永遠に未完の組曲
夕焼けに去っていったの巻(一)



 
 今日は日曜日だ。朝の庭に降り注ぐ太陽が眩しい。北御門家には珍しく四人が揃っての朝だった。いつもは朝食の終わったこの時間には、由美はモダンダンスの稽古に、そして魔美はデートに出かけており、家にいるのは貴彦と麗子の二人だけである。しかし、不思議なことに今日は二人とも出かける様子がない。『なにかの前兆かしら?』そんなことを頭の隅で思いながら麗子は新聞を読んでいた。

 広いリビングの柔らかいソファーに身を沈めて、麗子は新聞を読んでいる。新聞はギリシャ文字で書かれていた。しかも、女性の有られもない姿の写真が掲載されている。明らかにイエローペーパーだ。今日の日本社会に、ソファーでゆったりとして、ギリシャのイエローペーパーを読む人間は、麗子を除いては皆無に違いない。
 彼女は腰まで届く長髪を纏めず自然に垂らしている。その黒髪は微かにソバージュが掛けられ波打っている。身に着けている服は、ゆったりした踝まであるニットの長いワンピースだ。テーブルの上には、彼女好みのレモンティーが微かに湯気を立てている。

「きえーっ!」「たぁー!」「まだまだ!」
 時々、裂帛の気合いが耳に入る。先ほどから庭で、貴彦と由美が北御門家伝来の古流武術の稽古をしているのだ。新羅三郎源義光を開祖とする一子相伝の御留流がその武術である。
 リビングの窓から、時に、麗子は庭にチラリと視線を向ける。芝生の上で空手着の二人が稽古をしているのが見える。彼女には理解がしがたい行為のようだ。表情から窺うと、汗を流すなど下品きわまるとでも思っている節がある。
 開け放したリビングのドアを通して、摩美の鼻歌が聞こえてきた。なんだかとても愉しそうだ。こういう雰囲気の時は摩美が衣服を持ち出し、あれこれ身に着け喜んでいる時である。これまた麗子には理解しがたいことである。
 細いしなやかな指が延びて、紅茶カップの取っ手に指を掛け手元に運ぶ。紅は塗られていないが、ほんのり色づいた麗子の薄い唇がカップに触る。舌に拡がる感覚をいとおしむように、彼女は微かに眼を閉じる。穏やかな北御門家の朝だった。


「お姉ちゃん! インターホンが鳴っているよ」
 遠くから微かに聞こえる摩美の声が、耳に入ってきた。しかし、先ほどから、新聞を横に置いて考え事を始めた麗子は動かない。
「もぉー、仕方ないんだから」
 ぼやきながらも、摩美がインターホンのスイッチを押したらしい。
「もしもし、どちら様?」
 だれにも摩美は愛嬌をやたらと振りまく。なんとも色っぽい声だ。門の外に居るのが素敵な男性かも知れないとでも思っているのだろう。
「おーっ、その声は、摩美じゃな。あんまり色気をふりまくなよ」
「えっ、なーんだ! 伯父さんか!」
 摩美の声のトーンが極端に落ちた。
「なーんだ、はないだろうが…開けてくれよ」
「はいはい…お兄ちゃーん! 伯父さんが来たよ。聞こえないのぉー、お、じ、さ、ん…」
 彼女は完全に興味を失ったらしく、庭で稽古をしている貴彦に呼びかけた。
「おーっ、何だ?」
 多少、息の上がった声で貴彦が返事をした。芝の上を動く気配が消えた。どうやら稽古は中断したらしい。
「伯父さんが来たらしいの、お兄ちゃん門を開けてよ」 
 そうは言ったものの摩美は、はたと気づいたようだ。そう、お土産である。
「いいっ! 私が開ける!」
 と言うが早いか、玄関を開き摩美はすでに駆け出したらしい。麗子は物憂げに、それらを聞くともなく聞いていた。

 お土産とは、家族全員が受け取るはずの物だ。一番に受け取ったからと言ってその者の専有物になるはずもないのだが、目先の感性を行動規範としているらしい摩美にはそんな理屈は通用しない。
 北御門家の玄関から門までは少し距離がある。石畳の上を駆ける摩美は、身体の線を強調した薄手のセーターを直接身に着け、薄緑色のタイトスカートのスリットはやけに深く切りこまれている。自宅にいても男の目線を気にして、誘わずには居られないとでも言いたげだ。
  
「お土産は、なーに!」
 微かに摩美の声がする。屋根付きの巨大な門扉は電動で開くために、麗子のもとに開けた音は聞こえた来ない。
「この男だ! どーだ、摩美。嫁に行くか!」
 二人とも大声を張り上げている。近所に聞こえては恥ずかしいではないか。麗子は端正な顔をしかめた。 


 三十畳はあろうかという広いリビングに、六人が集まった。貴舟が連れてきた客人は、麗子より少し上の25歳だそうだ。中肉中背で、安物のスーツを身をまとい、何処と言って特徴のない平凡な男の典型である。貴船の方は、いつもと同じ洗い晒しの作務衣に白髪交じりの総髪を後ろで纏めていた。稽古を止めた貴彦と由美も、武道衣のままで同席している。
「この若者は鈴木君と言って、なかなか見所のある男だ!」
 ソファーにふんぞり返って貴船が言った。
「鈴木と申します」
 青年は礼儀正しく一礼した。今までの例でいくと、貴舟が立派だとか、見所があると言った男にろくな者が居た試しが無かった。もっとも大部分がヤクザで有り、こんな青年は初めてではある。
「初めまして。私は摩美です。こちらが……」
 頼まれもしないのに摩美が家族の紹介を始めた。
「じつは、皆に一つ頼みがあるんじゃ」
「一寸待って! 由美ちゃんお茶を入れてきて! それと、お皿とフォークも持ってきてね」
 摩美はすでに土産の洋菓子の包みを開けようとしている。彼女の一番の興味はまさにそれである。
「摩美ちゃんズルイ!」
「ズルくないの。今日は由美ちゃんの当番でしょ」
 そう言われれば由美は反論できない。家事の当番制は、北御門家にとって侵すことの出来ない厳格なルールだったのだ。 

 話しを中断された貴船は、別に機嫌を損ねるふうでもなく続けた。
「頼みというのは、この鈴木君をこの家に置いてやってはくれまいか、と言うことだ。なーに、一ヶ月だけの話しじゃがの」
「えっ、それはどういうことですか?」
 不安げに貴彦が答えた。独身女性三人の住宅に身も知らぬ男を同棲させることは、さすがに家長として気になるところだろう。
「大したことじゃない」
 何処吹く風で貴舟は言い放った。
「とんでもない、大したことですよ!」
「貴彦、鈴木君が悪い人間に見えるか」
 静かに聞いていた鈴木青年が何か言いかける。
「あっ、あのう…」
「君は黙っておれ……」
 貴船の話しはこうであった。鈴木青年は名前を一郎という。つまり鈴木イチローということななる。名付け親は、孤児院の園長先生であった。イチローは親の顔を知らない天涯孤独の身の上である。中学卒業と同時に大手食品会社の京都工場に就職した。昼間は働き夜は定時制高校に通い、卒業すると大学の二部で食品衛生学を学んだ。
 真面目な性格のイチローは、皆から愛され工場長の推薦で本社の研究室にて食品衛生の研修を受けることが決まっていた。
 しかし、折からの不景気と経費節減で一度決まっていた本社研修は中止とあいなった。その話を聞いた貴船は、工場長と掛け合い、工場長の強い後押しで、交通費、宿泊費を自己負担するなら特別有給休暇を認め、研修させるという条件を本社から勝ち取った。そこで、一ヶ月間、東京の北御門家を宿に頼むというわけだ。
  
貴舟らしくなく淡々とした話しっぷりに、麗子は少し興味を引かれた。『何故、こんないい加減な伯父さんが』と思わずには居られなかった。
「イチローさんに、泊まってほしいな」
 摩美が眼を潤ませていった。孤児院、天涯孤独のあたりから彼女は鼻をグズグズ言わせるしまつだ。
「兄ちゃん、いいんじゃない」
 由美が相づちを打った。
「そっ、そうだよね由美ちゃん」
 同意者を得た、摩美は由美に抱きついた。
「そうは言ってもな?」
 貴彦は気になるらしい。北御門家に於いては、重要な案件は多数決の原理によって決せられるルールに一応なっている。しかし、本当に決定権があるのは……。
 皆の目は、麗子に集まった。その場の雰囲気を肌で感じたらしく、イチローも麗子を見つめる。

「よろしいんじゃありませんの」
 麗子は厳かに言い放った。多数決といいながらも、麗子の発言には誰も逆えない。皆が追従するのも、これ又、経験則である。
 麗子は並の青年とは違う何かを、イチローに感じていた。なんの変哲もない風貌ながら、この部屋に入ってから、彼はソファーに浅く腰掛け背筋を伸ばし、手は膝の上に置いたまま微動だにしていない。しかし、緊張している訳ではなく、リラックスしている。彼女は青年に興味を感じている自分を発見した。

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