永遠に未完の組曲
夕焼けに去っていったの巻(二)



 
 由美は手元に置かれたケーキに手も付けず、黙って青年を見続けている。摩美はケーキにしか興味がないようだ。
「イチローさん、私の格好はどう?」
 摩美と違って、男にはほとんど反応を示さない由美が、拳を突き出し問いかけた。ぶしつけに相手に向かって拳を突き出しながら、話しかけると言う礼儀が有るのだろうか。
 目つきが厳しいのはいかにも彼女的である。スレンダーで、野性的な美少女の彼女は、空手着がよく似合う。ショートカットの髪が健康的だ。
「とても素敵だと思います」
 イチローは初めて微笑んだ。美形とは言えないが、何も言えず清々しい笑顔だ。
「ホントにそう思う?」
 由美は続ける。彼に興味を持ったのは間違いないようだ。由美のこのような態度は、麗子にとっては少し驚きであった。
「ほんとうですとも。嘘は言いません」
 由美の射すような視線を、イチローは柔らかく受け止る。

「由美ちゃん、ケーキもういいの? だったら私が食べるから」
 そう言うが早いか、摩美の手は皿に向かって延びた。まあ、いつもの北御門家の行動パターンと言えるだろう。そう珍しいことではない。
「摩美ちゃん駄目! これは私のだから」
 由美は軽く摩美の手を払った。腕の推進力を巧みに操った由美の手の動きに、イチローの眼が光ったのを麗子は見逃さない。
「どうだイチロー」
 貴舟が探るように話しかけた。
「さすがです」
 イチローは穏やかに返した。
 貴彦は手を組んだままの姿勢を崩さない。どうやらこの場にいる人のなかで、貴舟とイチローの短い会話の意味を解していないのは、摩美だけのようだ。
「由美ちゃんの意地悪! いいもん、新しいのを貰うから」
 皆に一つずつ配った余りの箱の中のケーキは、すべて自分の物だとでも思っているらしい。仕方なく箱から自分のケーキを取り出そうとしたときだった。
「摩美さん、どうぞお取りになって」
「えっ、お姉ちゃんいいの?」
 摩美の顔から笑みがこぼれた。
「かまいませんわ、お召し上がりなさいよ。ダイエットどころじゃなく、子豚ちゃんになって、とても可愛いと思いますわ」 
 麗子の言葉は摩美の弱点を刺した。ここのところ摩美がもっとも気にしているのはダイエットだったのだ。摩美はうつむき、涙目になっている。麗子はさり気なく、ティーカップを口元にはこんだ。

「鈴木さんでしたね」
 初めて貴彦が話しかけた。
「はい、さようです」
「あなた、武道の経験がお有りですね」
「どうしてそのように……」
「ハハハ、イチローよ、貴彦の眼は節穴じゃないぞ」
 貴舟はしてやったりというふうだ。
「はいたしかに、貴舟師匠に指導して頂いております」
「伯父ちゃん、確か弟子はいないと言ってたよね」
 由美はケーキより武道の方に興味があるらしい。
「ああ、内緒だったんだが、五年前からこのイチローの稽古を見てやっておる。儂でも暇なときには週に一、二度は寺の鐘を撞くことがある。早朝、鐘を撞いた後には、一人稽古をすることにしておる。ところがある時気が付いた。儂の稽古を物影からそっと覗いている男が居たんじゃ。とっ掴まえて問いただした所、数ヶ月前から見ていたと言うんじゃ。儂に気配を感じさせないとは、驚いたもんじゃ。悪い人間じゃなさそうだったんで、暇な時に教えることにした」
「イチロー様は、毎日、早朝に寺にお出でだったんですのね」
 貴舟の話しが一息ついたところで、麗子がごく当たり前の様に尋ねた。
「はい、そうです。ふとした切っ掛けで先生の稽古姿を見かけてからは、毎朝、五時には行っていました。先生の仰るように、稽古が見られたのは週一度程度でした」
「お前、そうだったのか? なるほど、なるほど……」
 貴舟は妙に納得している。
「今では、イチロー様が毎日鐘を撞いておられるのじゃございませんこと?」
「はい、撞かさせて頂いております」
「伯父さま!」
 麗子がキッと貴舟を睨んだ。
「御住職のお仕事は、放棄なされたのですか!」
「と、とんでもない、儂とて鐘を撞いておる」
「年に何回でございますの?」
「一回…いや二回か三回は……麗子はそう言うが…」
「言い訳は見苦しいですわ、伯父さま。小僧さんが鐘を撞く例えを仰るつもりですか。イチロー様は僧籍にあるのではございますまい。さらにキチンとした職業をお持ちの社会人ではございませんこと。いいように利用なさって、見苦しいとはお思いになりませんか」
 麗子の舌鋒は止まらない。貴舟の思惑などは、すべてお見通しである。

「麗子さん、私は今、感謝して毎日を過ごしています。師匠から稽古を付けて頂くだけで、もったいないくらいです。本当に素晴らしい術です」
 イチローは涼しげな眼で麗子を見つめている。麗子の毒舌にもビビらないらしい。
「そ、そうじゃろ…麗子、イチローもそう言うんじゃからな…」
「わたくしは、駄目だと申しているのではございません。ただ、伯父さまの心根が賤しいと申しているのでございます」
 貴舟は、塩をかけられた菜っ葉のように縮まった。白髪混じりの総髪が痛々しい。
「イチローさん、今は何を稽古しているんですか?」
 貴彦が取りなすように話題を変えた。
「はい、剣術から始まり、体術と進み、最近は棒術の稽古を始めました」
「ほぉ、五年で長物まで進みましたか。大したものです。以前の武道経験は?」
「中学校の時にクラブで剣道をやっていました。高校に入ってからは、昼間は働き夜は学校という生活が大学まで続きましたので、武道はやりたくとも出来ませんでした」
「それで、伯父さんの稽古を見てやりたくなったんですね」
「そうです。初めて見たとき鳥肌が立ちました。ただ、木剣で素振りをされていただけですが魅入られてしまいました」
「うむ、なるほど、わかる、わかる……」
 大仰に貴舟が頷いた。先ほどのショックから立ち直ったらしい。何がわかっているのかは大いに疑わしいが。

「伯父ちゃんに、弟子がいたなんて知らなかった。これで北御門流をする人が四人になったわけね」
 由美は嬉しそうである。
「あなたが由美さんですね。お話しは師匠より伺っております。若い女性ながら相当の使い手だそうで……貴彦さんには是非お会いしたかったです」
「伯父が私のことを何と言っていました?」
 貴彦は少し興味を抱いたようだ。
「歴代、北御門流最高の使い手、武術の神の子だと申されています」
「おい、おい、伯父さん、私は宗家を継承する気はありませんからね」
「わかっちょるわい。そんな事じゃない」
 ケーキを食べることに満足したのか、摩美が話しに加わってきた。
「私のことは何と言っていたの?」
「門が開いたときにすぐに摩美さんだと分かりました。とても可愛くて魅力たっぷりな女性だと伺っております」
 摩美は満足そうに、ゆったりとした巻き髪をかるく撫でる。顕わになった左耳で、シャネルのピアスがキラリと光った。

「イチロー様に質問があるのですが、よろしいでしょうか?」
 会話の流れを断ち切るように麗子が言った。彼女のことをよく知る人間は、この言い方はなにか重要なことであることを知っている。緊張が走った。この場の空気が変わったのを感じたのか、イチローにも心なしか緊張がみえる。
「たいした質問ではございません。どうか楽にして下さいませ」
 その瞬間一座の空気はゆるんだ。誰かから、ふーっ、と小さく溜息が漏れた。麗子はおざなりの社交辞令は言わないことを皆が知っている。
「イチロー様、あなたは京都の孤児院でお育ちになったのですね」
「はいそうです」
「失礼ですがご両親は?」
「まったく存じません。生まれて最初の記憶は、孤児院のものです」
「いらい京都を離れたことはないのですね?」
「その通りです」
「では、なぜイチロー様のお話しなさる言葉は、標準語なのですか?」
「ああ、そのことですか。よく言われるんですが、私の孤児院の院長先生と奥様は横浜の出身なのです」
 麗子はここで話しを終わらせたくはなかった。鈴木一郎という人間に興味を持って来たのだ。
「院長先生ご夫妻はそうでしょう。しかし、孤児院のお友達、学校の同級生は京都の方でございますわね」
「そ、そうです…」
 イチローの眼に真剣な光が宿り始めた。彼を見つめていた貴舟が、少し驚いた顔をした。麗子は、伯父の反応に納得したように続けた。 

「イチロー様、よろしいですか」
「は、はい」
 背筋を伸ばし、微動だにしなかったイチローの姿勢が少し前屈みになった。麗子はソファーの背にもたれ、優雅に佇んでいる。
「単語はともかく、アクセントというものは、矯正できるものではございません。幼年、少年期に身に付いたものは隠しようが無いのです。伯父もそうです。私達兄弟もそうなのです。私のアクセントは東京の西部、渋谷近辺のものです。決して標準語ではございません」
 イチローの表情が険しくなってきた。彼の内なる何かを麗子は探ろうとしている。麗子はさらに追い打ちをかける。
「標準語とは、NHKのアナウンサーが話す言葉です。民放のアナウンサーは駄目です。徹底的な訓練はなされておりません。さすが天下のNHKと申すべきでしょうか。しかし、彼等の話し言葉は、ラジオ、テレビ等の公の席でのことです。イチロー様は我が家に来て以来標準語のアクセントを外れたことはございません。普通に話して標準語の枠を外れない方は初めてでございます」
 どうやら麗子は、古代ギリシャ語だけでなく、日本語についての造詣も深いようだ。金田一春彦先生の弟子で有るはずはないのだが。
「そ、そうでしょうか?」
「そうです。間違いございません。アクセントの矯正、これは大変な訓練が必要です。しかし、あえて今、なぜにその様な訓練をなさったかの質問は致しません。それを尋ねられることはイチロー様にとって不本意だと存じ上げるからでございます」
 イチローは、この家に来て初めて動揺を示した。膝の上の彼の指が小刻み身に動いている。麗子は優雅な佇まいを崩さず微笑んだ。彼女の外見と、棘のある言葉には信じられないぐらいの落差がある。

「難しい話しはよして、由美、イチローさんに稽古を付けてもらわないか?」
 この場の空気を取りなすように、貴彦が言った。ただ突拍子もない発言であった。彼の思考回路も独特である。
「お願いします!」
 由美が大声を張り上げた。
「ま、待って下さい。私は稽古着を持って来ていません」
「イチローさん、うちに来るのに稽古着を持ってこなかったの?」
 由美は当てが外れととでも言いたげに、ムッとした。摩美はケーキを食べながら先ほどからニコニコして会話を聞いている。
「いえ、まだこちら様でお世話になれるかどうかも、分かりませんでしたので」
「伯父さんは何と言ったの」
「儂が良しと言えば大丈夫だと……」
 二人の会話を押しとどめるように、慌てて貴舟が言った。
「稽古着は、儂が後から送る手筈になっておる。武器はこの家にたくさん有るからのお」「着替える必要は有りませんよ、そこで由美と向き合って構えて下さい」
「おい、イチロー、次代宗家の思し召しじゃ」
「伯父さん!」
「分かっちょる…次代宗家を拒否しておる者の思し召しじゃ」
 貴舟の言うことは何処までが本気で、冗談かの判別が難しい。

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