唇から漏れた。
「ありがとうございます」
麗子は、にっこり微笑んだ。山口の瞳が、ハートを射抜かれたようにうつろになった。
「山口様とおっしゃいましたわね。無理なお願いをして申し訳ございません」
「そ、そんなことは・・・・・」
「あなた様が、お困りになるのは、わたくしの本意ではございません。しかし、わたくしは、どうしても兄に会う必要がございますの」
「はい、それはよく分かります・・・・・」
山口の口からは、思ってもいない言葉が自然に漏れた。彼に分かるわけは、ないではないか?
「そこで、わたくしから提案がございます」
「ど、どのようなことでしょう」
山口の瞳に、僅かではあるが希望の光が走った。
「わたくしを、この店で雇って頂くわけには参りませんでしょうか?」
麗子はにっこり微笑んだ。あまりに予想外な彼女の発言に、言葉を発する者は誰もいない。
「駄目でしょうか?」
「と、とんでもない! あ、貴方がソープ嬢ですと・・・・・」
「えっー!」
この場に集まる男達の間から、言葉が漏れた。驚愕と期待を含んだ溜息とも言えた。彼らは、ねっとりした視線で麗子の爪先から頭の髪まで見渡す。男達の眼が隅で怯えている二人のソープ嬢に移る。男達は、彼女たちの姿態をみて、麗子がその格好になるのを想像しているらしい。
ソープ嬢も眼を剥いている。プリンセスが賤業婦になろうというのだ。それは彼女たちにとっては、恐怖に近い感情に襲われることかもしれない。プリンセスはプリンセスであるかぎり、彼女たちの自尊心は保たれる。しかし、すべてに於いて彼女たちを上回る本物のプリンセスが、同じ地点に立とうというのだ。これはある面で彼女たちにとって救いのないことであろう。あくまでも本物である限りではあるが。本物かどうかは、賤業婦というコンプレックスを根に持つ彼女たちは、本能的に解るのだった。
「山口様と仰いましたわね。わたくしにあの制服をご用意頂けますか」
そう言うと、麗子は細いしなやかな人差し指を、ソープ嬢に向けた。麗子の指先から光線が走った気がした。光線に貫かれた二人のソープ嬢は、抱き合うと身体を硬直したまま眼を潤ませた。
「お、お嬢様・・・・・どうか、どうかご勘弁下さい!」
「どういうことで、ございましょう? わたくしには、魅力が無いとでも仰るのでございますか?」
「と、跳んでもございません! あなた様でしたら、すぐにでもナンバーワンに・・・・・あっ、こんなことを思う私は何と卑俗な男でしょう。許して下さい」
山口は、男である自らと、職業意識の狭間でパニックを起こしたのだろうか。
「ご案内させて頂きます。どうか、どうかそのままでいらして下さい」
「宜しいのですか? ご厚意痛み入りますわ」
麗子は何事もなかったかのように平然と答えた。一座の男達の欲情に燃えた鋭い視線が山口に集まっていることを彼は知らない。絹のロングドレスに隠されて、人目に晒すことの決してないであろう、プリンセスのおみ足を拝める、千載一遇のチャンスを失った彼らの憤懣により、あとで彼が酷い眼に合わされることは、眼に見えている。
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