永遠に未完の組曲
夕焼けに去っていったの巻(六)



 


 由美とイチローは互いに竹刀を八相に構え、九歩の間合いをとったまま動かない。面鉄の奥の暗闇から切れ長の眼が鋭い光を放つ。二人は右足前の姿勢のまま、じりじりと間合いを詰める。
 攻撃間合いに入ったと思われた瞬間、
「キェーッ!」
「オーッ!」
 裂帛の気合いと共に二人は互いの面を打った。殆ど同時である。これを相打というのだろうか。竹刀は互いに面をとらえたまま動かない。呼吸を合わせたと見えた瞬間お互いに竹刀を引き、そのまま元の位置まで下がった。そして、あらためて間合いを詰めて同じ打撃動作を繰り返す。

 二人の稽古を見つめる眼があった。四人の男達である。彼等はロビーから後を付けてきたのだ。一人は六十過ぎの老人に見えるが異様な風袋である。総髪の髪を肩までバラし、鼻髭と顎髭を蓄え、茶の紋付き羽織袴である。歳のわりには大柄でふんぞり返っていかにも貫禄を見せつけている。他の三人は黒い道衣の上下を身に着け、三十代後半から四十代前半の揃いも揃って大男だ。
 由美とイチローは、むろん四人が後を付け、自分たちの稽古を見ていることは知っていたが、気にすることもなく稽古を続ける。
 どのぐらい打ち合っただろうか、二人は芝生の隅で剣道の面と胴を外した。
「ねぇ、イチローさん、植え込みの陰で覗いているあの人達はなんなの?」
 由美が額の汗を拭いながら言った。
「由美ちゃん、気にするのはよそうよ、たぶん武道家だと思うけど」
「それにしちゃ、ずいぶんお粗末ね。あんなに肩肘張って、勿体ぶっているけど、身体によけいな力が入りすぎてるよ」
「由美ちゃん、よしなさい」
「それに、あの爺さん、大道芸人みたいな感じね」
「由美ちゃん、人様の事をとやかく言うのは、僕は嫌いです!」
「はい…」
 由美がやけに素直である。イチローは、そう言うと木刀を持って歩き出した。由美もあわてて後に付いていく。所定の位置に着くと、今度は先ほどの動作を、素面、素後手、木刀で始める。

「キェーッ!」
「オーッ!」
 まったく同じ動きだが、今度は頭に当たる寸前で木刀が止まる。髪の毛に触れるぐらいの至近距離ではあるが当たらない。当然の話しではある。本当に当たったのでは、おおごとだ。
 互いに真っ向から切り下ろしているのである。木刀に触れず、同時に正中線を切ることは不可能である。どちらが正中線を制しているのかは、見ているだけでは分からない。
「まいりました! イチローさん凄い!」
「いやいや、由美ちゃんこそ素晴らしい太刀筋です」
「そんなことありません、何十回打ち合っても一度も正中線を取れないんだから」
 二人の間では勝負が着いているらしい。
 その時、物影の人物が動いた。歳の割には上背があり、大股で歩いてくる。すぐに弟子と思われる一人が、露払いのように前に出る。
「やー君たち、驚かせてすまん。気配を消していたので気づかなかったと思うがのう」
 老人は、歩きながら声を掛けてきた。
「なんなの? 気配を消した? 見え見えじゃない!」
 由美がイチローに耳打ちをする。
「シーッ」
 それをイチローがたしなめる。

「なかなか熱心な稽古だった。けっこう、けっこう…しかし、あのような緩い稽古では上達は望めぬぞよ」
 懐手で、いかにも大仰にものを言う。
「と、申しますと?」
 イチローは少し頭をさげて、礼を尽くそうとする。由美はそっぽをむく。
「若い娘と、ひ弱な男では無理もないが、激しく打ち合わねば意味がない。お主もう少し身体を鍛えれば儂の弟子の末席に加えてやってもよいぞ」
「いえ、私たちはあくまで健康法としてやっていますので」
「そうか、それも良かろう。ところで、現代剣道ではないと見たが、流派は何と申すじゃな?」
「その…、人に知られた流派ではございませんので」
 イチローはあくまで謙虚な姿勢を崩さない。
「よいから、言ってみなさい。たいがいの流派なら知っておる」
「正式な名前ではないのですが、一応、北御門流ということになっております」
「き、北御門…。さすがの儂も聞いたことがない。門人は何人おられるのじゃ」
 言葉はそれほどでもないが、態度は明らかに人を見下している。
「師匠を合わせて、四人ほどでございます」
「よ、四人とな……なるほど、この儂が知らないはずじゃ」
 その時、一人の男が前に出た。
「ひかえおろー、頭が高い。この御方こそ、直神伝厳統流正伝二十一代、加納鉄心晴明、御宗家様で有らせられる」
 まるで水戸黄門である。
「これこれ、そのような事を余り申すでない。若者が緊張してしまうではないか」
「ハッ、申し訳ござりませぬ」
 何か芝居でもしているような感じだ。由美は下を向いて吹き出しそうになるのを堪えている。
「まあ、政財界の重鎮からも色々と相談を受けて忙しい身の上であるが、お主は礼儀は心得ておるようじゃ、日を改めて儂のところに訪ねて来なさい。おい、名刺を…」
「ハッ、御宗家様!」
 後ろの男が、袂から名刺を取り出し、イチローに渡した。和紙で梳かれた紙に、金文字で刻印された名刺は、いかにも大仰だ。一枚二、三百円はするように見える。
「おい、行くぞ!」
「ハッ、御宗家様!」
 加納鉄心は、踵を返すとせったをならしながら大股に去っていく。

「ハッ、ハハハ、可笑しい!」
 一行がホテルに入っていくと、堪りかねたように由美が笑い出した。跪いて腹を押さえている。
「由美ちゃん失礼ですよ」
 イチローは冷静に言いながらも、口元がゆるんでいる。
「だ、だってー……なによーあれ……勘違いもいいところだわ……」
 言葉も途切れ途切れになる。
「由美ちゃん、ああ言う人たちもいるんです。武道の世界では珍しいことではありませんよ」
「あんな腕前で、御宗家様ですって…」
「立ち会わなくて、腕前がわかりますか?」
「肩を怒らせて、大股で歩いて、隙だらけじゃない」
「まあ、そうですね」
「でしょ、兄ちゃんなんてだらしない格好をしていても、隙なんて全然ないんですから」
「貴彦さんと比べたら、あまりに可哀想ですよ。人にはそれぞれ立場というものがありますから……でも問題ですね」
 さすがのイチローも弁護の仕様がないらしい。


 夕食前の一時である。麗子を除く全員が「欅の間」に集合した。社長の直樹も顔をだし七人になるが、部屋はゆったりしたスペースで、伸び伸び出来る。
 直樹がホテルの業績の発表を行う。公認会計士の資格を持つ彼の報告は詳細にわたる。イチローを除く五人は、何らかの形で、倒産間違いなしのホテルを救った恩人、いわば社外取締役という立場だ。もっとも最大の功労者の麗子は顔を見せていない。
 業績は聞くまでもなく絶好調である。広域指定暴力団吉田会の保養施設になった途端に、間髪を入れず、一億二千万の入会金が振り込まれた。一組織最低五十万の協賛金も合計
三億円になった。その他に年会費が一億二千万自動的に入金になる。
 さらに、宿泊料等は通常の料金だが、見栄っ張りのヤクザは張り合って高額な料金を払いたがる。これで経営が順調でないのは不可能である。
 これらの一切を、一日でまとめ上げた麗子の才能は驚くべきものである。その彼女は会計学の知識はむろん、社会人として働いた経験もないのには二重に驚かされる。

 話しが一段落したところで、由美が先ほど庭で出くわした出来事を、おもしろ可笑しく話しだした。彼女がこれほど饒舌なのは珍しい。よほど面白かったのだろう。
「……という分けなの、面白い話しでしょ」
「うん、まあよくありげな話しだがな」
 貴彦もイチローと同じようなことを言う。
「ところで、熊田、おまえ加納鉄心とやらに心当たりがあるか?」
「貴彦さん、よく知っていますよ。やつはまあ、ゴロと言うところですかな」
「ゴロってなあに?」
 摩美も少し興味をもってきたようだ。 
「由美ちゃん、利権の匂いを嗅ぎつけ飯の種にする、寄生虫のようなものだよ」
「そこまで下品なの? でも武道の宗家だとか言ってたよ」
 由美は鉄心を少し弁護した。 
「まあ、それはまんざら嘘ではないだろうが、いい加減なものだよ。政治家、右翼、ヤクザとの間を取り持つコウモリといった方がいいかも知れない」
「弟子は居るの? 北御門流が四人だと言ったら鼻先で笑っていたけど」
「弟子を集める才能はあるらしく、四、五百人はいるはずだ」
 警視庁のマル暴が知っているのはやはり堅気とは言えない証拠であろうか。
「エッ、そんなにゴロがいるの?」
 新しく仕込んだ言葉を、すぐ使いたがるのは摩美の癖である。
「90%は真面目な武道愛好家だよ。可哀想になー、あんな宗家で…」
「おい、熊田、直神伝厳統流とやらは、どんな武術なんだ?」
「武器術、体術もある総合古武術だそうです」
「実力の程はどうなんだ?」
「よく知りませんが、大したことは無いと思いますよ」
「全然駄目よ! ねえイチローさん!」
 由美が貴彦と熊田の話しに割り込んできた。
「対戦したことがないので何とも言えません」
 貴彦のソファーに坐った姿を見ただけで、実力を感知したイチローが分からぬはずはないのだがこの男、何故だかこんな言い方をする。
 貴彦はイチローの言葉に黙って頷いた。けっこうこの二人似ているところがある。

「貴彦さん、淺草の石田組はご存じでしょ?」
 突然の直樹の言葉に、貴彦は驚いた顔をした。
「ま、まあな…」
「知ってる、知ってる! 石田組ならよく知ってるわ、ねえ兄ちゃん。社長さん、それがどうかしたの?」
 由美は懐かしそうに言う。それもそのはず、組事務所で兄妹二人が大暴れしたのだ。貴彦は既に気づいていたらしい。ホテルの正面に“歓迎! 石田組ご一行様”と大きく記されていたのだ。やはり来たか! というような顔をしている。
「いえ、組長の石田様に、北御門様を見かけたがこちらにご宿泊か? と問われましたので、そうですとお答え致しました。ご迷惑だったでしょうか?」
「いえ、そんなことはありませんが…それで何と言っていました?」
 迷惑この上ない顔をして貴彦が言った。
「今夜の宴会にぜひ出席して欲しいとのお言付けです」
「えーっ! 石田組の宴会にですか?」
 貴彦は、強く断ってくれるように直樹に頼んだが、逆に由美はヤクザの出所祝いと聞くと異様に興味を示した。 
 妹には弱い貴彦である。彼は固辞するイチローに、武術の先輩として命令に近いかたちで、宴会に出席するよう頼み込んだ。

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