永久に未完の組曲
麗子の内なる事情の巻(10)



 

「どうぞ、楽になさってくださいね」
 舞と名乗る女性は、そう言うとソファーから立ちあがり名残惜しそうに隣の浴室へ行くと湯船と床を洗い始めた。
 貴彦は、上気した顔で広い部屋の中を見回した。ハンガーに舞が脱がせてくれた上着が掛かっている。なぜか妙に暑苦しい気がして、彼はワイシャツのネクタイを緩めた。
「百二十分で、時間はたっぷりあるからゆっくりしましょうね」
 舞が作業の手を休めずそう言った。腰を屈めた作業のせいで、臀部をかろうじて覆う白いエナメルのマイクロ・ミニスカートが捲れ上がり、黒いTバックのショーツが丸見えになっている。
“そうか、Tバックのショーツは、ヒップを魅力的にするもんなんだ!”
 なんとも馬鹿な考えが貴彦の脳裏に浮かんだ。
「あ、ああ・・・・・そうあだな」
 いささか、上の空で返事をする。貴彦にといって、女性を抱くのは久しぶりのことで多少緊張している。彼が腰を下ろしているソファーは明らかに高級品とすぐ分かるもので、値段にして数十万円はするであろう。ソファーの横にあるテーブルはマホガニーの椋材であることは間違いない。その向こうにはキングサイズのダブルベットに白いシーツが掛かっている。側の高いスタンドからの、橙色の妖しい光がシーツをうっすら染める。

 どういう話しからこうなったのか、いまひとつ貴彦には、よく分からない。藤野社長に何処が気に入られたというのだろう。彼に、引っ張られるようにしてこの店に入ったのは、二十分前のことだった。入浴料、サービス料のすべてを彼が払ってくれたのだ。入浴料が七万円ということは、サービス料を含めると、一人あたり二十万円になるだろうと、貴彦は見当を付けた。値段だけのことはあり、内装も女性も素晴らしいものであった。
「さあ、お風呂は綺麗にしたから、何時でも入れるわよ。でもその前にもう少し話しがしたいわ・・・・・いいでしょ」
 掃除を終えた舞が、ソファーに腰掛ける貴彦の前に立った。長い亜麻色の長い髪がばらけて、胸に懸かっている。短いエナメルのベストのジッパーは下げられ、豊かなバストがこぼれ落ちそうだ。むろんマイクロ・ミニスカートは捲れ上がり、黒いショーツが覗いている。
「ぜんぜん構わないよ。そうしよう」
「ありがとう」
 そう言うと霞は、貴彦の横に腰を下ろし、長い足を組んだ。
「なにを、お飲みになるの?」
「コーヒーにしようか」
「まー素敵! わたしもコーヒーをいただくわ」
 なにが素敵か分からないが、舞は常に用意されているサイホンから、コップにコーヒーを注いだ。
「砂糖は?」
「いらない。ミルクを少し入れてくれるかい」
「まー素敵! イメージにピッタリだわ。わたしもそうしよう・・・・・」
 舞は、長い髪を掻き上げ、妙に嬉しそうな横顔を貴彦に見せる。彫りの深い西洋人の血が入ったと思われる美人だ。

「イメージってなんだい?」
「王子様よ!」
「王子様って、あの物語の出てくる、西洋の・・・・・」
「そう、わたしの王子様よ」
「ぼ、僕が……そんなことはない。私はどう見ても、日本の普通のしがないサラリーマンだよ」
「そんなことはないわ。会った途端にそれは分かったの。そして、こんなところで、ブランディーなどと気取って注文せずに、ごくさり気なく、砂糖なしのコーヒーなんて言うんですもの」
 舞は、貴彦にもたれかかってきた。
「抱きしめてくれる」
 そっと、貴彦は舞の肩を抱いた。彼女が、貴彦の首に手を回しそっと呟いた。
「キスして・・・・・」
 そう言うと、彼女は夢見るような瞳を閉じて、唇をそっと突き出した。ファンタジィーの世界に遊ぶような彼女の唇に、貴彦はそっと唇を合わせた。


「この先、段差がございます。どうか、足下にお気を付け下さい」
「おそれいります」
 マネージャーの山口は、下僕のように麗子を案内する。プリンセス麗子の気持ちは、急いでいるのだが、その気配は微塵も見せず、背筋を伸ばし、悠然と歩を進める。横田をはじめ、六人の男が後に従う。
 彼女は、ハイヒールを通して感ずる絨毯を点検し、廊下の内装をごく自然に観察した。“お金が懸かっていることは確かだわ。でも、統一された思想が見られない。アンバランスでしょせん偽物に過ぎない。お兄様には、全然、ふさわしくないわ”
「麗子様、お兄様に会ってどうなさるつもりですか?」
 横田の呼びかけが、麗子さんから麗子様に変わっていた。
「ここから帰って頂きます。ここは、兄にふさわしい場所ではございません」
 山口が素直に俯いた。吉原一、いや日本一の高級ソープを自認していた“エジンバラ”のメッキが剥落していくことを、受け入れたに違いない。
 身体に密着した絹のドレス越しに、麗子の裸体を想像していたであろう、若い男達は今では、彼女を崇拝の眼で見つめている。本物の美は、人の魂を虜にし、感動すら与えてしまうのだろう。


 貴彦が、そっと唇を離した。唾液が糸を引く。舞の身体が彼の膝の上に崩れた。しばらくうっとりしていた彼女が、微かに口を開いた。
「お願いがあるの・・・・・」
「なんだい?」
「私をベットに運んで下さる?」
 そう言うと、舞は身を起こし、緩んだ貴彦のネクタイを外し、首にしがみついた。貴彦は彼女を花嫁のように下から抱き上げ、大きなベットに運んでいくと、優しく身体を横たわらせた。
「来て・・・・・」
 貴彦は黙って、舞の横に寄り添った。
「お願い・・・・・しばらく抱いていてくれる」
「いいよ」
 着衣のまま、貴彦はそっと彼女を抱きしめる。舞は彼の胸に顔を埋めて眼を閉じ、身じろぎもしない。彼女の髪が彼の顔をくすぐる。


 回廊の左右に、立派なマホガニー製の扉が並んでいた。回廊は二人が並んで歩けるほどの幅がある。おそらく、電話による時間調整で、客同士が顔を合わせることは無いのだろうと、麗子は変なことを思った。表情には毛ほども出さないが、彼女は緊張していた。自分はいったいどうするつもりなのかと、今さらながら自問した。心に帰すことがあるのだが、歩くたびに心が揺れるのを止めようが無かった。
「こちらでございます」
 山口が手を差し出し、恭しく麗子に示した。そこは、重量感のある黒褐色の大きな扉であった。 
「さようでございますか」
 麗子は、気づかれないように大きく呼吸をした。彼女の目の前で、扉の一部がガラス張りになっている。しかし、内部は窺えない。内側にバスタオルのようなものが掛けられているらしい。
「よ、よろしいですか・・・・・」
 おそらく、マネージャー山口にとって、来客中の部屋にノックをするのは、初めての経験なのだろう、声が裏返っている。
「結構でございます」
 心なしか、麗子の背筋がピンと延びた。背後の男性達の緊張が、彼女にも伝わった。ごくりと唾を飲み込む音もする。
「では・・・・・」
 心を決めたように、山口が扉をノックした。


 突然の出来事に、貴彦と舞はパッと離れ、ベットの上で半身を起こした。扉がノッくされたのだ。夢見心地に、天国に漂っていたであろう舞の顔は、血の気が引いて真っ青になっている。あり得べきことであった、客を部屋に招いたあとに、ノックがされるなどいうことなど・・・・・。
 貴彦も驚いた。ノックされる理由が分からない。舞が震えながら彼の胸に飛び込んだ。その彼女の行動で異常事態だと悟った彼は、彼女を抱きしめた。彼の心に、女性を守るという厄介な本能が頭をもたげてきた。
 すこし間をおいて、了解を得ることもなく、扉がゆっくり外側に開かれた。


「れっ、麗子!・・・・・なぜ!・・・・・なぜ、お前が・・・・・」
 それは悲鳴に近い声だった。麗子の眼に、貴彦の驚愕の表情が映った。
「お兄様、何というざまでございますの」
 麗子の瞳に異様な光が燃えた。部屋に踏み込んだ彼女の身体全体から、もわーと、冷気が漂いだした。彼女の言葉は、氷の刃となって部屋の外に控える男達をも貫く。男達は呼吸するのも忘れたようだ。
「こ、これには訳が・・・・・藤野社長がその・・・・・山尾社長の友達で・・・・・」
 貴彦が喋る言葉は、ろれつが回らず、意味を為さない。
「お兄様は、このような卑俗ところに、おられるべきではございません。ましてや下賤な女などとご一緒などとは」
 そう言い放つと、麗子はダブルベットに近づいていった。瞳はさらに鋭さを増し、舞の眼を射る。
 舞は、ワナワナ震えて、長い足を小刻みに動かす。短いスカートから、Tバックのショーツがはみ出ていることも失念しているに違いない。口は開いたままで、目まで潤んでいる。それほどまでに氷の刃は恐怖をもたらすのだろうか。麗子は心の中で他愛ないものだと軽蔑した。
「まあ、綺麗とは認めてあげますわよ。ただし、わたくしの足下にも及ばないですけれどもね」
「アッ、アワワワ・・・・・」
「なにを怯えていらっしゃるの? わたくし酷いことなどいたしませんわ」
「ア、アワワワ・・・・・」
「麗子、やめなさい。可哀想じゃないか」
 いくぶん立ち直った貴彦が、ベットから降りると、舞に助け船を出した。
「お兄様は、この娼婦の味方をなさるおつもりなのですか? たかが、下卑た遊女、売春婦、淫売、賤業婦ではございませんか」
 プリンセス麗子の言葉に、堰を切ったように舞が泣き出してしまった。面と向かって、おそらくこれほど酷い言葉を投げかけられたのは、生まれて初めてであったのだろう。
「麗子! お前、いかに何でもそれは言い過ぎだ。彼女に謝れ!」
 たまりかねて、貴彦は麗子を叱責した。その言葉を聞いた麗子は、一瞬、棒のように突っ立って固まってしまった。
「お、お兄様!・・・・・」
 そう言うと、麗子は崩れるようにその場にひざまずき、嗚咽を漏らし始めた。あわをくったように、貴彦は麗子のもとに駆け寄ると、彼女の肩に手を置いた。
「ご、ごめん! そんなつもりじゃ・・・・・」
 では、どんなつもりだったんだ! とにかく、貴彦はとても冷静とは言えない。
「麗子、泣くなよ・・・・・たのむから・・・・・」
 自分も泣き出しそうな顔で、貴彦は麗子を抱き上げ、何とかその場に立たせた。手を離すと倒れること間違いない彼女の身体を支えながら、彼は、ポケットからハンカチを取り出すと、悲しみに耐えられないという眼をした彼女の目頭を拭いた。
「お、お兄様は、麗子が嫌いですか?」
「そ、そんなことがあるもんか!」
「では、わたくしを愛しておられるのですね?」
「も、もちろんだとも・・・・・」
「他の誰よりも?」
「ああ、他の誰よりもだ・・・・・」
「では、わたくしにも、口づけをして下さいますか?」
「口づけ?」
「さようでございます。それとも、他の誰よりも愛していると仰ったのは、あれは嘘だったんでございますか?」
「そ、そんなことはない・・・・・」
 そう言うと、貴彦は、麗子の額にそっと唇をあてた。
「そんな、おざなりのことなど為されないで下さい」
 麗子は、眼を閉じ唇をそっと突き出した。彼女には確信があった。貴彦の唇が彼女の唇に重ねられるであろう事を。
 麗子は唇で、乾いた空気が動いているのを感じた。濡れた唇で冷気を感ずる。彼女は待っていた。物心がついてから、恋いこがれ、長い間待ち続けていた瞬間が、今訪れようとしているのだ。
 彼女は眼を閉じて闇の中にある。心は聴覚を閉ざし、なにも聞こえてこない。外界と遮断された五感の中で、触覚にのみ精神を集中する。

 貴彦の唇を感じた! 厚く柔らかい唇だ! 麗子は、夢中になって彼の首に両手を回し、しがみついた。舌を彼の中に差し入れた。彼女の味覚は、とろけるような甘さを感じた。彼女はさらにきつく瞼を閉じる。
 閉じた瞼から、一筋の涙が麗子の頬に伝わった。それは、彼女が流した、ほとんど生まれて初めての真実の涙だった。

 この場に集う人々に、言葉を吐くものは居らず、口を開いたまま固まってしまっている。真実の恋情の出現は人々を感動の渦に巻き込むのかも知れない。それが、たとえ兄妹の間に現出したのであろうとも。


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