永遠に未完の組曲
夕焼けに去っていったの巻(三)



 

 何と言っても北御門家のリビングはやたらと広い。麗子には七歳当時の記憶が鮮明に残っている。銀行で外国為替を専門としていた父親の貴行が、このリビングでパーティーをよく開いていた。外国人の客も多く、母の雅子は得意の語学を活かし、客の廻りをめぐり接待をしていた。華美ではないが、淑やかな彼女の佇まいは、パーティーの花形であった。父の貴行が身体の弱い妻の身を、心配そうに見つめている姿もあった。
 摩美は三歳、由美は一歳で、二人が当時のことを覚えていないのは当然である。華やかなパーティーの席で、人形のように可愛い麗子は、ヒロインであった。大人達はこぞって、彼女を抱き上げ、頬に接吻をした。恐くはなかった。十二歳の貴彦が麗子を守るように、いつも手を繋いでいてくれたのだ。決して忘れることの出来ない夢のような記憶であった。

 十六年後の同じ場所で、貴彦に促された二人がフローリングの上で向き合った。椅子やマットを片付ければ戦うに十分な広さが確保できる。由美はいかにも嬉しげに、溌剌として対戦に臨んだ。イチローは、それほど喜んだふうではないが、嫌がるそぶりもなく、濃紺のスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外し由美に一礼をした。
 由美は礼を返す。面を上げると、左足を前に出し両手は開手のまま軽く胸の前に出し静かに構えた。彼女に合わせるようにイチローも同じ構えをとった。素手による手合わせは既に始まっている。切迫した緊迫感が二人を包む。半眼の二人は、眼に見えないほど微かに足を滑らせ間合いを詰める。二人を見つめる貴彦は、あたかも自分が勝負している如く真剣になっている。さすがの摩美もケーキを食べる手を止めた。緊迫した時は経過していく。
 
「やめ!」
 貴舟から声が掛かった。二人が対峙して五分は経過していただろう。リビングを覆っていた緊張感が一気に緩んだ。
「ふぅ…っ」
 由美が大きく息をついた。額には汗が球のように浮き上がっている。
「由美さん、さすがです。師匠の仰っておられた通りです」
 イチローは微笑んだ。彼の呼吸も乱れている。
「とんでもない、イチローさん凄いです!」
「ありがとうございます。でも本当に凄い御方はあちらです」
 振り向いたイチローの視線は、貴彦に向かっている。貴彦はソファーにゆったり腰を降ろしたままであった。
「イチロー、どうしてそれが分かるんじゃ?」
「師匠、佇まいで分かります。対峙していた間に、貴彦様の刺すような気を感じて恐かったです」
「ほーっ、お前もそれが分かるようになったか…腕を上げたもんじゃ」
 貴彦はニッコリ微笑んでイチローを見ている。麗子は頼りがいのある兄の横顔を見つめた。十六年前と違うのは、兄が手を繋いでくれていないことだった。


「伯父さまの紹介ですもの、下宿料など戴けませんわ。ねえ、お兄様」
 言ってしまって麗子は、我ながら驚いた。氷の刃とあだ名される自分が、優しい声でそう呼びかけてしまったのだ。イチローという青年に好意を持っていると思わずにはおられなかった。
「そうよ、姉ちゃんの言うとおり。そして、交換条件として私に稽古を付けてくれればそれで良いわ」
「そりゃいい! ぜひそうしよう」
「なによ、兄ちゃん! 私と稽古をするのがいやなの?」
「そ、そうじゃなく…たまには違った人と稽古を……」
 無類の強者である貴彦も三人の妹にはてんで弱い。人間弱点はあるものだ。
「だめ、絶対だめ! 何を言ってるのよ。下宿代はちゃんと貰わなくっちゃだめ!」
 先ほどのケーキの手土産のことなぞ全く忘れたかの如く、摩美がほざいた。
「摩美さんの仰るとおりです。只だと私が困ります。この家に於いて頂くわけには参らなくなります」
「何故ですの、イチロー様? 人の好意を受けるのがお嫌いなの?」
「麗子さん、そうではありません。私など人の好意を受けなかったら、生きては来られなかった身の上です。でもそれだからこそ、安易に甘えたくはないんです。貧乏ですが多少の蓄えはあります」
 両親の顔を知らず、茨の道を歩いて来たであろうイチローの表情には、不思議と陰りがみられない。爽やかな健康的な青年そのものだ。
 
「でも、イチロー君、先ほど伺ったところによると、君は自費の研修生で会社からの手当は出ないんだろ?」
「はい、そのとおりです」
「じゃあ、いいじゃないか。家は広いから迷惑でもなんでもないよ」
「イチロー、貴彦もそう言うんじゃから、好意に甘えたらどうだ…」
 貴舟のもの言いは、イチローが言う通りにならないとでも読んでいるふうに聞こえる。
貴舟の態度から、麗子はイチローの我の強さを感じさせられた。
「ありがとうございます。では、お恥ずかしいんですが、一日に、五千円ほどでは……」
 恐る恐る、イチローが具体的な数字を口にした。
「やったー! 一ヶ月で15万円、新しい服がかえるわ!」
 摩美の嬌声があがった。下宿料をしっかり自分のものにするつもりらしい。
「ハッハハハ…貴彦よ、イチローはこういう男なんだ。摩美ちゃん、服でもバックでも買いなさい」
「伯父ちゃん、分かってないよ。十五万円ぽっちじぁ、まともなバックは買えないのよ」「な、なんじゃと…!」
「伯父さん、食い物と、フアッションに関しては、摩美に敵うものはいませんよ。洋服と、小道具用に自分の部屋の他に、二部屋占領しているんですから。なんとか意見してやってくれませんか」
 多少、投げやりふうに貴彦は言った。北御門家には、リビングの他に七部屋ある。各人が、それぞれ一部屋を使い。共同の物置が一部屋。そして二部屋を摩美が衣装タンス変わりに使っている。さらに驚くことにそれらの衣服の大部分は、男性からのプレゼントであった。

「摩美さん、ちょうどよかったわ。お部屋の整理をなさって、一部屋あけて下さいな。そのお部屋をイチロー様のお部屋にしましょうよ」
「えーっ、そんなの絶対無理! 部屋には私の命の次ぎに大事なものが、いっぱいなんだから……そうね、イチローさんだったら、私のお部屋に泊まっていいわよ」
 さすがのイチローも摩美の言葉には驚き、貴舟を見た。貴舟も唖然として、口を半開きにしている。
「それは、良い考えかもしれないわ。イチロー様も知らない土地でお寂しいでしょうし」 麗子は、皮肉っぽくそう言うと貴彦を見た。
「ばっ、バカなことを言うんじゃない! 摩美、衣服を整理して部屋を開けなさい。これは、家長としての厳命である」
「そうよ、摩美ちゃん、自分だけたくさん部屋を持っているなんてずるい」
 由美も賛成のようである。
「摩美、整理した品物は、納戸に持っていけば良いんだからな」
 納戸と言っても北御門家の納戸は、建坪三十坪の別棟だ。五人家族が生活できるだけの広さは十分にある。渋谷区の青葉台にこれほどの屋敷を持っている北御門家の資産は莫大なものである。この家にないのは現金である。年間五百万円を超える固定資産税だけは、伯父である貴舟の世話になっている。
 その他の生活費は、兄弟で何とか工面している。貴彦はサラリーマンをしながら、夜は予備校講師のアルバイトをしている。麗子も学業のかたわら、予備校教師のアルバイトをして家系を助けている。アルバイトの時間給は、麗子の方が遙かに高いがそれは、貴彦には内緒だ。


「イチロー様、おはようございます」
「あっ、麗子さん、おはようございます」
 五日後の事であった。麗子はいつもの習慣通り朝七時に台所に顔を出した。腰まで届こうかという長い髪に、ベージュのローブ、薄化粧をした姿は、彼女独特の雰囲気を醸し出している。
 麗子は毎朝決まった時間に台所に顔を出し、一杯の紅茶を用意するのだ。
「お湯はポットの中です。カップとレモンも用意できています」
 空手着のまま、イチローは台所で朝食の用意をしている。ゆだった鍋の横で、野菜を刻みながら、麗子に言った。眼は俎板におかれたままである。包丁を使う動作には、まったく無駄がない。武人がいう隙がないとは、このことかと麗子は感心した。
「お世話様です」
 悪びれもせず、かるく礼を言うと、麗子はテーブルの上のトレーを取り上げリビングに向かった。 

「由美さん、おはよう。熱心ですこと」
「姉ちゃん、おはよう」
 開脚の柔軟体操をしながら、由美が返事をする。彼女もまた、白い空手着姿だ。北御門流武術には決められた稽古着はない。貴舟は作務衣、他の者は空手着を着るのが習慣になっているだけである。
 麗子は、トレーをテーブルの上に置くと、ソファーに腰を降ろしギリシャの新聞を広げた。眼は新聞の文字を追ったまま話しかける。
「由美さん、最近の稽古は特に熱心だわね」
「うん、イチローさんと稽古するのが楽しくって…」
 彼女も又、麗子を見ることなく柔軟運動をしながら答えた。
「でも、困ったことがあるわ」
「なーに、姉ちゃん」
「お兄様が、朝遅くなったことですわ」
 そう言えば最近、貴彦は起きるのが遅く、八時近くにならないとダイニングに顔を出さない。由美の稽古は五時三十分から始まる。イチローに任せっきりになっているのだ。しかも、稽古の終わった後には、彼が朝食を作るのが日課になっている。北御門家の当番制は完全に崩れてしまっていた。

「でも、姉ちゃん、イチローさんって料理が巧いよね」
「たしかにそれは言えるわよね」
「それに、比べたら、兄ちゃん、摩美ちゃんの作る料理なんて最低よ!」
「由美さんはどうなの?」
「いまいち、自信がないな…でも、姉ちゃんは上手よ。姉ちゃんは何をしても巧いんだから。時々思うことがあるの…」
「なあに?」
「本当は、武術も達人だったりして?」
「いやだわ、わたくし汗をかくのは、大嫌いですもの」
「でも、姉ちゃん、高校の時、インターハイの陸上短距離で全国優勝しているでしょ」
「あれは、わたくしの人生に於ける最大の汚点です」
 高校の時、体育の時間に陸上部の生徒を全く問題にしない麗子の運動神経を目の当たりにして、教師が、むりやり貴彦に頼んで、麗子をインターハイに出場させたのだ。兄の懇願に麗子は、不本意だが仕方なく従った。優勝後たくさんの大学から特待生の話も来たが、彼女はけんもほろろに断っている。
 二人の会話は、お互いに視線を合わせることなく続いていた。麗子はティーカップを口に運びながら眼は新聞の活字を追っている。

 結局、擦った揉んだのあげくイチローの下宿代は一日、二千円と決まった。それでは申し訳ないと、朝食と夕食は彼が作ると言って譲らなかったのだ。朝食はともかく、毎夕六時には買い物を済ませ、時間を計ったように帰ってきて夕食の準備をするのには、さすがの麗子も驚いた。さらに、貴彦、由美、そして彼自身の分の、三つの弁当も用意するのだから尋常ではない。
 職場の同僚と、帰りに一杯ということも今まで一度もないという。したがって、酒もタバコもたしなまない。普段の動作だけではなく、日常生活の時間管理まで一部の隙も見いだせない。かといって、無理をしている感じはまったくない。心身共に脱力し、どこにも力が入っていないのだ。
 さらに、洗濯も彼は引き受けている。人を人とも思わない麗子は別として、うら若き乙女の摩美と由美が下着を男性に洗濯させて何とも思わず、イチローも拘りがないのだから不思議である。
 麗子にとっては、こんな種類の人間に出会ったのは初めてだった。
「朝食の用意ができました!」
 キッチンから、イチローの声が聞こえてきた。大きくはないが、よく通る声である。ダイニングテーブルには、湯気のたった朝食の用意がなされているはずだ。貴彦と摩美も今の声で起き出してくる筈であった。

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